komezouの写真と自転車生活

ライフワークの風景写真と趣味の自転車について

梁田寺と梁田政綱

2013-04-17 22:54:08 | 歴史散歩
東向山 梁田寺(りょうでんじ)

17時近くに訪れたので、湧水が見られなかったが残念でしたが、町田市忠生にある閑静な森と豊かな湧水に恵まれる、曹洞宗の寺院である。
寛永6年(1629年:江戸時代)梁田正勝公(やなだまさかつ)発願による禅寺。
建物自体は新しいので歴史建築を見てと言うお寺ではないですが、何故?ここに来たのか?
不思議に思う方がいらっしゃるかと思いますので、書かないと駄目ですね。
古くは、将門の乱を慎めた平貞盛公が、この地にても戦があり両軍戦死者を集めて火葬に附して、東香堂を建立したのが東向山の初開創だそうで、歴史が関係して来ます。
そして・・・梁田・・・って、知っている人は少ないかと思うのですが、このお寺の名前を聞いた時に「梁田政綱」と言う人物が私の中で浮上して来ました。
太閤記・武田信玄・秀吉・国盗り物語・功名が辻、NHKの大河ドラマには、結構な頻度で出ている武将である。


梁田政綱(正綱)・・・

戦国時代の武将である。
・・・と言っても大名ではないし、表舞台には殆ど名前が出ない武将です。
元々斯波氏の家臣であり、後に織田家・・・織田信長の家臣に梁田出羽守政綱と言う名前があった。
史実はどうなのか?未だ不明であるが、桶狭間の戦いでは今川義元の首を挙げた毛利良勝よりも功績が大きく、戦功一番手柄の人物である。
信長は、何故一番手柄としたのか?
ほぼ負ける条件の中奇襲作戦を決行した信長、これには相当な自信があったとされる文章もあり、いろいろ言われていますが、奇襲作戦を立案し善照寺砦の軍議で他の諸将差し置いて、作戦続行を主張し成功した為に一番手柄になったと言う説がある。
しかし、これを証する史料はない。
これに関しては、何故本陣の場所を梁田政綱が知っていたのか?
例えば、当時の戦国大名・武田信玄等はかなりの諜報網を持っていて、真田に代表される諜報術に長けた武将が多かったと記されている、梁田氏ももしかしたらその様な存在だったのかも?
信長が情報を重視し歴史の表舞台に出て来たのはここからであるが、その諜報の部分を担っていたの梁田政綱だったのかも知れない・・・と考え始めると歴史はもっと面白くなる筈。

とにかく、この功績により3千貫で沓掛城主となって、織田家臣団として各地を転戦。
加賀一向一揆鎮圧後に加賀天神山城主となるが、再起した一向一揆鎮圧に失敗し大聖寺城への退却を余儀なくされ、自ら安土に蟄居し、天正7年(1579年)に死去。

直接は関係なかったが、織田信長の死後は豊臣秀吉・徳川家康の家臣として各地に従い江戸時代まで。
梁田氏については、調べていないので全くの不明であるが、その政綱の子孫が江戸時代になり、この地に配転されてこの寺と関係が生まれたと言う事、結局のところ政綱本人とは関わりがなかったのですが、いろいろ調べられたので勉強になりました。

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (sun-rise)
2013-04-18 07:54:17
博学だなー、いろいろよく知ってますね。ネットで場所調べてみたらうちのそばなのに、そんなの知りませんでした。
返信する

コメントを投稿