HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

原理本体論のすすめ・・・家庭連合では忘れ去られたかの如くであるが

2017-04-27 21:39:43 | 宗教

お父さまが最も重要視された原理本体論教育

真のお父様は生涯、み言を大切にして来られた方でした。そのみ言の中でも最重要なみ言が統一原理です。

 初期の原理原本から原理解説、そして劉教会長がまとめられた原理講論と、その骨子は変わらないものの、その表現方法やみ言の説かれた範囲や深度は変わってきています。それらのみ言の総まとめとも言えるのが「原理本体論」です。真のお父様はこの「原理本体論」をとても重要視して、全食口が学ばなければならないと語られました。さらにはお母様も、子女様も学ばなければならないと強く語っておられました。


中断され行われなくなった原理本体論教育

 そのようにして、水沢里においての本体論講義が始まったのです。ところが~順調に進むかに思われた原理本体論講義が・・・  真のお父様の聖和後・・・・家庭連合内ではその教育が中断し、今では本体論の「ほ」の字も言われなくなってしまいました。何故なのでしょうか?その理由について弁解がましい説明が教会本部から発表されたようではありますが、その説明には何等の説得力もありませんでした。

本当にどうしてなのでしょうか?

 

原理本体論は何処が違うのか?

 原理本体論はそれまでの原理講義と何がどのように違っているのでしょうか?

 HOPE子も確か第2回目の本体論講義に参加したと思いますが、その講義の内容で最も印象的だった内容はと言えば、「血統」をとても重視していた!と言う印象でした。

 私たちには「愛」と「生命」と「血統」が重要である。その中でも何が重要かと言えば、それは「血統」であると教えていただきました。「血統の重要性」と言うことはあの世界巡回の時に語られた「平和メッセージ」の中でもとても強調しておられました。

 

血統の重要性を明確に教えた本体論教育

 「血統問題のの重視」が原理本体論のそれまでの原理講義とはもっとも異なる点だったと思います。その「血統」の重要性を強調した原理本体論を何故今の家庭連合では無視し、軽視し、全くその講義をしなくなったのでしょうか?はなはだ疑問です。

 一部には真のお母様の指示によるとも言われていますが、本当にそうなのでしょうか?ほかの誰かによる指示なのでしょうか?それにしてもあれほどお父様が強調しておられた本体論を何故講義しなくなったのでしょうか?

 日本の先輩家庭の中では小山田先生が、本体論の講義をするようにお父様から言われていたと聞いています。その小山田先生は本体論の講義をしなくなって・・・悩み苦しみ寝込んでしまわれたそうです。それで結果的には・・小山田先生はその後本体論の講義はされていないようです。何故なのでしょうか?

 よほど何かの不都合や問題があるのでしょうか?お父様が必ずするようにと言われた指示を無視してまで本体論講義をしない理由は何なのでしょうか?

  確かに本体論で謳われている、血統重視の考えを極めて行けば、今日真のお母様を中心としての今の体制は極めて非原理的な行動と言うことになるし、何より血統を受け継ぐ真の子女様を蔑ろにするなどと言うことはあり得ないことになります。そのあたりに、結局のところ原因があるのでしょうか?

 

創造原理の根本は二性性相の原理

 創造原理の根本は二性性相の原理である。本性相の二性性相の属性の実体である男性と女性が授受作用するというのが原理講論で説かれている二性性相の有りようであるが、これが原理本体論になると、さらに男性性相の有り方と女性性相の在り方の相違がさらに明確となり、その異なる二性が絶対性の関係で授受一体化してその位置が愛と生命と血統の結ばれる位置であり、その位置で生命が育まれ、愛が育てられ、血統が連結していくことが明確に語られていることである。この原理本体論の創造原理の解説を通して、人間の男女の在り方の理想が明確にされ、男性は男性としての在り方、女性は女性としての在り方が極めて明確となり、男女が結婚を通して夫婦となる位置がどのようなものであるかと言うことが明確に具体的に理解できるようになっているのである。

原理本体論における二性性相の説明

 原理本体論における二性性相の解説は男女の役割、中でも男女の生殖的機能の違いまで明らかになるので、男子女子が結婚して夫婦となる位置の理想的あり方が明確になることをことを通して、神様の創造理想が如何に優れたものであり、いかに感動的なものであり、そこで教えられる男女の関係する立場の理想がこれから結婚する男女にとってもすでに結婚生活をしている夫婦にとってもそれぞれの人生の目的や家庭理想の在り方が明確になることを通して大きな喜びと希望にあふれた夫婦生活を実現することに寄与する内容となっている。

