やっとライヴ映像が出た。ここ数年、ふだん自発的に聴く音楽のうち95%はCKBという状態になっている。狂ったように聴き通しで、我ながらこれは馬鹿げていると思い、CDを棚に戻してみるのだが、すぐにまた出してきてしまう。97年にケミカル・ブラザーズの『Dig Your Own Hole』が出たとき、友人が「もう他の音楽いらないや」と発言し、動揺した。確かに同感なのだが、しかしどういうことなのか。もうこれ以上、生きていても仕方ないということではないのか。「芸術の終焉」ということではないのか。もっともこれはケミカルの音楽がもたらす快楽が、圧倒的な水準で(しかもひどく容易に)プラトーを迎えてしまうという意味で言われていたのだが、CKBの場合にも、違う意味で同じ言葉が当てはまる。ぼくは体系的に音楽を聞くということをあまりしないので、歴史とか系譜とか人脈とか「名盤」とかもよくわからないし、むしろわけ知り顔で「古典主義」的なリコメンをされたりすると「死んでも聴くまい」と思ってしまったりするのだが、CKBのフィルターを通すと、ジェームズ・ブラウンも、オーティス・レディングも、矢沢永吉も、和田アキ子も、「ソウル」や「ボサ」や「ラップ」も、それどころか「ブラコン」や『円楽のプレイボーイ講座12章』に至るまで、すべてその「良さ」が骨の髄から感得される。この説得力の源は何なのかといえば、それはCKBの音楽の「良さ」以外の何ものでもなく、要するに「身をもって証明する」という、ただの薀蓄野郎には真似のできない芸当であって、ぼくが一番関心のない(というかキライな)「ロック」でさえ好きになってしまいそうなほどである。というか、小野瀬雅生の『イカ釣り船』や『美人』も、これがCKBの曲でなかったら決して好まなかったに違いないが、横山剣がOKを出している以上もはやそれは絶対に信頼すべきなのであり、信頼さえしていれば遅かれ早かれその「良さ」が腑に落ちてくるに決まっているのである。そしてここまで好きになってしまったものに対する人の感覚と直感はますます研ぎ澄まされていくから、微細な差異や連関を際限なく発見しては、それが含んでいる快楽の奥行きの深さに驚嘆することになる。ケミカル・ブラザーズが、圧倒的な生の快楽によって実はさりげなく死をリコメンしている気がするのに対して、CKBをとっかえひっかえ繰り返し聴いているといくら長く生きても足りない気がしてくる。わずか数枚のCKBでさえいつまでも聴き尽くせないし、その上CKBの一曲一曲が、人類の作り出した膨大な音楽史の存在の厚みを絶えず暗示するからだ。思えば01年頃にライヴ盤『青山246 深夜族の夜』が試聴機に入っているのを、「スペシャルゲスト・野坂昭如」にひかれて、つまりは色物として聴いてみたのが始まりだった。すぐにライヴへも行った。なぜか亀戸で(「亀戸大作戦」と題されていた)、ドラムは舞台上手に横向きにセットされ、そして座りライヴだった。CKBに独特なのは、音楽的快楽の頂点において、あろうことか「笑い」が強制されてしまうところだと思う。感極まって、自分が自分でなくなってしまいそうな、まさにその瞬間に、力を抜かれる。明らかに異常な、他ではまず味わえない感覚。このDVDは去年のツアーのファイナルだが、最近は以前 viewsic で生中継した渋谷AXのライヴの録画(たぶん同じツアー)をずっと見ていたので、それと比べると全体の流れにうねりが乏しい気がするが、こっちには『777』からの曲が多く入っている。『ベレG』からJBにつながる辺りの盛り上がりは素晴らしいし、渚ようこはいないがライムスターが出てくるし、菅原愛子の歌がだいぶ上手くなっている。ちなみにダンス関係では、マニアックなところで、木佐貫邦子+neo などに出ている MILLA が『あ、やるときゃやらなきゃダメなのよ』で踊っている。けっこう大きく写る。
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