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夢中人

sura@cosmic_a

阿修羅

2009年09月13日 | Weblog
阿修羅に逢いたくなりました。今話題の阿修羅像。
その少年のようなお顔立ちで千年以上この日本に存在する阿修羅像。


阿修羅、あしゅら、あすら、a-sura。。。なんですね。

Wikipedia-阿修羅
本来サンスクリットで「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、
「a」 が否定の接頭語となり、「sura」が「天」の意味することから、非天、非類など
訳され、帝釈天の台頭に伴いヒンドゥー教で悪者としてのイメージが定着し、位地を格下げされたと考えられている。
帝釈天とよく戦闘した神である。リグ・ヴェーダでは最勝なる性愛の義に使用されたが、中古以来、恐るべき鬼神として認められるようになった。

仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆に入れられた。なお、五趣説では認めないが、
六道説では、常に戦う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。
興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの「太陽神」もしくは「火の神」と表記している。
帝釈天と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場と呼ぶ。
 
阿修羅の起源は古代メソポタミア文明のシュメール、アッシリア、ペルシャ文明とする説がある。
シュメールやアッカドのパンテオンに祀られていた神アンシャル。アッシリアの最高神アッシュル。ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー。それらの神がインドに伝来してアスラとなり、中国で阿修羅の音訳を当てた。
シュメール、アッシリアの古代史と仏教のあ阿修羅にまつわる伝承との類似性も高く、信憑性のある事実として指摘される。

阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されている。しかし事実は少し違うと言われる。
阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。
たとえ正義であっても、それに固執続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教界では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる。
阿修羅を意訳すると「非天」というが、これは阿修羅の果報が優れていて天部の神にも似ているが
天には非ざるという意義から名づけられた。

う~ん。。。かなり深い。でも興味津々。
阿修羅の起源は古代メソポタミア文明。。。そうですか。

全てが理解できているわけではありませんが、そんな興味深い阿修羅像。
九州では九州国立博物館にそのお姿があります。
私は会いに行きました。が、お逢いすることは出来ませんでした。
なぜならば、ものすごい人でかなりすごい人で、待ち時間が長く、次ぎの用事もあり、また少々クラクラ気味もありで断念せざるおえなくなってしまいました。
開館時間に合わせて行ったんですけどね、そんな状態で直接お逢いすることができませんでした。
これはですね、これはですよ、私だけの為の阿修羅像の時間をお願いするしかないなと思いました。。。です。


阿修羅像にはお顔は三つ。それぞれ表情が違い、成長する過程のようなんですね。
最近思うんですけど、大人になっていくって「白」くなっていくことなんじゃないかなぁってね。
それまでわからなかった「グレー」だった事が、大人になっていくうちにわかっていくんですよ。そして「白」くなっていく。
まぁ、わかろうとする努力もしなければいけないんだろうけど、そうなんじゃないかなぁってね。
なんかねそんな気がするんです。
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支配

2009年09月13日 | Weblog
狂言を観に行ってきました。

「棒縛」
太郎冠者 野村萬斎

主    月崎晴夫

次郎冠者 深田博治

後見   岡 聡史

二人に家来が留守中に酒蔵の酒を盗み飲みすると知った主人は、太郎冠者の両手をを棒に、
次郎冠者の手を後ろでに縛って出かけてしまう。
それでも酒が飲みたい二人は縛られたその状態で、なんとか酒を飲みたいと考え、そして成功する。
そのうちに盛り上がりに盛り上がって謡えや舞えやと大騒ぎ状態。愉快愉快な感じw。。。の所に主人が帰宅しちゃうワケ。
と、こんなお話だったんですけどね。非常に楽しいお話でした。
解説にも、観ているこちらも心楽しくなれる、狂言の代表作の一つですとありました。

「小傘」
僧   野村万作

田舎物 野村万之介

新発意 高野和憲

参詣人 月崎晴夫

参詣人 竹山悠樹

参詣人 岡 聡史

尼   石田幸雄

後見  時田光洋

この「小傘」は2回目。あらすじは田舎物が草堂を建立したのだが、堂守がいないので街出て探していると、
僧と新発意(しんぼち)(出家して間もない修行中の僧)がやって来たのですぐにつれて帰る。
しかし、この二人、実は賭博で食い詰めた主従であった。法事が始まると、僧は賭博で聞き覚えた傘の小歌を
お経のように唱えて参詣人たちをごまかし、皆が法悦に浸っている内
に新発意に布施を盗ませようとするのだが、なかなか上手くいかない。そうしているうちに念仏はますます高揚していき・・・。
というお話です。

狂言は、私にとって「鏡」。今考えていることを映し出してくれるものです。
そして今回感じたものは「支配」。
「支配」をネットで調べてみると「ある地域や組織に勢力・権力を及ぼして、自分の意のままに動かせる状態に置くこと」とありました。
ムム~。。。これも「権力」の意味合いと同様に、なんか違わなくない?と思うんですけど。
でも、先に読み進めていくと、『(統治)rule  (統制)control』とあったんです。
。。。これっぽくない。ルールにコントロール。
国が存在するうえでルールやコントロールは必要ですよね。これがなかったらめちゃくちゃになる。
そして「支配階級」とあったんですけどね、それは「政治的、経済的、社会的に勢力を持ち、国家や社会を支配している階級」。
ルールが「法」だとしたら、「法」はその時の生活の中からうまれてくるものだと思っているので、
それは社会から創られるものなのかなと思うんだけど、それをコントロールするのが「支配階級」と言われる方々かな。
でも、この「階級」という言葉があまりいい感じじゃないですよね。
まぁ、コントロールすることが出来る力をお持ちであるというか、スペシャリストというか、それをお仕事にしている方々の事ですよね。
やっぱりこういう方々がいないと国がめちゃくちゃになる。めちゃくちゃにならないために、統治rule統制controlという「支配」が必要なんですね。

いやなんで狂言を観て「支配」に繋がったかというと、狂言に出てくる人物達は欲にかられてる事が多いんですよ。
今回の「棒縛」にしても「小傘」にしても欲があるんです。
仏教を観てみると、人間というのは欲だらけなんですよ。欲によって生かされているみたい。
まぁ、欲といっても、全てが悪いものばかりじゃないと思うんですけどね。
でも、欲が強すぎると、つまり欲に支配されちゃうというのはよくないですよね。
欲に支配されるのではなく、欲を支配しなければなんですよね。
きっと人間は、欲からは離れることができないんじゃないかな。だから、そんな欲を支配し、うまく付き合っていく。
そして、この欲とうまく付き合うことで「愛嬌」が生まれるんじゃないかな。
人間ってそんなとこあるよねって、なんかほほえましくなるのかな。本当におかしくておかしくて、人間っておもしろいよねぇって感じ。
それが魅力になることもある。
狂言ってそんなとこも教えてくれているんじゃないかなと思うようになってきた。

支配は、ルール・コントロール。今までわかっていたようでわかっていなかったその意味。
誤解してとらえているものもあるだろう。そんな言葉の意味をもっと調べていこう。
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