吉祥寺・WINDS GALLERY、昼。
▼『出産衝動』
妊娠中の手塚によるソロ。水上バスの時のパフォーマンスに似たもので、大きく膨らんだ腹部に紙のスクリーンを取り付け、そこに映写される様々なアニメ映像(主に出産にまつわる。本田一雄+中泉さとこ制作)の上からクレヨンでジグザグの線を描いていく。紙は左手でバリバリと引っ張って動かす。時に心電図のようでもあり、また超音波映像のようにも見える。そんな「説明」されても困る、という作品。約10分。
▼『私的解剖実験-4(振付バージョン)』
昨年手塚がソロとして初演した『私的解剖実験―4』を、木村美那子、廣井陽子、山縣太一の三人に振り付けたもの。それぞれが普段、無意識の内にしている細かな仕草や癖、特徴的な動作などをヴィデオ録画によって採取し、そこからフレーズを起こして振りを組み立てているようだ。『3』までと比べると方法論はずっと明確だが、意識と無意識の間をつなぐブラックボックスとしての身体という主題は連続している。ガラス張りのギャラリーなので、夏の午後の強い陽が射し込み、明るい。客席に背を向けてイスに座った廣井が、右腕をスッと持ち上げ、首を少しだけそちらに向ける。腕を降ろし、顎を引いて虚空を見つめる。誰かと話しながら笑っているかのように、頭を後ろに反らせたかと思うと、両手を頭の後ろに組んで落ち着いたりする。透明感のある空間と相俟って、瑞々しく繊細な情景が生まれる。そこへ山縣がイスを持って入ってくる。何かに驚いたように両手を広げたり、目を見開いたり、掌の匂いを嗅ぎ、それを人にも嗅がせようとする。さらに木村が現れ、今度は山縣と完全なユニゾンを演じた後、ソロになる。木村も笑って、大きく前屈みに動く。最後は全員のユニゾン。約20分。型には還元し切れない微妙な動きを、マイム風のアイソレーションで整理し、反復可能なフレーズに仕立てている。日常的な動作が正確かつリズミカルに繰り返されるのを見ていると、今にも言葉や笑い声が聞こえてきそうだが、しかし「無言」と「反復」によって身体の生々しさがオブラートにくるまれ、ささやかな日常の風景が何か遠い過去の出来事としてフラッシュバックしているような錯覚が引き起こされる。さらに柔らかいロックやボサノヴァなどが聞こえてくると、演劇とダンスと映画のあわいに漂いながら「自分は今何を見ているのか」と動揺せずにはいられなかった。こういう根本的な驚きのある舞台には、ともかく無条件で賛意を表したくなる。舞踏のような微細な動きに、舞踏とは違ったルートからアプローチしているともいえるが、日常動作の断片を基にした動きを単に語彙として採用するだけでなく、語と語の間をつなぐ文法や、変奏のロジックがより複雑に体系化されてくると振付としては面白くなると思う(すると今度はフォーサイスに別ルートからアプローチ、ということにもなりそうだ)。手塚らしいセンスの良さが、特に空間構成など演出面で際立った美しい舞台だった。ここらで再びチェルフィッチュとのセット公演を見てみたい気もする。
▼『出産衝動』
妊娠中の手塚によるソロ。水上バスの時のパフォーマンスに似たもので、大きく膨らんだ腹部に紙のスクリーンを取り付け、そこに映写される様々なアニメ映像(主に出産にまつわる。本田一雄+中泉さとこ制作)の上からクレヨンでジグザグの線を描いていく。紙は左手でバリバリと引っ張って動かす。時に心電図のようでもあり、また超音波映像のようにも見える。そんな「説明」されても困る、という作品。約10分。
▼『私的解剖実験-4(振付バージョン)』
昨年手塚がソロとして初演した『私的解剖実験―4』を、木村美那子、廣井陽子、山縣太一の三人に振り付けたもの。それぞれが普段、無意識の内にしている細かな仕草や癖、特徴的な動作などをヴィデオ録画によって採取し、そこからフレーズを起こして振りを組み立てているようだ。『3』までと比べると方法論はずっと明確だが、意識と無意識の間をつなぐブラックボックスとしての身体という主題は連続している。ガラス張りのギャラリーなので、夏の午後の強い陽が射し込み、明るい。客席に背を向けてイスに座った廣井が、右腕をスッと持ち上げ、首を少しだけそちらに向ける。腕を降ろし、顎を引いて虚空を見つめる。誰かと話しながら笑っているかのように、頭を後ろに反らせたかと思うと、両手を頭の後ろに組んで落ち着いたりする。透明感のある空間と相俟って、瑞々しく繊細な情景が生まれる。そこへ山縣がイスを持って入ってくる。何かに驚いたように両手を広げたり、目を見開いたり、掌の匂いを嗅ぎ、それを人にも嗅がせようとする。さらに木村が現れ、今度は山縣と完全なユニゾンを演じた後、ソロになる。木村も笑って、大きく前屈みに動く。最後は全員のユニゾン。約20分。型には還元し切れない微妙な動きを、マイム風のアイソレーションで整理し、反復可能なフレーズに仕立てている。日常的な動作が正確かつリズミカルに繰り返されるのを見ていると、今にも言葉や笑い声が聞こえてきそうだが、しかし「無言」と「反復」によって身体の生々しさがオブラートにくるまれ、ささやかな日常の風景が何か遠い過去の出来事としてフラッシュバックしているような錯覚が引き起こされる。さらに柔らかいロックやボサノヴァなどが聞こえてくると、演劇とダンスと映画のあわいに漂いながら「自分は今何を見ているのか」と動揺せずにはいられなかった。こういう根本的な驚きのある舞台には、ともかく無条件で賛意を表したくなる。舞踏のような微細な動きに、舞踏とは違ったルートからアプローチしているともいえるが、日常動作の断片を基にした動きを単に語彙として採用するだけでなく、語と語の間をつなぐ文法や、変奏のロジックがより複雑に体系化されてくると振付としては面白くなると思う(すると今度はフォーサイスに別ルートからアプローチ、ということにもなりそうだ)。手塚らしいセンスの良さが、特に空間構成など演出面で際立った美しい舞台だった。ここらで再びチェルフィッチュとのセット公演を見てみたい気もする。