本日は駒ヶ林町の散策シリーズの第3回として海泉寺をお送りします。
過去の記事
第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑
第2回 駒林神社
海泉寺の基本情報
住所:神戸市長田区駒ケ林町3丁目10-1 TEL:078-611-1241
宗派:臨済宗南禅寺派 山号:龍雲山
御本尊:阿弥陀三尊(快慶様式、鎌倉時代の作)、十一面観世音菩薩(札所本尊)
福原西国観音霊場第三番霊場
御詠歌:「海原のなみに浮みて御仏の ちかひの網にもれぬうろくづ」
創建開基:正応2年(1289) 漸岸覚俊和尚(宝満寺の第二世)
勧請開山:正応2年(1289)法燈圓明国師(宝満寺の開山僧)
別称:子安観音駒ヶ林の大御堂(魚御堂)
文永三年(1266)東尻池の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、慈眼庵、
松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。
松月庵は禅昌寺末。
慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた
残ったのは海泉寺と宝珠庵であった。宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株の
サツキが庭一面に枝を張り、 花時には賑わう名所となつていた。
駒ヶ林には古くより薬師堂、阿弥陀堂、観音堂があり大御堂と呼ばれていたのは
観音堂である。(福原西国巡拝記 昭和2年(1927)福原潜次郎著より)
また阿弥陀堂では雑魚寝という古い風習の行事が行われていました。
雑魚寝堂=ざこ寝堂について江戸後期の「摂陽落穂集」は、
駒ケ林の雑魚寝堂と雑魚寝の風習について、こう記す。
「一村未縁女不娶男、年越の夜此堂に行て、
何れも籠るなり…其夜ちぎりしもの則夫婦と成也」
(村の未婚の男女が年越しの夜、お堂にこもり…その夜、結ばれた男女が夫婦となった)
雑魚寝堂(ざこね堂)がどの堂にあたるのかは諸説があり判然としない。
駒ヶ林の大御堂=ざこね堂 駒ヶ林の大御堂=阿弥陀堂 または観音堂
ざこね堂=阿弥陀堂 ざこね堂=観音堂などの説がある
海泉寺の雑魚寝堂については下記のブログで書いています。
雑魚寝堂跡の神戸市立駒ヶ林保育所と海泉寺
寺伝では、正応元年(1288年)宝満寺の漸岸覚俊禅師が駒ヶ林で暴風雨にあい、
大樹に身を寄せ一心に観音経を念誦すると大樹の頂に龍灯が輝き、その導きで
無事宝満寺に帰ることができた。その奇端に感じ、正応2年(1289年)この地
駒ヶ林に創建されたのが海泉寺である。
同じく自伝では正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方(神戸市立駒ヶ林保育所付近)
にあったが、明治七年(1874)火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。
大正十三年(1924)十七世住職真龍和尚の時に駒ガ林町にあった阿弥陀堂の
木材を本堂に利用した。また庫裡(くり)、鐘楼東門を建立し再興した。
この時発見された阿弥陀堂の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
当時の代官、庄屋、棟梁等名前も書かれており1815年は幕府領であった
ことが解る。古来、阿弥陀堂では7月13日に「オシャムシャ踊り」という念仏踊り
を行っていたという。当時使われていた太鼓と鉦が海泉寺に保存されています。
昭和39年(1964)十八世諦道和尚は山門新築、湯川秀樹博士銘による全人類の
幸福を祈る梵鐘を新たに鋳造。平成元年(1989)には十九世眞澄和尚とともに
本堂修復、玄関、庫裡、高麗門を新築し龍雲山海泉寺は面目を一新した。
以上は福原西國霊場会事務局 『福原西國霊場寳印帳』 福原西國霊場会、1989年を
参照した。NCID BA64500550
前置きが長くなりましたが写真紹介に入ります。
上の2枚の写真は21年ぶりに再建された海泉寺本堂。2016年1月17日には
お披露目も兼ねて阪神淡路大震災の犠牲者を追悼する法要がこの本堂で行われました。
上の写真は本堂の扁額「龍雲山」と書かれています。
上の2枚の写真は海泉寺旧本堂の鬼瓦兼阪神淡路大震災と東日本大震災犠牲者慰霊碑
とその説明板
上の写真は2011-11-28撮影の海泉寺旧本堂と旧本堂の鬼瓦です
上の写真は観音堂(左手前)と庫裡(右手)
観音堂には札所本尊十一面観世音菩薩が安置されています。
上の写真は不動明王像 親山講の奉納?
