dm_on_web/日記(ダ)

ダンスとか。

Dance Theatre LUDENS 『Creation 2009』

2009-08-15 | ダンスとか
ダンスがみたい!11

日暮里・d-倉庫。
最初のうちは何をやっているのかなかなかつかめなかったが、がんばって見ているうちに、ベケットの『ゴドーを待ちながら』から「終わりなき時間を遊び戯れるしかない人々」というイメージを引き出したとパンフレットに書いてあったのを思い出したためか、だんだん見る側としての意識の焦点が定まって行った。というか、意識の焦点が定まらずにあちこち飛ばされ続けるということを自分で意識できるようになったら、そこから面白くなった。小道具の受け渡しとか、大振りなフォルムの振付や、複数の身体の絡み合わせ、半作為的なアクションの反復など、モティーフそのものはいつもとそう変わらないのだが(とはいえ小道具や衣装はいつになく具象的)、即興的な要素が強くて、どこまでが振付でどこからが即興なのかが常に判然としない。初めはルールの起点を作る誰かの判断の恣意性が鼻についてしまい、要するにグランド・ユニオン的なことかなと思っていたが、ほとんどゲームのような状態になって、かなり白熱しているように見えても、ダンサーたちの動きの流れがいつの間にか明白に予定された段取りへ吸収されていったり、またそこからいつの間にか予測不能の混戦状態になっていったりして、どうしても境目がつかめない。そういう流動性がおそらく異様に細かく緻密に作られていて、それ自体がまた観客に対して仕掛けられた一つのゲームであるように思えて来ると、奇妙な意識状態になっていった。能動と受動、意識と無意識の、両極の間を漂っているような、それこそダンスやスポーツ、ゲームをしている当事者に近い状態。作品としてはまだ途中段階らしく、先があるようだが、ともかく何かすごいことをやっていると思った。
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肉体関係 『48』

2009-08-15 | ダンスとか
こまばアゴラ劇場、昼。
振付・演出・出演/京極朋彦、出演/富松悠
初めて告知を見た時にユニット名、作品タイトル(四十八手)が気になってチラシを取っておき、そして実際に予定を決めて予約をして電車に乗って着席して開演まで待つ――こうして勝手ながら長期に渡り持続させて来た期待が、男は自分の股間のあたりを、女は自分の胸のあたりをつかむ仕種を反復し始めるあたりで早々に萎み始めてしまった。肉体ではなくて肉体の記号、肉体関係ではなくて肉体関係の記号。そして当然のことながら、社会的に承認済みのリズム、保険のかかった笑い、コードとしてのエロで最後まで行く。眠い。既成の共通了解に基づいて物質的なディテールに目をつぶってしまえば作品らしきものはいつでも一丁上がりなのだ。これよりよほど多様で、繊細で、予測不能で、アーティスティックな現実の方を、まさか彼ら彼女らが知らないはずはあるまいと考えると、要するにこれは肉体関係なる題材に作り手自身が照れてしまった結果なのか。私的空間の秘事と、公的な場における上演の間の距離(ギャップ)、そこに課題を設定することによって何か未知の出来事を引き起こすこともできたのではないか。ちなみに四十八手の実演みたいなもの(といってはおそらく失礼なのだろうが)は、今は亡きチャンドラレーカの作品で見たことがあり、それはそれでエロスの名人芸(virtuosity)的な、見た目ほどは初期ベジャールなどから遠くもないパフォーマンスだったように思うが、そういう「神秘主義」的な外観もまた、私的なものと公的な場とをつなぐ一つの手法といえる。それに対して、肉体関係の『48』はエロスを「下ネタ」化して取り組みを回避してしまう。誠実とはいえないと思う。
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