本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第6回として雑魚寝堂跡の旧神戸市立駒ヶ林保育所
をお送りします。
これまでの記事
第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑
第2回 駒林神社
第3回 海泉寺
第4回 駒ヶ林蛭子神社
第5回 平忠度の腕塚
上の2枚の写真が雑魚寝堂跡に建てられた神戸市立駒ヶ林保育所です。
道路側が建物の裏手になります。
神戸新聞の記事によると市立駒ケ林保育所は大正期築の建物で、2013年に
新長田保育所と統合し閉鎖される。
施設は売却か解体されそうだが、地元住民らは、昔の風習にちなみ「婚活の場」
としての活用を提案する。2011年11月7日夕刊(大月美佳)
もう少し詳しく書くと旧神戸市立駒ヶ林保育所は大正13年(1924)旧駒ケ林公会堂
で神戸市の技師であった、清水栄二氏(1895~1964)による設計です。
清水栄二氏は旧神戸生糸検査所(同市中央区)、御影公会堂(昭和8年)などを
手掛けた建築家で神戸市で営繕課長として大正15年(1926)まで勤務後、独立
されています。
清水栄二しについては下記ブログで紹介しています。
旧西尻池公会堂(ワシオ外科)
所在地住所:神戸市長田区駒ヶ林町5丁目8-6
Goo地図はこちら
主題の雑魚寝堂について過去に書いた記事よりそのまま引用紹介します。
江戸後期の「摂陽落穂集」は、
駒ケ林の雑魚寝堂と雑魚寝の風習について、こう記す。
「一村未縁女不娶男、年越の夜此堂に行て、
何れも籠るなり…其夜ちぎりしもの則夫婦と成也」
(村の未婚の男女が年越しの夜、お堂にこもり…その夜、結ばれた男女が夫婦となった)
大正12年(1923)までは 市立駒ケ林保育所の建物のあった場所に海泉寺阿弥陀堂が
あり別名雑魚寝堂と呼ばれていた。
また阿弥陀堂が建てられた時期は棟札から文化3年(1815)である。
雑魚寝の風習とはおおぜいの男女が一堂に集まって, 雑魚(ざこ)のように
入りまじって寝る 風習をいう。年越しの夜,宵宮(よみや) や節分などの
季節の変り目の行事におけるおこもり の際に行われた。
最も有名なのが京都大原の雑魚寝で、江文 (えぶみ)神社の拝殿でかつては
節分の夜に行われた。
我が生まれ故郷の京都府宇治においても県(あがた)神社の県祭で
6月5日(かつては5月5日) から6日の未明にかけて行われるが,
梵天に神移しの儀が執り行われた 後はいっさいの灯火が禁じられる。
沿道の家々では男女が雑魚寝して お渡りを待ち、性的な行いも伴うので
種もらい祭ともいわれた。
海泉寺は正応2年(1289)の創建、上記のように市立駒ケ林保育所の建物の
あった場所にあったが、 明治6年(1873)火災に遭い現在地にあった慈眼庵に
移って海泉寺とした。
阿弥陀堂=雑魚寝堂は火災後、駒野小学校として利用され公民館などを経た後
大正13年(1924)海泉寺本堂として移築されることとなり、新しく公会堂が建設
されることとなった。
雑魚寝堂(ざこね堂)について、神戸の歴史研究の大御所 故落合重信先生の著
「埋もれた神戸の歴史」昭和52年(1977)刊 Page177-181より引用させていただきます。
『摂陽落穂集』には「雑魚寝堂の事」として、矢田部郡駒ケ林村にあるざこ寝堂を
紹介して、「この村中の縁遠い女、嫁に来てのない男が年越しの夜、この堂に行って
龍もる。これを雑魚寝という。その夜、契った者は夫婦となる。」とある
駒ケ林に毎年年越しの夜、雑魚寝堂に籠る事あり。往古は此一村にいまだ嫁せざる
女娶らざる男年越しの夜此堂に籠る。
これを雑喉寝といふ。其夜契りたるもの夫婦となり、結ぶの神のひきあはせ給う
といひ伝へて旧例とせしが、年若き男老いたる女に契り、老年の男若きを妻とし
大ひに年の不都合なる事多くあるゆへ、中古これを止む、然共今も毎年年越し
の夜は女ばかり籠る也。此堂に籠れる女は難産の愁ひなしとぞ
8月24日の駒ケ林の地蔵盆で子供達が宿をする習慣もある。
地蔵さんの近くの家に集まって年長のものが頭となって大きな籠を持って
近くの家を廻って野菜、果物をもらってきてそれを子供達だけで煮付けやにぎり飯を
作ったりして夜を明かすのである。
もとは田畑の中にあったため狐や狼に化かされないように起きているのだという
伝説のようだが、大人の神事や慣習が子供の世界の遊びに残ったという見解を
落合重信氏は述べられています。
上の写真は同じく上記の故落合重信先生の著によるもので、原典は
武文彦氏の「桃源自叙画伝」の雑魚寝堂の絵で水の子塚についても言及されています。
