古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第十七章 潮岬会合 その八十一

2013年06月02日 07時15分22秒 | 古文書の初歩

乍恐口上書のページはまだ四ページほど続いているのですが、不思議なことに次の「一当年新ニ」から始まる、以下の文書は何故か重複しています。全く同じ文章ではなく、所々異なる箇所もありますが、ほぼ同一なので、ここの「已上」で終了させて戴きます。興味の有る方は、念のため、五月十四日の第六十二の六行目中ほどを見て昨日の第八十の三行目からと比べて見て下さい。

潮岬会合のまとめ

「潮岬会合」という名称は、明治以降に名付けたものと考えられ、古文書にはその名前で書かれたものは見あたりません。文中では、「我々」とか「我等組中」とか書かれていますが、正式な会合名は出ていません。しかし「串本のあゆみ」には、「岬組合」という旗の写真と、「岬組合印」という焼印判の写真が出ていますので、組合の名称としては、この「岬組合」と呼ぶのが正しいと思われます。しかし、現在ではこの歴史的な鰹漁に関する組合の事を「潮岬会合」と呼んでいますので、本文もこの名前で統一する事にします。

明治末期の「漁業組合」は、市町村単位で設立され、組合員は個々の漁師が加入していました。戦後は「漁業協同組合」と言う名称になり、この場合もその組織は市町村単位で、組合員は個々の漁師の組織でした。(現在は単位組合が合併して、広域の組織となっています。)しかし、潮岬会合は、組合員は個々の漁師ではなく、潮岬を中心とする近隣浦村と漁業者の共同体であり、近世としては珍しい、広域の組織であるところに特色が有ります。

「会合」と呼ばれる所以『ゆえん』は、近隣十八ヶ浦の代表が、毎年一定の日に潮御崎神社(水崎明神)『みさきみょうじん』に集まり、神前の会議により、漁業に関する事件や規則を決した事から、この名称が附されたもので、信仰に支えられた会議体でもあります。

本古文書は、潮御崎神社所蔵の文書綴り「普請諸入用控」という表紙の綴り込みの中に、神社の普請とは関係のない、鰹漁会議の文書が一緒に綴り込まれています。原本は、大事に金庫に収納されていて、我々が見る事のできるのは、原本をバラして一枚づつコピーしたものになります。コピーした文書は、綴り込みの際に一部順序を間違っている箇所も有り、私達が習った文書ではその部分が欠落していました。この度、神社の宮司さんに御願いして、欠落部分を写真に撮らせて戴き補完したつもりでいましたが、なお少し欠けている箇所があります。(続く)

 


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