 そして、この内容はこれまで人類がその歴史上において求めて来た究極的な男女の在り方夫婦の在り方家庭生活の在り方に付いての倫理的、道徳的価値を極めて明快に教える内容となっている。この原理本体論をその教育に用いれば、これまで既存の倫理観道徳観にさらなる息吹を与え、活性化して国民導遠く社会倫理の向上に飛躍的に寄与する内容となっている。

そのように見て行くと原理本体論は実にいいことずくめの内容なのである。

 

既存宗教の復興にも寄与する内容

 これは既存宗教にとってもその倫理的価値を向上させる大きなきっかけとなり、既成宗教もその教団や教派の教育プログラムに本体論を組み込むことで、諸宗教の教えもさらに教義の強化を図ることのできる内容となっています。

 本来、世界平和家庭連合がその趣旨を正しく理解して、信徒の教育に徹底して取り組めば、祝福家庭の価値性の向上とこれから祝福を受け家庭を形成していく二世の教育にも極めて効果的なプログラムを形成していくことが出来るはずでした。そして家庭連合は明確に理念的にも実体的にも家庭理想を実現していく先進的先駆者としての位相を確保して、世界平和理想実現の先駆けとしてと立場を明確にしていくことが出来たはずでした。

 だからこそ真のお父様はこの原理本体論を真の家庭自ら学ぶように語られ、まずは母である真のお母様が学ぶように、そしてすべての子女様が学ぶように指示されていたのである。そのことには深い意味があったのである。

 

家庭理想実現の先駆けとして歩まれていた子女様の家庭

そしてそのことの総責任者として、本来長子の立場の顕進様を立てて行こうとされていたのである。

 本来基元節は原理本体論そのままの理想家庭を編成した真の子女様の家庭を先立てて、世界の国家メシアが分封王として従い、全世界の諸国のトップリーダーの家庭を中心として原理本体論で方あられる家庭理想を中心としてすべての諸国民の家庭倫理の教育プログラムを完成することで実現されようとされていたのである。

 ところがこのれらの究極的摂理の実体の中心に立つ顕進様の家庭を排除し、さらにはその中核的教育プログラムであるところの原理本体論の教育をストップしてしまったために基元節を迎えるべき天宙的なプログラムは一時の中断を余儀なくされてしまったというのが事実なのである。

 

本体論を忘れ去って行こうとしている家庭連合

 今、家庭連合本体は原理本体論そのものを忘れてしまおうとしている。そのことは神様のみ旨の成就を永遠に放棄してしまうのと同様の意味がある。原理本体論の教育とその教育の実体的中心に立つ子女様の家庭無しには神様の創造理想の究極的成就はあり得ないからである。

 真のお父様がメシアとして再臨主として人類の真の父母として究極的に明らかにしたのが原理本体論で説く「絶対性」の価値観である。そしてそれは子女様、お孫様の三代圏の家庭の実体を通して実現されて行くものなのである。

原罪清算とは何か?

 罪の清算はどのようになされるのであろうか?なにかし神秘的な何物かによってなされるものではない。神様の創造理想である、創造原理的な愛の家庭理想を実現したところが人類が犯した罪、原罪清算の位置なのである。

 人類始祖の堕落によって正常的な家庭が実現されなかったのが堕落の結果であるからである。男女のあるべき秩序が乱れて男女の主管性の転倒などの犯罪行為が拡大していったのである。それは人類が堕落して本然の男女の在り方、夫婦家庭の在り方の原則がわからなくなたことに起因している。究極的男女の在り方の原理、絶対性の価値が明確になることを通して、人類すべてが堕落圏から脱出することが出来るようになることが出来ることに価値があるのである。そのことを明確に説いたことがお父様がメシアとして再臨主として人類の真の父母としての価値を顕すことなのである。


最近の宗教界事情・・宗教に「救い」はあるのか?

