ジャンヌ・ダルクといえば、映画ではリック・ベッソン監督「ジャンウ・ダルク」でしょうか。
ミラ・ジョヴォヴィッチ演ずるジャンヌの純粋に信ずる心が、ダスティン・ホフマン演ずる悪魔(だろうか、はたまた良心とみるか)に惑わされるところが印象的でした。
映画評を見てみるとわりと悪評が目立ちますが、
私はそれほど酷い映画ではないと思ってます。
ジョヴォヴィッチの演技には熱情にとりつかれているところがよくあらわれていたし、善なる聖女という描き方ではなく、人間としてのジャンヌが感じられました。
そのジャンヌとともに王太子シャルルの戴冠を実現させた人物がジル・ド・レーであり、
「救国の英雄」とまで呼ばれました。
しかし、彼はジャンヌの火刑を目の当たりにしたことから、「青髭」に生まれ変わります。
「聖女ジャンヌと悪魔ジル」では、2人の運命を史実に基づき、
歴史に忠実に綴っているという印象を受けます。
2人の生きた時代は、百年戦争後半であり、
フランスもイングランドもまだ専制君主国家を確立してはいません。
イングランド対フランスという国家間戦争ではなく、双方が姻戚関係で交わっているために入り組み、内乱があり、策略があり、暗殺があり、、、とにかく混乱しています。
このあたりの事情についての理解は、本書の巻頭で訳者が「ジャンヌとジルの時代」という一文を寄せていますので、こちらであらかたは理解できると思います。
ジャンヌとジルとの出会いは、
ジャンヌが王太子シャルルに断固たる使命を告げるまさにそのとき。
ジルは少年の身なりをした彼女から女性性を感じることはなく、聖なる魅力を内に秘めているジャンヌに魅了され、従うことを決心します。
彼女の聖性に従い、自らも聖性を求めていたのです。
「天国へでも、地獄へでも!」
ご存知のように、彼女は裁判にかけられ、16ヶ条の告発のもとに火刑に処せられます。
彼女を救出しようと、敵陣内に潜入した彼は、
「イエスさま!イエスさま!イエスさま・・・」
という彼女の断末魔と肉の焼け焦げるにおい、
そして、吊り下げられた哀れな死骸を目撃します。
彼の信じた聖なるものは、悪として断罪されました。
それと同時に、彼の内の聖性も失われます。
それからの彼は、少年のなかにジャンヌを探し求め、多くの少年や少女を凌辱し、
殺害することに快楽を見出します。
魂の救済を望み、聴聞僧に救いを求めますが、彼が救済者として選んだ錬金術師は、
ジルに悪の正当性を与えます。
ジルは火刑に向かって突き進みます。
彼は、火によって聖別されることを望みとするようになるのです。
史実に基づきながらも、トゥルニエは想像力を羽ばたかせて、
独自のジル像を作り上げています。
聖女から悪女へ、そして再び聖女に高められるジャンヌに対して、
善良な田舎貴族から殺戮者へ変貌していくジル。
無駄な装飾や感情を省いたトゥルニエの文章からは、
ジルの魂の叫びが聞こえてくるようです。
私は、ユイスマンス「彼方」を先に読んでいますので、
どうしてもそちらのジル像との比較をしてしまいます。
「彼方」では、ジルが錬金術師に頼ったのは、財政の欠乏のためでした。
本書ではあまり説明されていませんでしたが、ジルが火刑に処せられる場面では、民衆が聖歌を歌い、一斉に跪くという感動的なことが起こります。
「彼方」では、何故民衆がそのようなことをしたのかに焦点を当てており、
ジルも贖罪を熱望する人間として描かれています。
本書でのジルは、火刑に処せられることによって魂の聖性を得たいという気持ちが強く、また、それを信じており、最後まで何かが狂った人間でありました。
ちょっと視点を変えるだけでこんなに違いが出るものかと興味深いですね。
トゥルニエは<フォリー>という思想があり、良性から悪性への転換、
またはその逆を両義的な意味において使っているようです。
