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明石城 なぜ、天守は建てられなかったのか

2020年11月17日 04時01分47秒 | 神戸市以外の兵庫県

現在、神戸新聞明石総局が編集し2020年4月に刊行した表題の本を図書館から借り

読んでいます。まだ完読状態ではないが本の内容を概略纏めてみました。

上の写真は本の表紙

本の構成は以下のようになっています。

1章 殿様の真意 なぜ天守は建てられなかったのか

2章 守りて、在り 櫓を救った士族の軌跡(石巻清隆らの活動)

3章 消えた襖絵を追う

4章 武蔵が造ったまち 剣豪からの転換点

5章 いにしえの息吹 古地図にみる城と町

史料 明石城の絵図、明石城歴代城主、明石城関連年表

1章~4章は小西隆久氏が担当

5章及び史料は大国正美氏が担当

明石城歴代藩主
初代藩主は小笠原忠真(藩主期間1617-1633)石高は10万石。
 
1632年11月-1633年4月は幕府直轄地となり本多忠義、政勝が治める

2代目城主は松平庸直(1633-1634) 7万石
参考Blog(二代目明石城主松平庸直の五輪塔 in 明石天文台 on 2010-7-15

3代目城主は松平光重(1634-1639)
4代目城主は大久保 忠職(1639-1649)
5代目城主は松平山城守忠国(1649-1659)
6代目城主は松平日向守信之(1659-1679) 6.5万石
7代目城主は本多政利(1679-1682) 6万石
8代目城主は松平直明(1682-1701)
 明石藩主8代目松平直明公から15代松平斎宣公までの歴代の
 城主とその夫人、子供など約60基の御廟所となっている松厳山長寿院を
 紹介した小生のBlog(明石長寿院)へのリンク

9代目城主は松平直常(1701-1743)
10代目城主は松平直純(1743-1764)
11代目城主は松平直秦(1764-1784)
12代目城主は松平直之(1784-1786)
13代目城主は松平直周(1786-1816)
14代目城主は松平斉昭(1816-1840)
15代目城主は松平斉宣(1840-1844)8万石
16代目城主は松平慶憲(1844-1869)
17代目城主は松平直致(1869-1869)
   明治2年(1869)6月に明石藩知事に任命される

 

明石城の築城

元和元年(1615) 大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡。小笠原忠真の父(秀政)と兄(脩忠)

が戦死したため小笠原忠真が信州松本の家督を継ぐ。(忠真も重傷を負った)

「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。

 上記の本では小笠原忠真は小笠原忠政と表記
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。

石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり
、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。

普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
                          『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
                           『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。

築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。

 

小笠原家の系譜

出典:上記本のPage15

小笠原忠真は慶長元年(1596)2月、父・秀政の二男として下総国古河城で誕生。一歳年長の兄・忠脩、弟・忠知らとともに、織田信長・徳川家康の「曽孫」である。というのは、時代をやや遡るが、織田信長の娘・徳姫が徳川家康の嫡男・信康に嫁ぎ、二人の娘を生んだ後に「信康事件(信康が武田勝頼と結んで謀叛を企てたとされる事件)」が起き、信康は自刃して果てた。残された娘二人は家康が手元で育て上げたが、そのうち長女・登久姫=福姫(峯高院)を秀政が娶って多くの子ども(男女)を生した。信康は家康を、徳姫は信長を、それぞれ父とするため、忠真は兄や弟とともに二人の「曽孫」となる。

つまり忠真(兄・忠脩、弟・忠知も)は、甲斐源氏の流れを汲むだけでなく、家康・信長という最強の戦国武将の血を引く稀有な存在であった。

小笠原忠真(忠政)の肖像

出典:上記本のPage14

 

なぜ、天守は建てられなかったのか

理由としては色々考えられるが決定的な理由は不明

次のような理由が考えられる

 1)1国1城制による束縛

 2)関ヶ原から20年、戦いの無い世の中で天守を築く必要が無かった

 3)天守を築くと鉄砲、大砲の標的となる軍事的理由

本では小笠原忠真が妹(千代姫)の夫である細川忠利(豊前小倉藩主)に依頼して

中津城(大分県)の天守閣を譲り受ける約束をしていたことに関して詳述されています。

 

 

天守が建てられなかった城

出典:上記本のPage13

 

最後に、2020年11月14日(土)に撮った明石城の関連写真を添付して筆を置きます。

上の2枚の写真は明石市立文化博物館の常設展示の明石城と周辺の模型

上の写真は辰巳櫓と柿

上の写真は天守台(本丸内側より)

上の写真は天守台の石垣

上の写真は坤櫓と石垣

上の写真は坤櫓(手前)と巽櫓の揃い組

上の写真は日時計付近からの正面

上の3枚の写真は2つの櫓が美しく見せるための剪定工事の概要を説明した看板

 


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