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ダンスとか。

黒田育世/BATIK 『花は流れて時は固まる』

2004-03-02 | ダンスとか
新宿・パークタワーホール。
幕開けはピアノ(サン=サーンスの『死の舞踏』)で旋回する黒田ソロ、そこから舞台両脇へジグザグに走って三人のダンサーが呼び出されてくる。「分裂する自我」の主題は『SIDE B』の冒頭と同じで、またもや思春期少女ドラマなのだが、前半部分はかつてないほどバレエ系(というか「クラシック」系文化)のリファレンスに満ちている。青白い照明の中にボウッと女たちが立っているのなどはロマンティック・バレエの符丁であるし、プロコフィエフのロミジュリが筋とは無関係な配列で使われもする。舞台手前に作られた水路に青い花が浮かんだり、女が中でジャブジャブしたりするのはオフィーリアを連想させ、シェイクスピアつながり。しかし黒田は偶々「教養」主義的な資本をもっているというだけで、その中身を相対化したり批評したりするモダンな悪意は別にない。この無邪気さは矢内原美邦のダンス史的批評性とは対極にある。例えばこの「ロマンティック・バレエ」の少女漫画ミックスをもっと自覚的に押し進めて、ビーダーマイヤー的小市民と今の日本人の感受性を重ねてみせたりするとかは振付家の仕事ではないのだろうか。動きのヴォキャブラリーに関してもだいたい同じことがいえる(振付自体にさほど斬新な点はない)。さてプロコフィエフと同時に照明がピンクに変わり、黒田がいなくなる中盤は流れに必然性が感じられず、埋め草にしか見えなかったのだが、ダンサーたちが上半身裸になり、クリムゾンがかかってラインダンスが始まる辺りから後半が面白かった。胸を手で隠しているのが何とも不恰好で、見せられないなら別に無理しなくてもという感じなのだが、そのいかにも小市民的なショボい偽悪性が半ばヤケクソ気味にギャグへと転化していく展開が危うくてグッドだ。それだけに結局一人だけ胸を出せる人がいたのは残念としか言いようがない。せっかく「隠す」ことが「出す」の否定形という地位から逸脱しかけたのに、これでは元の木阿弥ではないか(ちなみに上半身丸出しにして吠えまくる姿はフォーサイスの『エイドス:テロス』に出てくるダナ・カスパーセン=蜘蛛女そっくり)。ラストは全員が青い衣装になり、舞台奥のイントレ上のハシゴにダンサーたちがよじ登っては落ち、よじ登っては落ち、他方舞台上では再び黒田のソロになる(チラホラと勅使川原風の振りが…)。ストーンと垂直に落下する形はダムタイプ『S/N』を思い出させるが、着地するところまでしっかり見えるのはむしろ黒沢清の『回路』におけるあのノーカット落下シーンさながらであり、しかも落ちてから何度でも起き上がってまた悲鳴をあげつつ飛び降りる、死なない(死ねない)自殺サークルな光景は凄惨で馬鹿馬鹿しくて良かった。まるで上下逆転した花火が黒田ソロを祝福しているかのようだ。フライヤーそのままの舞台だから、イメージは前作『アウラ』を引き継いで早くから固まっていたのだと思うが、初の単独公演ということもあって長尺の構成に苦労したのではないか。65分。40分くらいではどうか。
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