2017-04-27 15:36:13 | 宗教

少し前になるが昨年2016年10月号の「新潮45」に宗教特集があった。気になる記事があったので読んでみた。

「今宗教に「救い」はあるか」 とのテーマでの特集である。以下のような記事が掲載されていた。

  • 「反安倍」となった日本会議の母体「生長の家」藤倉義郎
  • 慶大卒「日本人イスラーム預言者」を支える中田考 上条昌史
  • 「反安保」で公明党に反旗を翻す創価学会員たち 西所正道
  • 全国仏経会に圧勝した「アマゾンお坊さん便」 井上理津子
  • 信者大激減時代の先にあるもの        島田裕巳
  • 三分の一の「寺院消滅」で「葬式と墓」のこれから 鵜飼秀徳

これらの特集の中で島田裕巳氏の「信者大激減時代の先にあるもの」がまず気になったので読んでみた。

 


とにかく今は世界的に宗教界の艱難の時代のようである。世界的宗教のキリスト教会においても大変動が起きているし、イスラームの世界でも大きな変動が起きている。

キリスト教会の現状 ヨーロッパを中心とした先進国においてはキリスト教の力が衰え、教会に通う人たちは激減している。一方新興工業国(BRICs諸国)ではキリスト教の福音派が伸びている。これは現世利益や病気治癒などの宣伝によるいわばキリスト教系新宗教である。これらは経済成長著しい諸国では経済格差に取り残された人々が多くあり、そういう階層の人々に広まって行っているものである。中国でも「地下教会」や「家庭教会」が伸長しているのはこれらの宗教である。

隣国韓国では一時キリスト教会の伸長が著しく国民人口の30%を超えるまでになったが、今や韓国でもキリスト教福音派の成長は完全にストップして、どちらかといえばカソリックの方に改宗するひとが増えているという。

 

イスラームの拡大 いま世界で一番信者数を増やしているのはイスラームである。特にイスラーム人口が多いのはインドネシアで、世界最大のイスラーム国となっている。インドネシアは経済成長も著しい。またパキスタンのイスラームも増加を続けていて、近い将来この国が世界一のイスラーム国になるだろうと言われている。

このままいけば今世紀末にはイスラーム人口が世界一となりキリスト教の座を奪いかねない状況である。

 

「グーグルは神に代わりつつあるのか?」

さて、今日の宗教の衰退に関して面白い観点で指摘している人物がいる。それが米国オーリン大学のコンピューターサイエンス学科の教授アレン・ダウ二ー氏である。彼は米国内で特定宗教を持たない層がどれくらいいるかを調べた調査データをもとに、1990年から2010年の間に8%から18%に増えたことと、ネット使用者の増加に相関関係があると明らかにした。

これは直接に関連があるかどうかはわからないが、実際に人が困ったり悩んだりしたときに教会を訪ねるのではなくまずはネットで調べてみる。と言うわけだ。『ウォール・ストリート・ジャーナル』電子版は「グーグルは神に代わりつつあるのか?」という特集記事を載せた

さて、イスラム圏の伸長が著しい傾向にあるということが明らかになっているが、これは東南アジアなどのイスラーム諸国の経済成長が著しいことと深く関連があると思われる。しかし、この経済成長があるレベルに達してくるといわゆる原理主義的なイスラームから、飲酒を認めたり、豚肉を食すると言ったことでなければ現実に寛容なソフトなイスラームが拡大していく傾向が強まってきている。

 

日本の宗教界の実情

さて、日本ではどうなのだろうか?日本では戦後の経済成長時代とともに新宗教が勃興し拡大したが、経済成長が頭打ちになりその成長が止まるとともに宗教団体の成長も頭打ちになり、今や完全に衰退の状況となっている。かつては大成長を遂げた新宗教教団が今では軒並みその信者数を減らしているのが実情である。例えば西日本に多くの信者を抱えて来た天理教は平成2年には180万人と報告されていた信者数が(『宗教年鑑』による)平成27年度版では116万人と25年間に三分の二に縮小してしまっている。創価学会に次ぐ巨大教団だった立正佼成会は同じ期間に634万人から283万人に減少している。そのほかの既成宗団も軒並み信者数を減らしている。創価学会は信者数827万世帯と発表していてこのところ変動はないが、かつての急成長の勢いはなく、実数は減って行っているのではとみられている。

既成仏教教団も軒並み信徒数を減らしている。東本願寺真宗大谷派は同じ期間に553万人から320万人に信者数を激減させている。西本願寺は信者数が増えていいると報告があるが、寺院数は減っている。

