What A Wonderful World

毎日の暮らしの中で、心惹かれたことを語ります。

ツイッターまとめ ”伊藤計劃×円城塔 『屍者の帝国』 刊行までの経緯”

2012年08月21日 15時54分03秒 | 
 「本作については作品がすべてです」という円城さんの、言葉に込められた想いの強さに心打たれ、「しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を書いている」という伊藤さんの言葉に、どれだけもっと生きたかっただろう、もっと創作されたかっただろうと、またもや亡くなられた時の悔しいさを思い出して涙がでました。

★「 伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』刊行までの経緯 」
( http://togetter.com/li/356588 )より引用

 2009年、34歳の若さで世を去った伊藤計劃。絶筆は、未完の長編『屍者の帝国』。遺された原稿は、冒頭の30枚。それを引き継ぐは、盟友・円城塔——フランケンシュタインの技術が全世界に拡散した19世紀末、 英国政府機関の密命を受け、秘密諜報員ワトソンの冒険が、いま始まる。

2012年8月27日発売予定(*地域によって差あり)の、伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』。単行本刊行までの経緯を担当編集者が語りました。

【1/16】刊行前の現段階において、円城塔さんへの『屍者の帝国』に関する取材等はお断りしてきました。「本作については作品がすべてです」というのが円城さんのお考えだからです。刊行後もインタビューは(数件の例外を除き)ほとんど行わない予定です。本書関係のサイン会等はありません。

【2/16】ゆえに蛇足にすぎませんが、円城さんの御承諾を得て、これからしばらく『屍者の帝国』の刊行までの経緯を書かせて頂きます。文責は編集担当伊藤靖。

(中略)

【16/16】〈わたしは作家として、…わたし自身のフィクションを語る。この物語があなたの記憶に残るかどうかはわからない。しかし、わたしはその可能性に賭けていまこの文章を書いている〉(伊藤計劃「人という物語」/早川書房『伊藤計劃記録』所収)。

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映画 『推理作家ポー 最期の5日間』 偉大なる作家エドガー・アラン・ポーは、なぜ死んだのか…?

2012年08月21日 09時43分42秒 | 映画
 これは設定が良いですね~、好物です(笑)ポーの作品は、え~といつ読んだっけ?と思い出せないくらい、小さい頃に読んでいるはず。叔父や叔母が実家に置いて行った本の詰まっている本棚にあった、どれも表紙もないページが黄ばんだ古~い文庫で読んだせいで、なおさら怖さや理不尽さがアップして、強烈に脳みそに刻み込まれました。

まさかこんなベタなはずは無いよなぁ~と、ちょっと思った「犯人は、ポーの自作自演(二重人格?)」ですが、どうかな?

シャーロック・ホームズも、何度目かの映画化のヒットで再注目されたし、この映画がヒットしたらポーのような「古典」が、再注目されて読まれたら良いなぁと思います。この流れからすると、そのうちアガサ・クリスティも、いつか引っ張り出されそうな感じがします♪謎の失踪とか、王室に人気があるとか、旅行好きとか、いろいろ膨らませられそうな人生だもの。


★映画 『推理作家ポー 最期の5日間』
( http://www.movies.co.jp/poe5days/ )より引用

 10月12日(金)全国ロードショー! 偉大なる作家エドガー・アラン・ポーは、なぜ死んだのか…? 知的興奮が駆け抜けるノンストップ・ミステリー!