不動明王像の右手に小さな祠がありますが今回写真を撮りませんでしたので
2008年8月11日に撮ったものを添付しておきます。
上の写真の小祠に阪神淡路大震災犠牲者の慰霊碑とノーベル物理学賞で
有名な湯川秀樹博士(1907-1981)の位牌が収められていましたが
現在は他に移されたようでありません。
湯川博士の未亡人のエミ夫人の依頼によりここに法名無礙光院殿照誉慈済秀樹大居士
と記された立派な位牌が収められていました。
尼崎藩主 青山幸利公の報謝碑も不動明王像の右手にありましたが現況を
確認するのを失念しました。
「全人類の平和を祈って」と書かれた湯川秀樹博士の碑文があります。(上の2枚の写真)
裏面には第19世住職 染川眞澄和尚 と代理の染川月船和尚が
平成16年(2004)5月吉日に建立されたようです。
上の写真は高麗門の内側脇に建てられた石碑
「源平古戦場」と書かれており矢田達郎前市長の書によるもののようです。
裏面は未チェック(建立年月日不明)
上の写真は湯川秀樹博士命名の鐘「全人類の幸せを祈る鐘」であるが、震災で
倒壊し、まだ復旧されていない状態であった。
上の2枚の写真は高麗門 とにかく立派である。
上の写真は龍雲山海泉寺の遠景
上の写真は寺に隣接して設置された鎮守社(稲荷神社)と新たに平成27年(2015)
11月に新たに建立された「みあらい地蔵尊」と「義経堂」
上の3枚の写真は2015年11月建立の「みあらい地蔵尊」関係
上の写真は義経堂 中には義経像が安置されています。
過去の記事
第1回 駒林神社の復興された大鳥居といかなごくぎ煮発祥の地の碑
第2回 駒林神社
海泉寺の基本情報
住所:神戸市長田区駒ケ林町3丁目10-1 TEL:078-611-1241
宗派:臨済宗南禅寺派 山号:龍雲山
御本尊:阿弥陀三尊(快慶様式、鎌倉時代の作)、十一面観世音菩薩(札所本尊)
福原西国観音霊場第三番霊場
御詠歌:「海原のなみに浮みて御仏の ちかひの網にもれぬうろくづ」
創建開基:正応2年(1289) 漸岸覚俊和尚(宝満寺の第二世)
勧請開山:正応2年(1289)法燈圓明国師(宝満寺の開山僧)
別称:子安観音駒ヶ林の大御堂(魚御堂)
文永三年(1266)東尻池の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、慈眼庵、
松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。
松月庵は禅昌寺末。
慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた
残ったのは海泉寺と宝珠庵であった。宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株の
サツキが庭一面に枝を張り、 花時には賑わう名所となつていた。
駒ヶ林には古くより薬師堂、阿弥陀堂、観音堂があり大御堂と呼ばれていたのは
観音堂である。(福原西国巡拝記 昭和2年(1927)福原潜次郎著より)
また阿弥陀堂では雑魚寝という古い風習の行事が行われていました。
雑魚寝堂=ざこ寝堂について江戸後期の「摂陽落穂集」は、
駒ケ林の雑魚寝堂と雑魚寝の風習について、こう記す。
「一村未縁女不娶男、年越の夜此堂に行て、
何れも籠るなり…其夜ちぎりしもの則夫婦と成也」
(村の未婚の男女が年越しの夜、お堂にこもり…その夜、結ばれた男女が夫婦となった)
雑魚寝堂(ざこね堂)がどの堂にあたるのかは諸説があり判然としない。
駒ヶ林の大御堂=ざこね堂 駒ヶ林の大御堂=阿弥陀堂 または観音堂
ざこね堂=阿弥陀堂 ざこね堂=観音堂などの説がある
海泉寺の雑魚寝堂については下記のブログで書いています。
雑魚寝堂跡の神戸市立駒ヶ林保育所と海泉寺