同じ特集の中で浄土宗の僧籍を持つ鵜飼秀徳氏の「三分の一の「寺院消滅」で「葬式と墓」のこれから」という記事では、深刻な寺院数の減少が全国で見られているとの実態が報告されている、地方の人口減少とともに閉鎖や掛け持ち、無住の寺院が増え続けているというのである。各教団とも最近20年間で、25~45%の寺院が閉鎖に追い込まれている。

都市化の波の中で檀家制度の崩壊も著しい。もう一つ別の記事  井上理津子氏による「全国仏経会に圧勝した「アマゾンお坊さん便」」にも見られる 葬儀のビジネス化も国民の宗教離れを象徴する事実ともなっている。

 

米国でもメガチャーチの衰退は著しい

いずれにせよネット化の時代はかつての巨大宗団の時代を終焉をもたらそうとしている。米国ではかつて一世を風靡したビリーグラハムなどの大復興師もその姿を見ることが出来なくなっている。メガチャーチと呼ばれた巨大教会は完全になりをひそめてしまっている。既成教団の衰退は米国でも深刻な事態を迎えている。


カリスマ的アイドルの時代からキャラクターの時代へ スマホやネットの普及はアイドル文化の世界でもカリスマ的なアイドルやスターの登場を許さなくなっている。一方的な大量情報手段の普及によるいわゆるマスコミの宣伝効果による大スターは登場することが難しい時代になってきている。今人々に受け入れられつつあるのはアイドルよりもキャラクターである。熊本大地震で大活躍したのが「くまモン」である。キャラクターはぬいぐるみでその中には誰が入っても「くまモン」になることが出来る。

安倍総理がリオオリンピックの閉会式に「マリオ」になって登場した。

この論文で島田裕巳氏は最後に、「キャラクターなら、私たちの目の前に現れ、しかも、私たち自身がそれに変身できるのだ。」と言っている。  「それはまさに多神教の神に近い存在である。宗教消滅は、多神教の復興に結びつくのかもしれない。」と結んでいる。

 

宗教の現状と未来・・・どのように展開していくのか時代の変化と共に、本来の宗教の果たす役割が問われている。

宗教教団が壊滅していく時代には、それでも人々の心を癒すなにものかが現れて、時代の要求に応えて行くようになるのだろう。

そういう先の時代を見据えていける宗教家、あるいは精神的復興の運動はその在り方や形式時代の変化とともに次の時代を形成していくに違いないだろう。

 

宗教法人[家庭連合」の未来は・・・?

宗教法人「家庭連合」はどのような道を歩んで行くのだろうか?今の時代の変化に応えられる力量を果たして備えているのかどうか?創始者の文鮮明師の教えが如何に優れていたとしても、その教えを継承していく人々の時代的感覚や、その時代にふさわしい「救い」への関与がなされなければ、教団としての命運は他の諸教団と同様、衰亡の道をたどるしかないのではなかろうか。

「宗教」とは何か?宗教に人々が求めるものは何か?あるいは宗教以外に人々の心を「救う」ものは何か?その求めるものに応えられるのが何か?その問題への答えを提供できたものが次の時代の主役になることだけは間違いなかろうと思う。

 

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尊敬心はおろか最低限の礼節さえわきまえぬ者たち・・今悔い改めなければ最後の審判を免れ得ない

2017-04-26 16:39:50 | 統一家の行くべき道

相変わらず、ブラジル事件のビデオを上映しての対策集会が行われているらしい。

実に酷い話である。例のブラジル教会で顕進様が当時の大陸会長を叱責されている映像である。すでにこの映像の中身については桜井正実さん他が、事実と背景をきちんと解説しているので論を待たないが、それにしてもこのような映像を今にもそれらしく、対策集会で用いるという神経がもはや異常である。

 

食口たちはそこまでバカではない

食口たちは、そこまでバカではない。さすがの祝福家庭たちも事の異常さに気づいてきているようである。まかり間違っても天一国の王子である真の子女様に対する礼節のかけらも感じられない、現教会幹部の所業に、心ある食口たちのみならず、日頃は教会から出される方針や指示に極めて従順な食口たちもあまりの異常さに、「おかしい!」「おかしいわね!」と言うようになってきた。

 

いくらなんでもそこまでやるなんて!

