goo blog サービス終了のお知らせ 

CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その2 ウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)

2023年07月06日 03時56分48秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第2回で「ウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)」について書いていきます。

洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 
ウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)の基本情報
住所:洲本市五色町都志1087 TEL:0799-33-1600(代)
運営:一般財団法人五色ふるさと振興公社


ウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)内には高田屋嘉兵衛関連の記念植樹やモニュメントも
沢山あります。

まずは公園内の概要をみるためにリーフレットの書かれている諸施設の名称を記しておきます。

A.ログハウス
B.オートキャンプ場
C.五色洋ランセンター
D.ゆ~ゆ~ファイブ(五色温泉)
E.浜千鳥(公共の宿・レストラン)
F.菜の花ホール・・・第1回で記述済
G.阿久悠「愛と希望の鐘」
H.夢工房
I.体験農園
J.GOGOドーム(テニス、フットサル、バドミントン他)
K.テニスコート
L.わんぱく広場

本ブログでは高田屋嘉兵衛の関連のモニュメントや植樹などを中心に記す。


上の2枚の写真は日露友好の像
右:高田屋嘉兵衛 左:ゴロ-ニン提督
1812年、高田屋嘉兵衛はクナシリ沖にてロシア船に拿捕され、カムチャッカに連行された。
しかし高田屋嘉兵衛は逆境を好機ととらえ、副艦長リコルドとの友情を深め、
言葉の壁を乗り越え両国和平を説き、1813年ゴローニン釈放を実現させ、
日露武力衝突の危機より日本を救った。 




上の2枚の写真は旧都志港で使用されて堤石の一部と現地説明板
また、歌碑が設置されています。


上の2枚の写真はしあわせのラッパイチョウのモニュメントと現地説明板
五色バスセンター横の高田屋嘉兵衛屋敷跡に全国的にも珍しいラッパイチョウ
があるとのこと。
上の写真はラッパイチョウのモニュメント付近から撮った高田屋嘉兵衛公園の遠景

上の写真は駐日ロシア連邦大使アレキサンドル・P・ロシュコフの来町記念植樹
平成18年(2006)2月8日に来町
上の写真は兵庫県・ロシアハバロフスク地方 友好提携30周年記念 植樹
平成11年(1999)11月6日


上の2枚の写真は高田屋嘉兵衛生誕230年記念植樹のコブシの木と現地説明板
平成11年(1999)10月24日
上の写真は高田屋嘉兵衛生誕250周年記念植樹の現地説明板
令和元年(2019)10月5日

上の写真はゴローニン事件解決後200周年記念植樹の現地説明板
平成25年(2013)10月26日
上の写真はヴァンワード市交流10周年記念のボード 五色町交流協会
2006年7月29日 

上の写真は嘉兵衛里めぐりの①高田屋顕彰館・歴史文化資料館の説明板
上の写真は嘉兵衛里めぐりの①の写真説明板
上の写真は「日本の誇り高田屋嘉兵衛翁此 の地に眠る」と書かれた石碑
平成6年(1994)4月30日 内閣総理大臣、羽田孜氏の謹書です

最後にトピックスとして菜の花畑の先に広がる大海原を疾走する姿を夢見た男高田屋嘉兵衛(竹中直人)
彼を題材としたNHK放送開始75周年記念作品 「菜の花の沖」原作:司馬遼太郎の再放送が
6月30日(金)より20時15分から75分、5回シリーズで毎週金曜日NHKBSプレミアムで放送されます。
今後の放送内容を含めて全5回の内容と以前の放送日を記載しておきます。

 6月30日(金)   (1)  「果てしなき夢」 NHKBS:2000年12月4日 
 7月7日(金)     (2)  「大海原へ」    NHKBS:2000年12月5日 
 7月14日(金) (3)「海の王者」     NHKBS:2000年12月6日  
 7月21日(金) (4)「はるかなるカムチャッカ」 NHKBS:2000年12月7日
 7月28日(金) (5)「さらば、異国の友よ」 NHKBS:2000年12月8日
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海鮮創作和食 風雅(明石市)でのランチ on 2023-6-29