「聖女ジャンヌと悪魔ジル」では、それが伺える内容になっていますが、
私としては、いまひとつ得心するまでに至っていません。
そんなわけで、次は「魔王」を読んでみようかな。
聖女ジャンヌと悪魔ジル
ジャンヌ・ダルクDVD
魔王〈上〉
ミラ・ジョヴォヴィッチ演ずるジャンヌの純粋に信ずる心が、ダスティン・ホフマン演ずる悪魔(だろうか、はたまた良心とみるか)に惑わされるところが印象的でした。
映画評を見てみるとわりと悪評が目立ちますが、
私はそれほど酷い映画ではないと思ってます。
ジョヴォヴィッチの演技には熱情にとりつかれているところがよくあらわれていたし、善なる聖女という描き方ではなく、人間としてのジャンヌが感じられました。
そのジャンヌとともに王太子シャルルの戴冠を実現させた人物がジル・ド・レーであり、
「救国の英雄」とまで呼ばれました。
しかし、彼はジャンヌの火刑を目の当たりにしたことから、「青髭」に生まれ変わります。
「聖女ジャンヌと悪魔ジル」では、2人の運命を史実に基づき、
歴史に忠実に綴っているという印象を受けます。
2人の生きた時代は、百年戦争後半であり、
フランスもイングランドもまだ専制君主国家を確立してはいません。
イングランド対フランスという国家間戦争ではなく、双方が姻戚関係で交わっているために入り組み、内乱があり、策略があり、暗殺があり、、、とにかく混乱しています。
このあたりの事情についての理解は、本書の巻頭で訳者が「ジャンヌとジルの時代」という一文を寄せていますので、こちらであらかたは理解できると思います。
ジャンヌとジルとの出会いは、
ジャンヌが王太子シャルルに断固たる使命を告げるまさにそのとき。
ジルは少年の身なりをした彼女から女性性を感じることはなく、聖なる魅力を内に秘めているジャンヌに魅了され、従うことを決心します。
彼女の聖性に従い、自らも聖性を求めていたのです。
「天国へでも、地獄へでも!」
ご存知のように、彼女は裁判にかけられ、16ヶ条の告発のもとに火刑に処せられます。
彼女を救出しようと、敵陣内に潜入した彼は、
「イエスさま!イエスさま!イエスさま・・・」
という彼女の断末魔と肉の焼け焦げるにおい、
そして、吊り下げられた哀れな死骸を目撃します。
彼の信じた聖なるものは、悪として断罪されました。
それと同時に、彼の内の聖性も失われます。
それからの彼は、少年のなかにジャンヌを探し求め、多くの少年や少女を凌辱し、
殺害することに快楽を見出します。
魂の救済を望み、聴聞僧に救いを求めますが、彼が救済者として選んだ錬金術師は、
ジルに悪の正当性を与えます。
ジルは火刑に向かって突き進みます。
彼は、火によって聖別されることを望みとするようになるのです。
史実に基づきながらも、トゥルニエは想像力を羽ばたかせて、
独自のジル像を作り上げています。
聖女から悪女へ、そして再び聖女に高められるジャンヌに対して、
善良な田舎貴族から殺戮者へ変貌していくジル。
無駄な装飾や感情を省いたトゥルニエの文章からは、
ジルの魂の叫びが聞こえてくるようです。
私は、ユイスマンス「彼方」を先に読んでいますので、
どうしてもそちらのジル像との比較をしてしまいます。
「彼方」では、ジルが錬金術師に頼ったのは、財政の欠乏のためでした。
本書ではあまり説明されていませんでしたが、ジルが火刑に処せられる場面では、民衆が聖歌を歌い、一斉に跪くという感動的なことが起こります。
「彼方」では、何故民衆がそのようなことをしたのかに焦点を当てており、
ジルも贖罪を熱望する人間として描かれています。
本書でのジルは、火刑に処せられることによって魂の聖性を得たいという気持ちが強く、また、それを信じており、最後まで何かが狂った人間でありました。
