新宿・シネマスクエアとうきゅう。
いかにも「余計な要素を削ぎ落とした」といわんばかりの固定画面や長回しが、どうしてこうも白々しく見えてしまうのか不思議なくらいで、しばらくはその頼りない不安定感に身を委ねてみようと思っていたのだが、どうしてもここには何も見つからない。無頓着に投げ出したようなフレームが、ものを見たり映したりすることの楽しみでもって生気づけられ、緊張(張り)と弛緩(ユルみ)とが相互に高め合って画面の味を濃くしていくというような、ごくありふれた効果をいやらしく狙っている印象を受けてしまう。特にドラマが始まる前の序盤は、格好の付きようもない生活感や日常風景をあられもなくぶっちゃけているように見えながら、いちいちディテールが押し付けがましく主張してくる。なぜかマシュー・バーニーが日本で撮影した『拘束のドローイング』が思い出されたのだが、つまり自分にとって見慣れているもののディテールの浮き立ち方が似ているのだと思う。ただしバーニーのカメラが、見知らぬ空間に身を置きながらエキゾチックな被写体や光景を嬉々として、極端に力んで見て、写しているせいで、我々にとってはその意気込みゆえの脇の甘さとでもいったらいいのか、絞り込んだ焦点の外に広がっている部分(我々には見えるがバーニーには見えていない)に対する無防備さ、無邪気さが、退屈な画面にかえって予想外のディテールを呼び込んでいるように思えたのに対し、松本のカメラが画面に映し出すものはことごとく計算され、予め見るべきディテールとして指定されていて、見る楽しみがない。画面が硬直しているのは、演技のまずさにも通じていて、松本の家の窓が割られる瞬間が、唐突ゆえにショッキングではありながら、そのショックがすぐに画面内で酷薄な無感動として立ち上がるのではなく、見る者を単純に映画に対してシラけさせる感じへと蒸発してしまうのは、松本のリアクション(の無さ)があまりにも見え透いていてリズムを欠いているからだと思う。リズムのなさは、CGの格闘場面でますます著しく、個々の被写体の動きが遅いとか速いとかいった以前に、画面が全く動きを感じさせない。なぜ自分が松本人志の映画に何らかの期待を抱いたのだろうと考えてみると、やはり北野武がいたからに違いなく、しかしこの映画はむしろ、もう『ソナチネ』を撮ってしまった後の北野に似ていた。
いかにも「余計な要素を削ぎ落とした」といわんばかりの固定画面や長回しが、どうしてこうも白々しく見えてしまうのか不思議なくらいで、しばらくはその頼りない不安定感に身を委ねてみようと思っていたのだが、どうしてもここには何も見つからない。無頓着に投げ出したようなフレームが、ものを見たり映したりすることの楽しみでもって生気づけられ、緊張(張り)と弛緩(ユルみ)とが相互に高め合って画面の味を濃くしていくというような、ごくありふれた効果をいやらしく狙っている印象を受けてしまう。特にドラマが始まる前の序盤は、格好の付きようもない生活感や日常風景をあられもなくぶっちゃけているように見えながら、いちいちディテールが押し付けがましく主張してくる。なぜかマシュー・バーニーが日本で撮影した『拘束のドローイング』が思い出されたのだが、つまり自分にとって見慣れているもののディテールの浮き立ち方が似ているのだと思う。ただしバーニーのカメラが、見知らぬ空間に身を置きながらエキゾチックな被写体や光景を嬉々として、極端に力んで見て、写しているせいで、我々にとってはその意気込みゆえの脇の甘さとでもいったらいいのか、絞り込んだ焦点の外に広がっている部分(我々には見えるがバーニーには見えていない)に対する無防備さ、無邪気さが、退屈な画面にかえって予想外のディテールを呼び込んでいるように思えたのに対し、松本のカメラが画面に映し出すものはことごとく計算され、予め見るべきディテールとして指定されていて、見る楽しみがない。画面が硬直しているのは、演技のまずさにも通じていて、松本の家の窓が割られる瞬間が、唐突ゆえにショッキングではありながら、そのショックがすぐに画面内で酷薄な無感動として立ち上がるのではなく、見る者を単純に映画に対してシラけさせる感じへと蒸発してしまうのは、松本のリアクション(の無さ)があまりにも見え透いていてリズムを欠いているからだと思う。リズムのなさは、CGの格闘場面でますます著しく、個々の被写体の動きが遅いとか速いとかいった以前に、画面が全く動きを感じさせない。なぜ自分が松本人志の映画に何らかの期待を抱いたのだろうと考えてみると、やはり北野武がいたからに違いなく、しかしこの映画はむしろ、もう『ソナチネ』を撮ってしまった後の北野に似ていた。