こまばアゴラ劇場、昼。
振付・演出・出演/京極朋彦、出演/富松悠
初めて告知を見た時にユニット名、作品タイトル(四十八手)が気になってチラシを取っておき、そして実際に予定を決めて予約をして電車に乗って着席して開演まで待つ――こうして勝手ながら長期に渡り持続させて来た期待が、男は自分の股間のあたりを、女は自分の胸のあたりをつかむ仕種を反復し始めるあたりで早々に萎み始めてしまった。肉体ではなくて肉体の記号、肉体関係ではなくて肉体関係の記号。そして当然のことながら、社会的に承認済みのリズム、保険のかかった笑い、コードとしてのエロで最後まで行く。眠い。既成の共通了解に基づいて物質的なディテールに目をつぶってしまえば作品らしきものはいつでも一丁上がりなのだ。これよりよほど多様で、繊細で、予測不能で、アーティスティックな現実の方を、まさか彼ら彼女らが知らないはずはあるまいと考えると、要するにこれは肉体関係なる題材に作り手自身が照れてしまった結果なのか。私的空間の秘事と、公的な場における上演の間の距離(ギャップ)、そこに課題を設定することによって何か未知の出来事を引き起こすこともできたのではないか。ちなみに四十八手の実演みたいなもの(といってはおそらく失礼なのだろうが)は、今は亡きチャンドラレーカの作品で見たことがあり、それはそれでエロスの名人芸(virtuosity)的な、見た目ほどは初期ベジャールなどから遠くもないパフォーマンスだったように思うが、そういう「神秘主義」的な外観もまた、私的なものと公的な場とをつなぐ一つの手法といえる。それに対して、肉体関係の『48』はエロスを「下ネタ」化して取り組みを回避してしまう。誠実とはいえないと思う。
振付・演出・出演/京極朋彦、出演/富松悠
初めて告知を見た時にユニット名、作品タイトル(四十八手)が気になってチラシを取っておき、そして実際に予定を決めて予約をして電車に乗って着席して開演まで待つ――こうして勝手ながら長期に渡り持続させて来た期待が、男は自分の股間のあたりを、女は自分の胸のあたりをつかむ仕種を反復し始めるあたりで早々に萎み始めてしまった。肉体ではなくて肉体の記号、肉体関係ではなくて肉体関係の記号。そして当然のことながら、社会的に承認済みのリズム、保険のかかった笑い、コードとしてのエロで最後まで行く。眠い。既成の共通了解に基づいて物質的なディテールに目をつぶってしまえば作品らしきものはいつでも一丁上がりなのだ。これよりよほど多様で、繊細で、予測不能で、アーティスティックな現実の方を、まさか彼ら彼女らが知らないはずはあるまいと考えると、要するにこれは肉体関係なる題材に作り手自身が照れてしまった結果なのか。私的空間の秘事と、公的な場における上演の間の距離(ギャップ)、そこに課題を設定することによって何か未知の出来事を引き起こすこともできたのではないか。ちなみに四十八手の実演みたいなもの(といってはおそらく失礼なのだろうが)は、今は亡きチャンドラレーカの作品で見たことがあり、それはそれでエロスの名人芸(virtuosity)的な、見た目ほどは初期ベジャールなどから遠くもないパフォーマンスだったように思うが、そういう「神秘主義」的な外観もまた、私的なものと公的な場とをつなぐ一つの手法といえる。それに対して、肉体関係の『48』はエロスを「下ネタ」化して取り組みを回避してしまう。誠実とはいえないと思う。