「いくらなんでもそこまでやるなんて!」たとえ今の教会幹部が繰り返し言うように「お父様が行くなと言われた」と言うような事実があったとしても、それならば直接そのように言われた幹部が行かなければいいだけの話である。お父様が直接にたとえばインターネットでも通じて全食口に語り掛けたなら別である。そうではないのである。

先のブラジルでの顕進様の大陸会長への叱責であるが、お父様でも同様な叱責をされたことはいくらでもあると聞く。お父様ももとより気性の激しい方である。あまりにひどい悪徳には厳しい叱責を為されるのが当然である。

とにもかくにも現教会幹部の顕進様を排除しようとする悪徳かつ執拗な姿勢は、まさにあのブラジルでの大陸会長の姿そのものでもある。子女様がどのような方なのかということを微塵も理解しようとする姿勢すら見受けられないのである。

 

祝福家庭にとって子女様とは神様の血統の根に他ならない

祝福家庭にとってみれば本来子女様こそ、自分たちの生命の大元なのである。祝福家庭として祝福式を通して、どうして血統転換の恩恵に浴しているのかを考えれば、当然当たり前の話である。神様の血統につながることのできる根本が子女様なのである。本来子女様無くして祝福家庭はあえ無いのである。そう考えれば尊重して尊重して尊重してもあまりある真の子女様たちなのであるから、その子女様に対する非礼の極みは言い尽くしようのない悪の極みともいうべきものなのである。

 

たとえ子女様に何らかの間違いがあっても

もしかすると、子女様にも何らかの間違いがあるかもしれない。もしや子女様にも何らかの問題があるかもしれない。しかし、それでも子女様は子女様なのである。原理的な価値と位置づけは永遠に変わることがない。

もしや誤りがあれば糺せばいいのである。もしや誤った方向に行こうとされているのならば諫言すればいいのである。そのようにアベルの子女様に間違いがあれば糺して差し上げるのがカインの子女としての祝福家庭の役目であって、子女様を排斥したり、排除することは本来あってはならないことであることは普通に考えても当たり前の話なのである。もしや不足なところがあれば、それを補って差し上げるのが、本当のカインの在り方だと学ばなかっただろうか!

ここで、カインと言う言葉を使ったが、お父様のみ言にもあるように、本当の意味での「アベル」は真の子女様であり、「カイン」は我々祝福家庭なのである。このことは原理の基本の基本である。

 

本当のアベル・カインの原則が守られなかった統一教会の歴史

残念ながら統一教会の歴史では常に真の子女様が祝福家庭から疎外され、蔑ろにされ、排斥され、排除されてきた歴史が続いてきた。

本来仕えるべきアベルの子女様を排斥し、まさに人類最初のアダムの家庭でカインがアベルを殺したような犯罪行為を繰り返してきたカインの立場の祝福家庭たちなのである。実は自分たちの神様の血統の根があることを知ってか知らずか!

おそらく、そのことを理解せずして、真の子女様から真のお父様の愛を奪ってきたのが長い間の統一教会史の側近幹部たちの歩みの歴史だったのかもしれない。

あの、釜山のボンネッコルで聖進様とそのお母様を蔑ろにしたことを皮切りに・・・

イーストガーデンでは真の子女様たちがどれほど側近幹部たちを恨めしく思われ続けて来られていたか生々しく伝えられている。

 

お父さまの夢を打ち砕いた悪そのもの

お父さまにとって何よりもの希望は子女様以外のなにものでもないことは、普通に考えれば明らかなことだろう!それでもお父様がアベルの子女である真の子女様をさておいてカインの子女である弟子や側近たちをより愛され、何か事があれば、カインの子女である祝福家庭や側近たちを叱るよりは、本来何の罪もない子女様を激しく叱責されてきたことが度々だったと聞いている。

お父さまのその胸の思いを知ることもなく、お父様が子女様を叱責されているからとして、子女様を攻撃する輩は何者なのだ!

大半の食口たちは真のお父様に直接接する機会は極めて稀であった。お父様は食口たちの直接接するときはいつもいつもその愛情を注ぎつくしてくださっていた。しかしその背後でどれほど、子女様たちが蔑ろにされ続けて来ていたかと言うことは、側近幹部しか知らないことでは無かったのか!側近幹部たちがお父様から愛されたのは、究極的に彼らが、子女様を支えて、守って神様の王国を作ってくれるものと信じていたからでは無かったのか!