「レイノルズ・・・」。1849年10月7日、1人の作家が不可解な言葉を残してこの世を去った。彼の名は、エドガー・アラン・ポー。ゴシック風の怪奇・幻想小説などで一世を風靡し、世界初の推理作家として名を刻む孤高の作家。しかし、死の真相と最期の日々は謎に包まれている。

そんな天才作家の最期の日々に、世を震撼させる猟奇的な連続殺人事件が起こる。それは、すべてポーの小説やアイデアをコピーした模倣殺人だった。さらに、愛する恋人を誘拐され、ポーは、小説模倣犯からの挑戦を受け、この命を賭けた危険な頭脳ゲームに巻き込まれていくのだった。

自らの小説模倣犯と対峙したポー最期の日々を、史実とフィクションを融合した大胆な発想とスタイリッシュな映像でダイナミックに描き出した極上のミステリー、それが『推理作家ポー 最期の5日間』だ。

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* ちなみに、wikiに載っているポーの最期の様子はコレ。

 1849年10月3日、ポーはライアン区第四投票所にあたる「グース・サージャンツ酒場」にて異常な泥酔状態に陥っているところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれたが、四日間の危篤状態が続いたのち、1849年10月7日早朝5時に帰らぬ人となった。

その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかは誰にもわからないままとなった。その上奇妙なことにポーは発見されたとき他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。一説にはポーの最後の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ」("Lord help my poor soul")であったという。死亡証明書を含め、ポーの診断書は現在ではすべて紛失してしまっている。新聞各紙はポーの死を「脳溢血」や「脳炎」のためと報道したが、これは当時、アルコールなどのような外聞の悪い死因を婉曲に伝えるためにしばしば用いられた言葉でもあった。

ポーの死の真相は謎のままであるが、1872年の早い時期から、ポーはクーピング(cooping, 選挙の立候補者に雇われたならず者が、旅行者や乞食などに無理矢理酒を飲ませるなどした上で投票所に連れて行き、場合によっては数度投票させること。当時は有権者の身元確認がしっかりと行なわれていなかった)の犠牲になったのだとする説が広く信じられている。それ以外にも、アルコール中毒による振戦譫妄、心臓病、てんかん、梅毒、髄膜炎、コレラ、狂犬病などが死因として推測されている。

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コメント (2)
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夏の甲子園 「桐光学園VS光星学園」 八回表の攻防は素晴らしかった!

2012年08月21日 09時23分47秒 | スポーツ
 光星学院が3点を獲った八回表は、ピッチャーとバッターの息詰まる素晴らしい戦いでした。ここしかない!というチャンスを掴んで打った、光星の3番・4番バターが凄かった。

リンク先の記事の「1試合で必ず3度は打席が回ってくる」という、バッターたちの諦めない心根にしびれました。

>1打席目は、松井の完勝だった。田村はひざ元に沈むスライダーで空振り三振。北條も内角スライダーに続く、高めの直球にバットが空を切った。北條は「切れがすごい。怪物だ」と、あぜんとしていたほど。だが、2人は落ち着いていた。田村は内角攻めを意識し、構えを開き気味にした。北條もバットを短めに持ち、スライダーの曲がり始めをたたくため投手寄りに立った。

> 1試合で必ず3度は打席が回ってくる。最初は手玉に取られたとしても、残り打席で対応すればいい。「2人はすごいレベルのバッターだった」と松井。田村が「3年生の意地」と胸を張った陰に、4打席を最大限に生かした高密度の戦いがあった。


目が慣れた3打席目、3年の意地で松井打ち崩す(読売新聞) - goo ニュース


 でも、試合に負けてわんわん泣く、桐光学園のピッチャー・松井君を見て、同じく高校二年生の夏の決勝で負けて、わんわん泣いて先輩に慰められてた、ダルビッシュ君を思い出しましたよ。まんま松井君と同じに「先輩と一緒に勝ちたかった」って言ってわんわん泣いてたんだよね~(苦笑)結局は次の年の夏も優勝はできなかったんですが、たぶんそれまでの野球人生で最大級の悔しさを味わった事は、ダルビッシュ君のその後の野球に対する姿勢に、凄く良い影響を与えたと、今の活躍を見ていて思います。

だから、がんばれ松井君!来年の春、夏、あなたがもっと素晴らしいピッチングを魅せてくれる事を信じてるよ!
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