2022年1月9日(日)よりNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まります。
このドラマに関連して表題の「保元の乱、平治の乱と源平合戦」を取り上げました。
大河ドラマの主役は北條義時であり準主役は源頼朝ではあるがその前時代に起きた
平氏政権の登場は時代背景(貴族社会から武士社会への移行)を考える上で重要。
それではまず保元の乱から記述していきます。
保元元年(1156)崇徳上皇と後白河天皇の対立に藤原氏の一族の争いも絡んで保元の乱が
起こり、これに勝った天皇方で功績のあった平清盛と源義朝の2人の武士が力を強めた。
保元の乱(1156)については下記ブログで詳述しています。
今日は何の日 7月29日 と保元の乱 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
平治の乱
保元の乱後、藤原通憲(信西)が政治を行ったが、そのやり方に不満を持った藤原信頼と
源義朝が平清盛が熊野詣で留守中の平治元年12月9日(1160年1月19日)に兵を挙げ
三条殿および信西邸が焼き討ちされた。
上の写真は平治元年(1159)12月9日に起きた三条殿夜討ち(平治物語絵巻)
出典:山川出版社 詳説 日本史図録 (2008)Page86
藤原通憲(信西)は討たれたが藤原信頼と源義朝は兵を率いて都へ引き返してきた平清盛
に討たれた。これが平治の乱である。平清盛は義朝の子、頼朝を捕まえたが命を奪わず、
伊豆に流すにとどめた。
上の写真は保元の乱(1156)後の対立の構図
出典:山川出版社 詳説 日本史図録 (2008)Page86
上の写真は平治の乱(1159)の構図
出典:山川出版社 詳説 日本史図録 (2008)Page86
上の写真は平治の乱の経過を年表で記載したもの
出典:山川出版社 詳説 日本史図録 (2008)Page86
うえに添付の年表に記載されているように源義朝は平治2年(1160)1月4日、東国に
落ち延びる途中、尾張国野間にて家人の長田忠致(おさだただむね)により謀殺
されます。(風呂場で刺客3人に襲わせた)
上の写真は東国へ落ちていく源義朝
出典:永木徳三 著 史跡と伝説 第2巻 平安・源平篇(1980)Page318
上の2枚の写真は平治の乱で敗者側の処分内容を整理したもの
出典:1/2(日) 午前3:00-午前3:43 NHKEテレ再放送 知恵泉 「保元・平治の乱」
平氏政権
平治の乱に勝利した平家は30余国を知行地として平家政権全盛の時代となっていきます。
源平の争乱(源平合戦)
打倒平家を掲げ治承元年5月(1180)源頼政は以仁王(もちひとおう)を奉じて挙兵
しますが宇治川の戦いで敗死。以降、源平合戦が繰り広げられ元暦2年(1185)3月
壇ノ浦で平家が滅亡するまで争乱が続きます。経過は上の図のとおり。
出典:小和田哲男監修 すぐわかる日本の歴史(2004)Page45
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