上の写真は旧神戸市立駒ヶ林保育所に隣接して建つ地蔵堂
をお送りします。
これまでの記事
第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑
第2回 駒林神社
第3回 海泉寺
第4回 駒ヶ林蛭子神社
第5回 平忠度の腕塚
上の2枚の写真が雑魚寝堂跡に建てられた神戸市立駒ヶ林保育所です。
道路側が建物の裏手になります。
神戸新聞の記事によると市立駒ケ林保育所は大正期築の建物で、2013年に
新長田保育所と統合し閉鎖される。
施設は売却か解体されそうだが、地元住民らは、昔の風習にちなみ「婚活の場」
としての活用を提案する。2011年11月7日夕刊(大月美佳)
もう少し詳しく書くと旧神戸市立駒ヶ林保育所は大正13年(1924)旧駒ケ林公会堂
で神戸市の技師であった、清水栄二氏(1895~1964)による設計です。
清水栄二氏は旧神戸生糸検査所(同市中央区)、御影公会堂(昭和8年)などを
手掛けた建築家で神戸市で営繕課長として大正15年(1926)まで勤務後、独立
されています。
清水栄二しについては下記ブログで紹介しています。
旧西尻池公会堂(ワシオ外科)
所在地住所:神戸市長田区駒ヶ林町5丁目8-6
Goo地図はこちら
主題の雑魚寝堂について過去に書いた記事よりそのまま引用紹介します。
江戸後期の「摂陽落穂集」は、
駒ケ林の雑魚寝堂と雑魚寝の風習について、こう記す。
「一村未縁女不娶男、年越の夜此堂に行て、
何れも籠るなり…其夜ちぎりしもの則夫婦と成也」
(村の未婚の男女が年越しの夜、お堂にこもり…その夜、結ばれた男女が夫婦となった)
大正12年(1923)までは 市立駒ケ林保育所の建物のあった場所に海泉寺阿弥陀堂が
あり別名雑魚寝堂と呼ばれていた。
また阿弥陀堂が建てられた時期は棟札から文化3年(1815)である。
雑魚寝の風習とはおおぜいの男女が一堂に集まって, 雑魚(ざこ)のように
入りまじって寝る 風習をいう。年越しの夜,宵宮(よみや) や節分などの
季節の変り目の行事におけるおこもり の際に行われた。
最も有名なのが京都大原の雑魚寝で、江文 (えぶみ)神社の拝殿でかつては
節分の夜に行われた。
我が生まれ故郷の京都府宇治においても県(あがた)神社の県祭で
6月5日(かつては5月5日) から6日の未明にかけて行われるが,
梵天に神移しの儀が執り行われた 後はいっさいの灯火が禁じられる。
沿道の家々では男女が雑魚寝して お渡りを待ち、性的な行いも伴うので
種もらい祭ともいわれた。
海泉寺は正応2年(1289)の創建、上記のように市立駒ケ林保育所の建物の
あった場所にあったが、 明治6年(1873)火災に遭い現在地にあった慈眼庵に
移って海泉寺とした。
阿弥陀堂=雑魚寝堂は火災後、駒野小学校として利用され公民館などを経た後
大正13年(1924)海泉寺本堂として移築されることとなり、新しく公会堂が建設
されることとなった。
雑魚寝堂(ざこね堂)について、神戸の歴史研究の大御所 故落合重信先生の著
「埋もれた神戸の歴史」昭和52年(1977)刊 Page177-181より引用させていただきます。
『摂陽落穂集』には「雑魚寝堂の事」として、矢田部郡駒ケ林村にあるざこ寝堂を
紹介して、「この村中の縁遠い女、嫁に来てのない男が年越しの夜、この堂に行って
龍もる。これを雑魚寝という。その夜、契った者は夫婦となる。」とある
駒ケ林に毎年年越しの夜、雑魚寝堂に籠る事あり。往古は此一村にいまだ嫁せざる
女娶らざる男年越しの夜此堂に籠る。
これを雑喉寝といふ。其夜契りたるもの夫婦となり、結ぶの神のひきあはせ給う
といひ伝へて旧例とせしが、年若き男老いたる女に契り、老年の男若きを妻とし
大ひに年の不都合なる事多くあるゆへ、中古これを止む、然共今も毎年年越し
の夜は女ばかり籠る也。此堂に籠れる女は難産の愁ひなしとぞ
8月24日の駒ケ林の地蔵盆で子供達が宿をする習慣もある。
地蔵さんの近くの家に集まって年長のものが頭となって大きな籠を持って
近くの家を廻って野菜、果物をもらってきてそれを子供達だけで煮付けやにぎり飯を
作ったりして夜を明かすのである。
もとは田畑の中にあったため狐や狼に化かされないように起きているのだという
伝説のようだが、大人の神事や慣習が子供の世界の遊びに残ったという見解を
落合重信氏は述べられています。
上の写真は同じく上記の故落合重信先生の著によるもので、原典は
武文彦氏の「桃源自叙画伝」の雑魚寝堂の絵で水の子塚についても言及されています。
上の写真は旧神戸市立駒ヶ林保育所に隣接して建つ地蔵堂