 

聖書マタイ伝のぶどう園の主人と農夫の話

ああ、聖書福音書に語られた「ぶどう園の主人と農夫たち」の話を思い出す。

マタイ伝では21章のたとえ話である。(マタイ伝21.33~21・44より)

「農園の主人が収穫の季節になったので、僕を送ったら、その僕たちを殺し、自分の子どもを送ったら敬ってくれると思って送ったら、その息子をも殺してしまった。」と言う話である。

正にその悪徳な農夫たちが行ったような悪事が進行しているのである。

最早もうこれ以上の悪徳が許されていいはずがない。

 

「天が罰するでしょう!」しかし~

誰かが「天が罰するでしょう!と言ったが、もはや天でも地でも許される次元を超えている。

神様の最終み旨の成就は真の子女様の家庭にかかっている。三代圏の家庭の完成が神様のみ旨の最終的成就の鍵なのである。だから真のお父様は「顕進なしに基元節はない。」と明確に最後に語られたのである。

そのことを教会幹部は食口たちには秘密にしてきた。しかし、今はそれらのことが全て露になる時が来たのである。

真の子女様の家庭なくして神様のみ旨の成就があり得ないのに、何をもって「家庭連合」を導いていくというのであろうか!悪徳幹部の意図はすでに完全に暴露されているのである。どんなに事実を隠蔽し、嘘を嘘で塗り固めて食口を盲導しようとしても、食口たちもそこまでバカではない。今や数多くの食口がその過ちに気づき、いまそのような幹部たちに断罪の声をあげようとしているのである。

 

真のお母様の救出を!

そうだからこそ「真のお母様」を救い出さなければならないのである。今その悪徳幹部たちは真のお母様を担ぐことで自らの存在を守ろうとしている。その意図しか見えないのが事実である。

真のお母様をお救いし、真の家庭を本来あるべき姿に帰して差し上げる一番の近道は何でしょうか!それは、真実と事実を明白に明らかにしていくことです。悪徳な幹部たちの罪状を明らかにしていくことが一番の筋道です。

彼らがそのことを通して、改めて悔い改めに至るならば、彼らにも救いの道は残されているでしょう。しかし、あくまでもその悪徳な道を貫こうとするならば、今、とある無神論国家が最後の断末魔を迎えているように、最終的断罪の日が近いことを知らなければならないでしょう。

 

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産経新聞「楠木正成考」・・「公」を忘れた日本人へ

2017-04-26 14:39:16 | 歴史について

産経新聞に掲載中のシリーズ企画「楠木正成考」

産経新聞をお読みの方は、すでにご存じだと思いますが、連載企画「楠木正成考」が続いています。産経新聞本紙に連載されている記事のほかに、シンポジウムや講演会、史跡めぐりツアーなどが企画されています。

これほど大々的な「楠木正成」に関する企画はかつてなかったことでしょう。

このシリーズのサブタイトルが「『公』を忘れた日本人へ」で、「『公』に尽くす人生の意味を問うている」と紹介文にあります。

奇しくも当HOPEブログでも楠木正成について取り上げてきました。

 

真のお父様も語られた「楠木正成」 江戸時代には諸侯の治世の教科書に

真のお父様が「楠木正成が(忠臣として)いるだろう!」と言われたと聞いた方もあるでしょう。

楠木正成の人生は、戦記物として、特に江戸時代初期には太平記の注釈書も数多く出され、「太平記読み」と言う、「太平記」の講釈を職業にした人たちもいたくらいに、多くの人々になじみ親しまれてきました。

 

 

黄門さんが命じられて建てられた忠魂碑

現在楠木正成が祀られる湊川神社には、黄門さんこと水戸藩主徳川光圀が助さんこと佐々木助三郎に命じて作らせたという供養塔が境内に祀られています。

日本を代表する忠臣であるとともに、その優れた軍略や治世の在り方はその後の諸侯の治世の模範として、特に江戸初期には「太平記」が諸侯の教科書のように珍重されました。

今は忠とか、義とか言うことがすっかり失われてしまった時代です。「公」のために殉じるなどと言うのは時代錯誤のようにさえ言われてきました。

 

実は単純に主君に殉じたという人物ではなかったことが楠木正成の偉かったところ

しかし、楠木正成の生きざまは、単純に「主君に殉ずる」と言うようなものではなかったことが、その生涯を学んでみるとよくわかってきます。

このブログでも紹介してきましたが、楠木正成は仕えた後醍醐天皇にただ盲目的に従った人物ではありませんでした。もとより当時後醍醐天皇の側近を固めていた公卿たちの言うがままに生きた人ではさらさらありませんでした。