2023年07月05日 04時20分21秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月29日、明石の日本料理 風雅でランチをいただきましたので
写真紹介します。コロナ禍でその期間、全く訪問しておらず4年ぶりの訪問です。

日本料理 風雅の基本情報
住所: 明石市茶園場町1-3 浅田ビル1F  TEL/FAX:078-914-0506
料理ジャンル:海鮮創作和食、日本料理
営業時間:ランチ11:30~14:30 ディナー17:30~21:30
定休日:水曜日、第3日曜日
店主:鎌田久道
お店の公式サイト:明石市の和食店「日本料理 風雅」 (fuga-akashi.com) 

所在地の地図は下記サイトで載せています
 海鮮創作和食 風雅でのランチ on 2015-5-1


明石市茶園場町1-3 浅田ビルの2階で営業されていた海鮮創作和食 風雅
2017年3月x日に1階に移転、新たにベテランの料理人を追加招き新たに
日本料理 風雅として営業を開始されました。

当日は選べる定食 三品 1,540円(税込)を注文。下記より3種選択
 以前は1,350円(税込)
 選べる定食 二品の場合、1,210円(税込)

  ①出巻玉子
  ②茶碗蒸し
  ③淡路産玉葱とトマトのサラダ
  ④南蛮漬け
  ⑤海老と野菜の天麩羅 
  ⑥かま塩焼き(+110円)
  ⑦造里3種盛り(+165円)
  ⑧海鮮カルパッチョ(+165円)
  ⑨穴子の天婦羅(+165円)
  ⑩国産牛ステーキ(+165円)
  ⑪風雅特製鶏唐揚げ(+165円)
  
看板には上記の11種類が掲載
 公式サイトには切身魚味噌漬(京都山利味噌使用)も掲載されています。
 
  
上の写真は私が選んだ3品
  ②茶碗蒸し、⑤海老と野菜の天麩羅 、⑦造里3種盛り(+165円)で
  合計金額は1,705円(税込)

上の写真は奥様が選んだ3品
  ①出巻玉子、⑤海老と野菜の天麩羅、⑧海鮮カルパッチョ(+165円)
  合計金額は1,705円(税込)
2人の合計金額は3,410円(税込)でした。

 
上の写真は当日のデザート これが特別に美味しかった。 
赤い果実はスイカです。



上の2枚の写真は選べる定食の説明です。
ご飯は五穀米も選べます。御飯のお替りは+110円



上の写真はおまかせコースのメニュー表です
 
上の写真はお店の外観です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その1 菜の花ホール

2023年06月25日 05時42分41秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第1回で「菜の花ホール(高田屋顕彰館・歴史文化資料館)」について書いていきます。
菜の花ホールはウェルネスパーク五色の一角にあります。

散策にあたっては菜の花ホールで入手した地図(下の2枚の写真)を頼りに訪問しています。



菜の花ホール(高田屋顕彰館・歴史文化資料館)の基本情報
住所:洲本市五色町都志1087高田屋嘉兵衛公園内  TEL:0799-33-0354
開館時間:10:00~17:00  
休館日:火曜日(休日の場合その翌平日)1月後半と6月に公園全施設の休園日あり
入館料:大人500円(400円)、高・大学生300円(200円)、小・中学生200円(100円)
    (  )内は団体料金
開館:平成7年(1995)

上の写真は菜の花ホール(高田屋顕彰館・歴史文化資料館)の建物外観



上の写真は高田屋顕彰館・歴史文化資料館のリーフレット



上の写真は高田屋顕彰館・歴史文化資料館の展示の高田屋嘉兵衛像と概略説明文

展示の内容(1階)
 1)1階 辰悦丸 1/2模型と300inchハイビジョン


上記ビデオでは嘉兵衛の生涯を解説すると共に下記ドラマの制作の様子などが紹介されていました。
NHKテレビドラマ 『菜の花の沖』 2000年(嘉兵衛役:竹中直人、ふさ役:鶴田真由)
館内を見学する前にこちらの映像を観ることで高田屋善兵衛の生涯の概要を理解する上で
大変役立った。