ちょっと視点を変えるだけでこんなに違いが出るものかと興味深いですね。
トゥルニエは<フォリー>という思想があり、良性から悪性への転換、
またはその逆を両義的な意味において使っているようです。
「聖女ジャンヌと悪魔ジル」では、それが伺える内容になっていますが、
私としては、いまひとつ得心するまでに至っていません。
そんなわけで、次は「魔王」を読んでみようかな。
聖女ジャンヌと悪魔ジル
ジャンヌ・ダルクDVD
魔王〈上〉
私もちょうどジャンヌ・ダルクに関連する本を読んでいたので、気になります。
探してみます。
nanikaさんのところの記事を読んでみると、「聖女ジャンヌと悪魔ジル」は、史実と伝説を融合しているようですね。
ジャンヌの成し遂げたことは、百年戦争に大きな影響を及ぼしたわけだし、神の言葉を聴くという、預言者めいたところと、火刑に処せられたこと、そしてまた復権し、聖女に列せられるという、死後もなお劇的なところが、伝説を生むところなのでしょう。
めるつばうと申します。
この本はずいぶんと昔に発刊され一事廃刊して
いたものでした。
やはりジル・ド・レエが中心だと思います。
当時のフランス国王よりも広大な領地と財力を
持ち、村の男の子をさらっては慰み者とし、
錬金術にも手を染めたとされますが、
トゥルニエの書き方はちょっと異質ですね。
ユイスマンスの書き方の方が好きですが、
錬金術・男色というキー・ワードには意味づけは不要のように
思えます。
実際にオルレアンで戦った二人。
アーク村の田舎娘ジャンに天使の声は降りたのか。
このあたりを考えると「ビンゲンのヒルデガルトの世界」に書かれた
の天の声を聞く素質、幻視という言葉と幻覚との
違いなどが思い起こされます。
異質ではありますが、迫力がありました。
ジルを善から悪へと変貌させ、その精神状態にせまったトゥルニエと、実存の世界、彼方の世界を垣間見せるユイスマンス。
違いはあれど、どちらも面白く、興味深いです。
幻視と幻覚。
ファティマの予言を取り上げてた、年末の超くだらないTV番組を思い出しました。
そういいながら、毎年笑いながら見てるんですが(笑)
天使の声は聞いたのか、マリアは本当に出現したのか。
ファテイマの場合は新聞記事も書かれていたし、目撃者も多数いますね。
何のために奇跡はあるのでしょうね。
担うもの。運ぶもの。と言う意味らしいですね。
造語。この善転悪の図式、両義性はヒンデューの
シヴァ神のようでもあります。イン&ヤン。
幻視については幻覚と違いはなんでしょう。
幻覚は脳の神経伝達素子をドラッグなどで変化
させて見るものかなと思っています。
睡眠不足やその他の要因でも見られますが。
幻視は世界を見る位相が変わってしまうことかなと。
私たちの5感では捉えられないものごとを位相を
変えて見えてしまう。
ネルヴァルの見た幻視。
ヒリデガルドの見た幻視。
ブルトンの見た幻視。
おのおの見るものは違ってもそれは世界を記述しているのと思うのです。
量子力学的世界と古典力学的世界の差のような。
「地球に落ちてきた男」のお話しも書かせて頂きたいなと思いつつ。
ヒトの持つ、根本的な善と悪。
母性の両義性。
共感に関する問題(これは未だ棚上げ状態)
どんなことにも両義性は成り立つのではないかと疑っています。
そういえば、側頭部に頭痛がある人はドッペルゲンガーを見るという話を聞いたことがあります。
脳の働きは未だわからないことが多いとは、オリバー・サックスも言っていましたね。
幻覚と幻視の違いは、私もそう思います。
超能力者といわれる人たちや、霊能力を持つ人たちは、位相の違う物事を察知する能力があるのかもしれないですね。
不思議な物事は、あってもいいと思ってますが、それに惑わされることがないようにしたいですね。