寺伝では、正応元年(1288年)宝満寺の漸岸覚俊禅師が駒ヶ林で暴風雨にあい、
大樹に身を寄せ一心に観音経を念誦すると大樹の頂に龍灯が輝き、その導きで
無事宝満寺に帰ることができた。その奇端に感じ、正応2年(1289年)この地
駒ヶ林に創建されたのが海泉寺である。
同じく自伝では正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方(神戸市立駒ヶ林保育所付近)
にあったが、明治七年(1874)火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。
大正十三年(1924)十七世住職真龍和尚の時に駒ガ林町にあった阿弥陀堂の
木材を本堂に利用した。また庫裡(くり)、鐘楼東門を建立し再興した。
この時発見された阿弥陀堂の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
当時の代官、庄屋、棟梁等名前も書かれており1815年は幕府領であった
ことが解る。古来、阿弥陀堂では7月13日に「オシャムシャ踊り」という念仏踊り
を行っていたという。当時使われていた太鼓と鉦が海泉寺に保存されています。
昭和39年(1964)十八世諦道和尚は山門新築、湯川秀樹博士銘による全人類の
幸福を祈る梵鐘を新たに鋳造。平成元年(1989)には十九世眞澄和尚とともに
本堂修復、玄関、庫裡、高麗門を新築し龍雲山海泉寺は面目を一新した。
以上は福原西國霊場会事務局 『福原西國霊場寳印帳』 福原西國霊場会、1989年を
参照した。NCID BA64500550
前置きが長くなりましたが写真紹介に入ります。
上の2枚の写真は21年ぶりに再建された海泉寺本堂。2016年1月17日には
お披露目も兼ねて阪神淡路大震災の犠牲者を追悼する法要がこの本堂で行われました。
上の写真は本堂の扁額「龍雲山」と書かれています。
上の2枚の写真は海泉寺旧本堂の鬼瓦兼阪神淡路大震災と東日本大震災犠牲者慰霊碑
とその説明板
上の写真は2011-11-28撮影の海泉寺旧本堂と旧本堂の鬼瓦です
上の写真は観音堂(左手前)と庫裡(右手)
観音堂には札所本尊十一面観世音菩薩が安置されています。
上の写真は不動明王像 親山講の奉納?
不動明王像の右手に小さな祠がありますが今回写真を撮りませんでしたので
2008年8月11日に撮ったものを添付しておきます。
上の写真の小祠に阪神淡路大震災犠牲者の慰霊碑とノーベル物理学賞で
有名な湯川秀樹博士(1907-1981)の位牌が収められていましたが
現在は他に移されたようでありません。
湯川博士の未亡人のエミ夫人の依頼によりここに法名無礙光院殿照誉慈済秀樹大居士
と記された立派な位牌が収められていました。
尼崎藩主 青山幸利公の報謝碑も不動明王像の右手にありましたが現況を
確認するのを失念しました。
「全人類の平和を祈って」と書かれた湯川秀樹博士の碑文があります。(上の2枚の写真)
裏面には第19世住職 染川眞澄和尚 と代理の染川月船和尚が
平成16年(2004)5月吉日に建立されたようです。
上の写真は高麗門の内側脇に建てられた石碑
「源平古戦場」と書かれており矢田達郎前市長の書によるもののようです。
裏面は未チェック(建立年月日不明)
上の写真は湯川秀樹博士命名の鐘「全人類の幸せを祈る鐘」であるが、震災で
倒壊し、まだ復旧されていない状態であった。
上の2枚の写真は高麗門 とにかく立派である。
上の写真は龍雲山海泉寺の遠景
上の写真は寺に隣接して設置された鎮守社(稲荷神社)と新たに平成27年(2015)
11月に新たに建立された「みあらい地蔵尊」と「義経堂」
上の3枚の写真は2015年11月建立の「みあらい地蔵尊」関係
上の写真は義経堂 中には義経像が安置されています。