 2)1階 和船模型


このコーナーでは北前船、菱垣廻船、樽廻船などの解説パネルが掲示されています
 3)1階 江戸のあかり(菜の花と北前船)




 4)1階 寒さとの闘い(木綿と北前船)


 5)1階 高田屋都志邸宅模型




 6)1階 箱館市の発展に寄与




 7)1階 高田屋店先



 8)1階 企画展




 9)商人高田屋嘉兵衛


 10)1階 ゴローニン事件




 11)1階 嘉兵衛リコルド像


 12)1階 司馬遼太郎関連


展示の内容(2階)

 1)2階 嘉兵衛とふるさと


上の2枚の写真は展示の遠景

上写真は高田屋嘉兵衛が眠る墓の写真及び多聞寺図で描かれた現在の高田屋公園のスケッチ
上の写真は長林寺にある高田屋嘉兵衛の位牌(中央)右は三弟の高田屋善兵衛
左は六弟の高田屋喜十郎
上の写真は嘉兵衛が寄進した都志八幡神社の随神門に関する説明パネル
 2)2階 北の海へ(北前船関連)



 3)2階 アイヌモシリ(異文化との出会い)



 4)ラックスマン来航(1792年)



 5)ニコライ レザノフの来航(1804年)







 6)ゴローニン事件(1808年)







高田屋嘉兵衛の年譜
明和6年1月1日(1769年2月7日) 、淡路島 都志本村
(現在の兵庫県洲本市五色町都志)で農民の子として生まれる。
父親は弥吉 6人兄弟の長男  幼名は菊弥
安永4年(1775)7才で都志本村の医師小出氏から読み書きを習う
天明元年(1781)13才 都志浦新在家の親戚弥右衛門方に寄宿して漁業をさらに
      同浦の和田屋喜十郎(妻は嘉兵衛の母親の妹)方で商売の手伝い
寛政元年(1789)21才 この頃、都志浦新在家の網屋幾右衛門の二女ふさと知り合う

寛政2年(1790)22才で兵庫の西出町に移り船子。
     堺屋喜兵衛(和田屋喜十郎の弟)のもとで樽廻船の水主として活躍
寛政4年(1792)24才で水主(かこ)から表仕(船の進路を指揮する役)に出世。
  江戸までの新酒輸送で一番乗りを競う新酒番船で優勝するなど優秀な船乗りであった
  兵庫の津、西出町でふさと世帯を持つ
寛政5年(1793)25才で沖船頭(雇われ船頭)に出世する。
寛政6年(1794)26才、紀州熊野沖で大規模な鰹漁を行う。
寛政7年(1795)27才、和泉屋伊兵衛の船に乗り、初めて出羽の酒田に航海。
寛政8年(1796)28才で辰悦丸(1,500石船)を酒田で建造し、船持ち船頭となる。
       当初は和泉屋伊兵衛との共同出資であったがのちに譲り受けた
       箱館に交易。高田屋の屋号を公称
上の写真は七宮神社奉納の辰悦丸の模型(「江戸時代の兵庫津」より)
  西出町に諸国物貨物運漕高田屋嘉兵衛の看板をあげていた。
  上方の塩、酒、綿糸などを積み込み日本海航路の阪田や越後でそれらを販売し
  米を買い入れ蝦夷地で売るという商売が当たり巨万の富を得る。
寛政9年(1797)29才 兵庫の家で太陽が北海から昇る夢を見て、北海雄飛の決意を新たにする
寛政10年(1798)30才で函館大町に出店を開き、函館の基盤整備に私財を投じた
寛政11年(1799)31才近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの幕府役人と接触し、
            信を得て蝦夷地交易を許可される。
            幕命で蝦夷地御用船頭となり択捉島への航路を開く
寛政12年(1800)32才近藤重蔵とともに択捉島の17カ所の漁場を開く
        幕府から蝦夷地開拓用の官船5艘建造の命を受け兵庫に帰る
享和元年(1801)33才 兵庫津を出発して官船5艘を箱館に回航する
        弟嘉蔵らと共にウルップ島など幕府の蝦夷地巡察に従う
        幕府より苗字帯刀を許されている。3人扶持、手当金27両
              (蝦夷地常雇船頭に任じられる)
        官許を得て箱館恵比須町の浅瀬を埋め立て、一角に屋敷を建設
享和2年(1802) 34才 エトロフ島アリモイに築港する
享和3年(1803) 35才 淡路・兵庫から ハマグリ、シジミ、コイ、フナ、鰻などを箱館近郊に移植
        摂津の池田より松、杉の苗木を函館山や亀田に植林
文化元年(1804) 36才 箱館港の改築、造船場の建設
文化2年(1805) 37才 箱館の開墾(大坂、淡路より農民数十戸を移住)
            江戸、大坂に出店
文化3年(1806) 38才 箱館の大火の折、被災者の救済活動と復興事業を率先して行う
            幕府の直捌(じかさばき)制度実施に伴い蝦夷地御用取扱人(物産売捌方)に指名される
文化4年(1807) 39才 箱館大火に伴い、類焼した自店の代わりに新たに土地を下附され
           箱館大町に新店舗を建てる。
      この年、自費で大坂より井戸掘り職人を箱館に呼び9カ所に井戸を掘る
     ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が樺太、択捉島を襲撃に対して
     幕府は奥羽諸藩に出兵を命じた。嘉兵衛は兵の輸送にあたる
文化5年(1808) 40才 箱館・恵比須町に蔵9戸を建て、米価下落時に越後や東北から買い入れ
            非常時用の備米(そなえまい)とする
文化6年(1809)41才 幕府から官船(45隻)の功績とロシア来襲時の兵輸送等への尽力を賞せられる
           自費で松前街道を修理
文化7年(1810) 42才 場所請合制を復活させようとする幕府からエトロフ島場所請合を命じられる
文化8年(1811) 43才 ロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンら8人クナシリ島で捕らえられる。
        
