CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

西国将軍 池田輝政公の菩提寺旧跡 姫路市不動院への訪問記 on 2022-9-21

2022年10月07日 16時30分58秒 | 姫路市

2022年9月21日、池田輝政公の菩提寺旧跡、不動院を訪問しましたので写真紹介します。

 

不動院の基本情報

住所:姫路市山野井町393 TEL:079-292-5917

宗派:高野山真言宗 御本尊:十一面観世音菩薩、大日如来 山号:石梁山 

創建&由緒:長谷寺を模して姫山に 神亀5年(728)徳道上人により創建 

  当初、長谷寺であったが元亀3年(1572)惣社の西に移り長谷寺から不動院に改名 

  明治3年(1870)男山山麓の現在地(白雲山 長徳寺)に移転。

  その後、長徳寺は石梁山 不動院と改名し現在に至る

御朱印:播磨四国88番、姫路西国19番

公式サイト:不動院 - 姫路市,お寺,不動院,高野山,真言宗,播磨四国札所,姫路西国札所,永代供養墓,護摩祈祷,結婚式,池田輝政公,愛宕山大権現 (himeji-fudouin.com)  

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

池田輝政公を中心とした系図と関連年譜

上の写真は池田輝政公の画像 出典:名城をゆく 2 姫路城 小学館(2004)


上の写真は池田輝政を中心とした系図
出典:赤穂市立歴史博物館編 常設展展示案内(1999) Page38

池田輝政の父親の池田信輝(恒興)は神戸市の兵庫城を築城した人物です。

以下、池田輝政の姫路への入封以降の関連年譜を添付しておきます。

永禄7年(1564) 12月晦日(29日)池田輝政(忠興の次男)は尾張国清州城で生まれた

天正8年(1580) 初陣 荒木村重の花隈城を父恒興に従い参戦

天正12年(1584) 長久手の戦いで父(信輝=忠興)と兄(元助)が戦死

    大垣城➡岐阜城(10万石)天正18年(1590)までの6年余りを岐阜城で過ごす

天正18年(1590) 秀吉の小田原北条氏攻めの功で 三河国吉田15.2万石の城主となる

慶長5年(1600)池田輝政公姫路に入封。

慶長6年(1601)城の改修を始める。

慶長12年(1607)山野井男山(現在不動院のある場所)に菩提寺として龍峯寺を建立

         池田輝政 照政➡輝政に改名

慶長14年(1609)姫路城が完成。

慶長18年(1613)池田輝政公薨去 遺骨を龍峯寺に埋葬し名を国清寺と改める。

元和2年(1616)池田利隆公薨去 山野井国清寺に埋葬
・愛宕山大権現を勧請した不動院宥誉もこの年に遷化。不動院境内に宝篋印塔あり。

元和3年(1617)池田光政公鳥取へ転封
・愛宕山大権現が長徳寺へ移る(現在鎮座の場所)

元和4年(1617)本多忠政公国清寺を船場本徳寺へ移築

寛文7年(1667)池田光政公が京都妙心寺塔頭護國院にあった輝政公と利隆公の墓石を改葬

 墓所は他に次の場所に墓碑があります。戒名は國清院殿正三品参議泰叟玄高大居士

  備前市吉永町和意谷の和意谷池田家墓所、宮津市金屋谷の国清寺、姫路市白国の随願寺
  和歌山県高野山奥の院

  姫路市正法寺(平野町)には慶長18年(1613)正月24日と刻まれた池田輝政の

  供養塔(五輪塔)があります。

池田輝政公菩提寺 龍峯寺 国清寺旧跡

 

上の2枚の写真は池田輝政公菩提寺 龍峯寺 国清寺旧跡の碑の遠景と近景

不動院開基の徳道上人

上の写真は「不動院開基 徳道上人について」書かれた現地説明板

徳道上人は奈良にある長谷寺を開いた人物で、現不動院の地にも同規模の寺院を

開山させ長谷寺と称させたそうです。当時は姫山の麓にありましたが

元亀3年(1572)、姫路城の城代小寺職隆(黒田職隆・黒田官兵衛の父親)が

城を拡張した際、播磨国総社(射楯兵主神社)の境内に移され寺号を不動院に

改称しています。

徳道上人は三十三所観音霊場巡礼の教義を広めた人物としても有名です。

 

メインの建物と観音像

 

三十三観音石仏

上の2枚の写真は不動院境内の三十三観音石仏。一部覆屋の崩れた部分がブロックで代用

 

愛宕神社(愛宕大権現)

上の写真は愛宕大権現への登り口の鳥居 享保6年(1721)12月吉日に建立の銘

 

護摩堂

上の写真は護摩堂 真言宗のお寺では必須のお堂です。

山門

上の3枚の写真は 山門と仁王像 仁王像は怖くない顔つきです。

宝篋印塔

享保6年(1721)に建立された宝篋印塔 山門の脇にあります

その他に境内奥、男山の麓に宝篋印塔と五輪塔の群があります。(下の写真)

由縁については未調査で不明だがある一族の墓と供養塔であると思われます。

 

お大師の石像

 

東山焼男山窯跡

上の写真は東山焼男山窯跡の現地説明板

不動院からの姫路城

 

池田弥七の墓

江戸時代に姫路藩の藩窯で製造された磁器を東山焼といい、藩政改革で著名な河合寸翁が振興した。文政5年(1822)姫路藩は興禅寺山(市内東山)山麓の藩窯で製造を始めたが、天保2年(1831)頃、この地に男山窯を築いて京焼き風の藩用品として上手の品が製造された。藩窯としての男山窯は安政年間(1854~60)に終焉したとされるが、民窯として男山窯は存続し、陶磁器の製造が続けられた。白鷺製や明治9年以後の永世舎の製造が知られるが、明治15~6年頃男山窯は終焉を迎えたという。藩窯東山焼の製造にあたった池田弥七は藩窯終焉の後独立して弥七焜炉の製作で好評を博したという。墓は窯跡の北側にある
上記は平成16年12月 姫路市教育委員会が作製した文書です



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする