お時間がある時に、ぜひリンク先へとんで、全文をお読みください。
★「高帽子の翻訳 海外反応 / 1年前、宮城県で私が経験したこと [東日本大震災]」
( http://wthjapan.blog.fc2.com/blog-entry-91.html )より引用
miyagidan[宮城県]
私にとってのこの地震は、全てそこにいた人々を語ることで集約される。このとてつもなく強大で最悪の状況の中に彼らの様子を見ることは、人間という生き物の素晴らしさを本当によく私に伝え、この先待ち受ける何かに私は希望を持てた。
その時、私は宮城の県庁で働いていており、地震発生の10分後に舎から退避した(怪我や、逃げ遅れた人のために、階を開放しておく必要があった)。そして外に出ると、私は携帯を使ってニュースを確認した。私が同僚に、10メーターもの津波が予想されているらしい、と伝えると彼は笑い、少数点が抜けてるんじゃないか? と言う。そうやって私が携帯の画面を見せた時の彼の表情。これが、この地震がどうやらとんでもないものだと、私に思わせた初めての出来事であった。
まもなく県庁舎は救援活動の司令部として機能し、私はこの活動の中心近くを見ることになる。最初の地震から15分後に自衛隊が到着し、県の協力で指令所が設置された。この中心にいるということは、つまり私は多くの物を生の情報として得なければならないということだった。私が働く上の階では、自衛隊がモニターを並べて通信施設を設置し、最初の数日間そこで私が見たものは、決して想像が及ばないような現状だった。海岸線はモニター画面で追うことのできる範囲いっぱいに浮遊する死体で埋まり、破壊された街の中程にまで死体が瓦礫と共に散在していた。そこはかつて私がお祭りで訪れたことのある場所であったり、観光地であったり、そして友人たちと出会った場所でもある。この時味わった恐怖を更に上回った唯一の出来事は、数週間後に私自身の手で死体の身元確認を行なった時だ。何度かそれを繰り返し、自分のためにとそれを受け入れた。眠れない夜には決まってこの記憶が蘇る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★「高帽子の翻訳 海外反応 / 1年前、宮城県で私が経験したこと [東日本大震災]」
( http://wthjapan.blog.fc2.com/blog-entry-91.html )より引用
miyagidan[宮城県]
私にとってのこの地震は、全てそこにいた人々を語ることで集約される。このとてつもなく強大で最悪の状況の中に彼らの様子を見ることは、人間という生き物の素晴らしさを本当によく私に伝え、この先待ち受ける何かに私は希望を持てた。
その時、私は宮城の県庁で働いていており、地震発生の10分後に舎から退避した(怪我や、逃げ遅れた人のために、階を開放しておく必要があった)。そして外に出ると、私は携帯を使ってニュースを確認した。私が同僚に、10メーターもの津波が予想されているらしい、と伝えると彼は笑い、少数点が抜けてるんじゃないか? と言う。そうやって私が携帯の画面を見せた時の彼の表情。これが、この地震がどうやらとんでもないものだと、私に思わせた初めての出来事であった。
まもなく県庁舎は救援活動の司令部として機能し、私はこの活動の中心近くを見ることになる。最初の地震から15分後に自衛隊が到着し、県の協力で指令所が設置された。この中心にいるということは、つまり私は多くの物を生の情報として得なければならないということだった。私が働く上の階では、自衛隊がモニターを並べて通信施設を設置し、最初の数日間そこで私が見たものは、決して想像が及ばないような現状だった。海岸線はモニター画面で追うことのできる範囲いっぱいに浮遊する死体で埋まり、破壊された街の中程にまで死体が瓦礫と共に散在していた。そこはかつて私がお祭りで訪れたことのある場所であったり、観光地であったり、そして友人たちと出会った場所でもある。この時味わった恐怖を更に上回った唯一の出来事は、数週間後に私自身の手で死体の身元確認を行なった時だ。何度かそれを繰り返し、自分のためにとそれを受け入れた。眠れない夜には決まってこの記憶が蘇る。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・