文化9年(1812)44才 幕府によりロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンが捕えられた報復として、
     高田屋嘉兵衛は観世丸でエトロフ島から箱館に向かう途中国後島のケラムイ沖で
     8月13日(or14日)、リコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。
     
      注)P.I. リコルド(1776-1855)は当時ディアナ号副艦長
     ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、
     ロシア側を説得して翌年(1813)帰国。
    ペトロパブロフスクでの抑留生活で、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居
    リコルドに対して事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。
    嘉兵衛はゴローニンが捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、
    日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは
    釈放されるだろうと説得した。
    リコルドは嘉兵衛の提言に従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義の
    謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした 。
     
    
文化10年(1813)45才 帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い
     ことを納得させ、人質解放に尽力した。
     日ロ双方に対し、献身的に折衝し、両国から賞賛された。
     9月26日、リコルドは函館でゴローニンらの引き渡しを受ける
     9月29日、リコルド、ゴローニンらを乗せたディアナ号は箱館を出航(ゴローニン事件の解決)
文化11年(1814)46才 嘉兵衛、許されて再び幕府の蝦夷地定雇船頭となる
        ゴローニン事件解決の功を賞せられ、幕府より金十両を下賜

文化13年(1816)48才 根室場所、荒天続きで漁獲が無く請負の高田屋は大損害を受ける

文政元年(1818)50才事業のすべてを弟の金兵衛に譲り、故郷の都志に隠居
           故郷の港湾改修、灌漑用池建設などに協力
    嘉兵衛の弟の嘉嘉兵衛が無事帰国できた事を感謝して都志八幡神社の随身門を寄進
文政4年(1821) 53才 幕府の政策変更により蝦夷地定雇船頭を免ぜられ、手当として米70俵を賜る
文政5年(1822) 54才 大坂野田に別荘を建て、病身の妻ふさを養生させる
文政6年(1823) 55才 都志本村と宮村の灌漑用川池築造に際し、費用のほとんどを拠出
文政8年(1825) 57才 都志浦の波戸修築工事に際し、10年間にわたり多額の寄付をする
文政9年(1826) 58才 津名郡塩尾浦の港改修工事に際し、銀66貫目(金千両)を寄付
            阿波藩主蜂須賀氏より名字帯刀を許される
             小高取格(300石取りの藩士並)待遇
文政10年4月5日(1827年4月30日)59歳で生涯を閉じる。法号は高譽院至徳功阿唐貫居士 
        葬儀は真言宗の長林寺で執行、都志本村「茅生の隈(ちふのくま)」に埋葬
        墓碑は多聞寺に建てられる。


