狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

聖書は直接自分で読む・・・聖書のみに忠実に。映画や小説、人の解釈に惑わされないこと。

2013-05-03 12:09:03 | エッセイ・コラム
 聖書の解釈に関わる、それも根本的教義にも関わるある小説を読んだのですが、聖書についての小説を書く事は、非常に難しいと思います。それは、聖書に書いて在る事に極力忠実でなければならないからです。自分の勝手な解釈や都合で書いてはいけないものと思います。また、聖書を読んだ事の無い人が聖書に関する事が書かれた本等を読む事によって、下手をすると誤解が広まってしまう恐れも有ります。聖書の写本の場合には、文字の大きさ等までも忠実に写します。真実は、最初から永遠に変わる事が有りません。聖書は今までに全く改ざんされた事が無く、最初に書かれたものと全く同じで変わっていません
 確かにカトリック、プロテスタントに関わらず、現在のキリスト教会には多くの問題が有ります。イエス・キリストの死と復活の直後の使徒パウロが活躍されていた頃の原始キリスト教会の姿から掛け離れ、世俗のもの・財産を所有し、権力を持つ程の大きな組織に発展し、聖書そのものよりも教会組織の教えを優先している傾向が、特にキリスト教徒が多数派を占める西欧諸国等に在ります。日本のキリスト者で思想家でもあった内村鑑三は、「無教会主義」を唱えて聖書の御言葉のみに忠実で有る様にと主張しました。
 異端的な解釈・行動をする事には二つ有ります。一つは、その時点においての正統・常識とされるものが間違っている場合において、正しく修正すると言う意味での改革です。かつてのカトリック組織の腐敗のあった時にマルティン・ルターによって改革が行われてプロテスタントが生まれた事はこれに当たります。ルターは、聖書に立ち返って聖書の御言葉に忠実である様にと唱えました
 一方もう一つは正しく修正する必要が無いのに、その組織や教え等を破壊する為に業と異端的な事を行って、煽り混乱に陥れるも有ります。現在世界各地で民主化等と表面的に正しい改革を行なおうとしている様に見せかけて、実際はその国や組織、システムを破壊してその後に裏の奥の世界的権力が支配しようとしている事はこれに当たります。バチカンにユダヤ教のエージェントが侵入して、内部崩壊を促している現状も有ります。それ故に、聖書、キリスト教に関する書物や映画等はその様な意図が含まれている場合が有り、読書や視聴する場合には注意が必要となります。
 偶像崇拝律法で禁じられており、教会内に極力装飾品等を飾らずに質素で簡素である事が、本来は正しいです。そして、ネックレス等のアクセサリーに十字架等を使用する事も、良くないものと私は思います。しかし、質素な中に唯一つ十字架のみを掲げる事は、それを見てイエス・キリスト十字架上で私達の罪の為に犠牲になられた事を常に思い出して忘れない様にする為に、その象徴のものとしては正しいと私は思います
 イエスが十字架に架かられた事は天の父である神の御心のまま、神の願いであって、その事によって世の全ての人の罪が許される為の犠牲となられましたイエス・キリストは世の最初から永遠に生きておられ、現在の私達もイエス・キリストを信仰する事によって罪がキリストの犠牲によって贖われて許しを得て、罪から救われます。此の事は真実であります
 新約聖書・マタイの福音書16章21~23節その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペトロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』しかし、イエスは振り向いて、ペトロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」
 この時のペトロは、イエスの人間の部分のみを見ているのかもしれません。
 新約聖書・ヨハネの福音書1章1~3節「初めに、ことばがあったことばとともにあった。ことばは神であったこの方は、初めに神とともにおられたすべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
 同書1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方栄光を見た。のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
 同・ヨハネの手紙 第一4章2節「人となって来たイエス・キリストを告白するはみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。。 
 「ことば」=「ひとり子」=「この方」=イエス・キリスト「初めに」はイエス・キリストの永遠的存在を意味します。「神」=天の「父」「父」と「子」(イエス・キリスト)と「聖霊」の「三位一体」の、創造主である唯一の神
 以上からイエスは100%完全な神であり、且つ同時に救い主(メシア)として人として来られた100%完全な人間でもありました新約聖書・マタイの福音書8章20節以下に、イエス・キリストが自分自身を「人の子」と言われていた事が数多く書かれています。
 また、聖書には人間の解釈は入っておらず預言者、使徒を通しての神からの言葉、神の御心が書かれています
 旧約聖書・詩篇22章1~2節「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
 イエス・キリストが、十字架上で息を引き取られる前に叫ばれた事において成就(下記の新約聖書・マタイの福音書27章46節)。
 同書69章19~21節あなたは私へのそしりと、私のと私への侮辱とをご存じです。私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」
 以上「詩篇」は、ダビデの祈り(預言)
 「私は同情者を~見つけることはできませんでした。」・・・イエス・キリストが十字架上で犠牲となられる直前、前日~当日夜明け前までの間でのゲツセマネでの3回の祈りにおいて成就(下記の新約聖書・マタイの福音書26章36~46節)。
 「彼らは私の食物の~酢を飲ませました。」・・・イエス・キリストの十字架上において成就(下記の新約聖書・マタイの福音書27章34節)。
 新約聖書・マタイの福音書26章36~46節それからイエス弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。』それから、ペトロゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』それから、イエス弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。』イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエス弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。』」
 ゼベダイの子は、ヤコブとヨハネゲツセマネエルサレム東郊のオリーブ山の北西麓。「杯」は、イエス・キリスト十字架上で私達の為に犠牲となられて流される血イエス・キリストを信仰する人達との「契約の血」
 同書27章33~37節「ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王イエスである。』と書いた罪状書きを掲げた。
 「彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け 」は、次のダビデの祈り(預言)の成就。旧約聖書・詩篇22章18節彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
 新約聖書・マタイの福音書27章45~46節さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。
 同書27章48節また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
 同書27章50~51節そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。