いつのときも、積極的に軍略を説き、治世のありかたについては、いつも民の生活を案じながら幅広い民衆の支持のもとで立派な治世を行っていたのです。

湊川での最後は、最後の最後まで潔く戦って、攻める足利尊氏も、深い尊敬心をもって相手として戦ったと言われています。

湊川に至る前までは、このたびばかりは官軍に理が無いことを説き、足利尊氏の声を聞き入れるように、最後の最後まで天皇に進言したものの、側近の公卿たちに撥ね退けられ万やむを得ずの出兵となったものでした。

常に「公」の立場で物事を考え、捉え、「公」に殉じ切った生涯だったということが出来ます。

 

今日統一家の問題解決の鍵も「楠木正成の生涯」に隠されているとも言えるのでは

今日統一家の様々な問題の解決にも、この楠木正成が教訓として遺してきた事柄にとても重要な意味があると思います。

「公」の精神を取り戻すことが、今日何よりも求められているのではないでしょうか!

心ある皆さん、産経新聞のシリーズにも是非目を通してみられることをお勧めいたします。

 

 

 


リバイバルの時!全てのものが失わたような‥でも一番大切なものは残っている・・・神山会長追慕集会から

2017-04-25 03:44:12 | 統一家の行くべき道

神山会長の追慕集会が全国で行われて行っています。東京、名古屋の集会に続き、最近中四国の集会も行われたと聞きます。中四国の集会はこれまで顕進様を支持して来た方たち限定の集会だったようですが、とても復興した集会だったと聞きました。

その時の感想です。

 

神山会長の生涯の歩みに感動 その聖和の姿こそ我らが模範とすべき歩み

 神山会長の追慕の映像を通していかに神山会長が、御父母様一筋に歩み続けて生涯を走りぬかれたかを知ることが出来ました。そして、そういう神山会長を家族がいつも見守りながら支持し支え続けられてこられた姿に涙しました。米国での聖和式の様子は、まさにこれこそが成約聖徒の真の聖和の姿であると実感する厳かで威厳にあふれるものでした。正に天使天軍が迎えまつられての聖和の姿を実感するものでした。

 証をしてくださった先輩家庭(米国で共に歩まれてきた渡部寿子さん)からは、神山会長がいつも御父母様に寄り添い、一心不乱に歩み続けられた姿をまざまざと思い起こされる内容で感動的なものでした。

 最後に神山裕子夫人がお話をされましたが、夫人のお話は開拓時代の神山会長との思い出話やご自身がリヤカーを引いて屑屋をしてお金を稼ぎながら、本当に大きな希望を抱いて、トップから伝道しようと、キリスト教会の牧師を訪ねたり、さらには毎日皇居を訪ねて通い続け最後は宮内庁に入れてもらった時の証しをしてくださいました。「今信仰のリバイバルを!」との言葉が胸をうちました。

 

これからも復興集会は続きます 復興(リバイバル)の時が来ています

 この30日には九州福岡での集会が予定されています。大阪でも開催されるそうですね。

今本当に裕子夫人が言われたように「リバイバル(大復興)が起きていることを感じます!反対や迫害が多ければ多いほど、復興の炎は燃え上がるものです。最後の最後、今際の息のその時まで「許せ、愛せ、団結せよ!」と叫び続けられた神山会長!最後に歌われた「人生の生みの嵐に」の歌、涙でメロディーにならず、節を外しながらも歌われる神山会長の姿に真の孝子忠臣の姿を見ました。霊界に先に怒れた、真のお父様の御許に・・・祖の御許であのアメリカの諸行事を御父母様に代わって最前線で闘い続けられたように!霊界の諸天善神を総動員し、霊界のすべての善霊人達を総動員して、地上に協助を始められている姿を実感させられました。

ふと、現日本教会指導部がこの集会に「行くな、見るな、触れるな!」との通達を出す意味が分かったような気がしました。

 

今はこんなに少ない者たちだけれど

今は、こんなにわずかの者たちしかいないけれども、善神善霊が共にある我らの歩みはこれから限りなく発展していくに違いない!との思いを強くさせられました。

本当に純粋に、純真に始められた我らの運動がいつの間にか様々な人間の欲望の中で、組織が大きくなればなるほどその純粋さや純真さが失われて、欲望や、初めは些細だった邪な思いが、そのうち拡大して、神様のため、み旨のためと言う歩みが、何時かしら自らの保身や欲望の虜になってしまってきた日々があったのではと思わされます。そんな私たちの心に巣くった闇の思いが、いつかしら結実して、御父母様や真の家庭を蔑ろにして、私たちの運動自体を貶める結果を招いてきてしまったのではないかと思います。

