中之島・国立国際美術館。
50年代末の、棺桶の中にセメントなどでできたオブジェが横たえられている作品ばかり20点も見ることができた。荒川修作のこのタイプの作品は色々な企画展示でもよく見かけるけど、一点だけで見るよりこうしてまとめて見た方がコンセプトがわかりやすくなると思う。だいたい何で棺桶なのか、ということもよく考えてみたことがなかったけど、要するにこの大小のオブジェは一つ一つが「死体」=「body」なのだ。そう思って見ると、綿が練り込まれたり、奇妙な金属片が配置されたりしたコンクリートの塊のそれぞれが多様な「身体イメージ」として現れてくる。いびつな形状は、人間とは似ても似つかないものもあれば、背骨のような長細い(しかし人間にしては長過ぎる)ものもあり、そこに異様な凹凸や裂け目があったり、異質なテクスチャーをもつ部分があったりする。もし視覚イメージに頼ることなしに「身体」をイメージするとしたら、例えばこんな風になったりするんではないだろうか、と思わされる。ツルツルと丸みを帯びた部分は、その滑らかさが「水分」を連想させるせいか、臓器を思わせるし、かと思えばあからさまに足型や手型のようなものが押し当てられていたりもする。棺桶内部に張られた布のゴージャスな人工性が、「身体」の「不気味」さをあぶり出していて、とても面白く見られた。さらにこの企画展示に合わせて所蔵品展でも荒川の平面作品が四点出ていた。年代的には棺桶オブジェシリーズの直後、NYに移ってすぐの頃のもので、何かの図面みたいな線や形と文字が美しく配置されている。正直どれも独特の難解さで、なかなか腑には落ちないけれども、「知覚」や「意味」の根っこのところをスパッと切り裂いているように感じられるのは、画面内に主題も中心も見当たらず、それでいて作品全体がまとまりのあるオブジェのようなものにもなっていないからだろうか。図面とオブジェの中間、観念と物体の中間、そのどちらともいいがたい状態。ともあれ50年代の作品と連続して見ることで荒川修作のやっていることに今までより深いところで触れられたような気がした。
50年代末の、棺桶の中にセメントなどでできたオブジェが横たえられている作品ばかり20点も見ることができた。荒川修作のこのタイプの作品は色々な企画展示でもよく見かけるけど、一点だけで見るよりこうしてまとめて見た方がコンセプトがわかりやすくなると思う。だいたい何で棺桶なのか、ということもよく考えてみたことがなかったけど、要するにこの大小のオブジェは一つ一つが「死体」=「body」なのだ。そう思って見ると、綿が練り込まれたり、奇妙な金属片が配置されたりしたコンクリートの塊のそれぞれが多様な「身体イメージ」として現れてくる。いびつな形状は、人間とは似ても似つかないものもあれば、背骨のような長細い(しかし人間にしては長過ぎる)ものもあり、そこに異様な凹凸や裂け目があったり、異質なテクスチャーをもつ部分があったりする。もし視覚イメージに頼ることなしに「身体」をイメージするとしたら、例えばこんな風になったりするんではないだろうか、と思わされる。ツルツルと丸みを帯びた部分は、その滑らかさが「水分」を連想させるせいか、臓器を思わせるし、かと思えばあからさまに足型や手型のようなものが押し当てられていたりもする。棺桶内部に張られた布のゴージャスな人工性が、「身体」の「不気味」さをあぶり出していて、とても面白く見られた。さらにこの企画展示に合わせて所蔵品展でも荒川の平面作品が四点出ていた。年代的には棺桶オブジェシリーズの直後、NYに移ってすぐの頃のもので、何かの図面みたいな線や形と文字が美しく配置されている。正直どれも独特の難解さで、なかなか腑には落ちないけれども、「知覚」や「意味」の根っこのところをスパッと切り裂いているように感じられるのは、画面内に主題も中心も見当たらず、それでいて作品全体がまとまりのあるオブジェのようなものにもなっていないからだろうか。図面とオブジェの中間、観念と物体の中間、そのどちらともいいがたい状態。ともあれ50年代の作品と連続して見ることで荒川修作のやっていることに今までより深いところで触れられたような気がした。