今もう一度初心に帰るべき時です。純粋無垢にひたすら神様の愛を求め、神様の愛の理想の世界を実現するために、どんなに貧しくても、どんなに自分自身に力が足らないと思っても、大きな希望を胸に抱き、前進し続けることが必要なその時と思います。

 

だからリバイバルです

だからリバイバルです!あの初期の生き生きとした精神を取り戻して、大復興を始める時です。老いも若きも・・・・

偽りはいずれの日にか滅びて無くなって行くものです。誰がどうしようとしても崩れかかった建物の崩壊を防ぐことは出来ません。但しその建物の中にまだ多くの家族や仲間があれば、脱出を呼びかけなければならない時なのかも知れません。

 

法華経にある「三車火宅の譬え」

法華経にある「三車火宅の譬え」の教えを思い出しました。

法華経の詳しい教えはわかりません。しかし、この三車火宅の譬えは、わかり易い譬えです。

長者の家が火事になった。その中で遊ぶ長者の子供たち、「火事だよ!」と叫んでも子供たちは遊びに夢中で出てこない。そこで知恵をめぐらした長者は子供たちが日ごろほしがっていた「羊車、鹿車、牛車がああるよ!」と叫ぶと子供たちは火宅から逃げ出してきた!そこで逃げ出した子供たちに大白牛車を与えたと言う譬えです。

ここで三車と言うのは、羊車(聲聞)、鹿車(縁覚)、牛車(菩薩)で、煩悩の炎にもまれた者たちが三車で象徴された修行を行えば、大白牛車(佛、最高の悟りの境地)を与えられるというたとえ話です。

法華経の教えは現代人には難解に思える点があるかもしれませんが、極めて真実を説いた教えであると思います。

 

私はこう理解してみました

私はわかり易く解釈してみました。

法華経の意味とは多少違っているかもしれませんが、三車と言うのは私たちの信仰の修道、すなわち、真理を学び、ただしい行い・善の行いをなし、豊かな心を養うこと。と理解しました。そうすることで神様の心情と一つになり神様の愛とともにある自分となって、すなわち天国人となって天国に入るものとなる・・そのように理解してみたらいいのではないでしょうか!

具体的には真理を学ぶ・・すなわちみ言を訓読して、そのみ言のごとく考え実践する。すなわち愛の実践を為し、そして真の愛の平和理想世界の実現に邁進する。そういう私たちになることではないでしょうか!それはまさにリバイバルです。

私たちは邪な心や時代があったことを悔い改めて真理と真実の教えの方向にかじ取りを為して、新しい復帰の道への前進を始めて行く時です。そうすることを通してすべてが蘇るその時を迎えているのではないでしょうか!

 

全てのものが失われたように思う、でも一番大切なものは残っている

今私たちは様々なものが失われたかの如く思うけれども、実は一番大切なものは残っていたのです。それは真実を求めて歩もうとする「良心」です。お父様は「良心は両親に優り、良心は先生に優り、良心は神様に優る!」と教えていただきました。  ただ親の教えに従え、先生の教えに従え、神様の教えだからそれに従えとは言われてないのです。

いま教会では「御父母様の教えだからそれに従え!」と強調しています。そう言えば言うほど、真実や真理からは遠ざかって行ってしまっているのです。今は「良心の叫び」に聞き従う時です。その良心の声を自覚するために真理のみ言を訓読するのです。そこから自らの意思に従って神様のみ旨はなんであるか、行くべき道は何処にあるかを自ら悟って歩むべき時なのです!

 

自ら心に定めて歩みを始める時

櫻井節子夫人と神山裕子夫人は、自ら「皇居に行こう」と心に定めて、精誠を込めて毎日皇居前に行かれました。その誠実さに宮内庁の方も感動されて、中に通してくださったのです。今私たちが学ぶべきはその誠実さその真実を求める真摯な姿なのではないでしょうか!そして生涯を神様と御父母様の願いを求めて歩み続けられた神山会長、その御跡を慕って歩む我らとなりたいものです。

 

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