家の蔵書より高田屋嘉兵衛の年表を紹介します。
出典:五色町教育委員会編「高田屋嘉兵衛」(1960) 著作権消滅
出典:童門冬二著「物語と史蹟をたずねて 高田屋嘉兵衛」成美堂(1988)

高田屋嘉兵衛を中心とした家系図
最後に高田屋嘉兵衛を中心とした家系図を添付して筆を置きます
出典:五色町教育委員会編「高田屋嘉兵衛」(1960) 著作権消滅

出典:童門冬二著「物語と史蹟をたずねて 高田屋嘉兵衛」成美堂(1988)

シリーズ記事のIndexを作成 2023年10月2日
洲本市五色町都志の散策シリーズIndex
 












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 姫路市林田町散策記 on 2023-4-19 その4 河野鉄兜の碑

2023年05月07日 06時05分32秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年4月19日、姫路市林田町を散策してきました。

姫路市林田町散策記シリーズの第4回として河野鉄兜の碑をお送りします。




上の2枚の写真は林田中学校の正門の右手脇に立つ河野鉄兜の碑。
「河野鉄兜先生碑」と刻まれている。
吉野の懐古漢詩で知られる河野鉄兜は、藩校敬業館の教授であった。
もう少し詳しい河野鉄兜先生の説明は下記のとおりです。

河野鉄兜(こうのてつとう) 生年:1825年 没年:1867年(43歳)
河野鉄兜(こうのてつとう)は文政8年(1825)河野孝章(通称:三省)の
三男として揖東郡網干余子浜垣内に生まれる。
三省は 医者で 男五人、女四人の子供がいたが 長男は 20歳で 亡くなり 次男が
後を継いだ。 三男が 絢夫 すなわち 鉄兜。 四男 権之助は 早世し 五男が
河野東馬で 通称 通鶚、号を 香邨(こうそん)といった。
河野鉄兜の名は維羆 字は夢吉、通称俊蔵、本姓は越智氏。鉄兜という号は、家に
伝わる古い鉄兜にちなんでつけたという。また秀野などとも号した。
16歳の時、吉田鶴仙に学び、また仁寿山校にも入学した。
詩は京都の梁川星巌に学んだ。一時医師を開業(弘化2年(1845))したが、
嘉永4年(1851)林田藩主建部政和に招かれ、藩校敬業館の教授を勤めた
安政2年(1855)に林田に移住し、秀野草堂で門下生を指導し各地の名家の来訪を
受けた。鉄兜は詩に優れ、吉野の詠は芳山三絶として名高い。
代表作に「吉野懐古」があり、詩吟愛好家でこの詩を知らない人はない。
鉄兜は大政奉還の来る日を 論じていたが目前の慶応3年(1867)に永眠した。
行年は43歳。


上の写真は河野鉄兜先生碑の左側面で皇紀2600年の昭和15年(1940)にこの碑が建立された
ことが判ります。また碑建立の発起人には吟道賀堂流 西播詩吟会会長の
大師範 段賀聖の名前が刻まれています。
多分、現在でも段医院を経営されている段一族の方だと思います。


上の写真は河野鉄兜先生(1825-1867)の碑の背面

書かれている内容は下記のとおり(カタカナ表記はひらかな表記に直した)
一部読めない部分有り原文を違訳しています。
河野鉄兜名は羆通称絢夫文政八年播磨網干余子濱に生る幼にして俊秀人に擢て
長じて博覧強記凡そ和漢の学究心はさるなう詩心其の最も嗜む所にして芳野懐古の
七絶は人口に膾受する所なり 夙に尊王の大義を唱へ志國事にあり 林田藩に
招聘され藩校敬業館教授となり慶応三年病没す 年四十三
昭和三年正五位を贈らる


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その15(最終回) 鐘紡洲本工場跡地

2023年05月06日 03時41分38秒 | 神戸市以外の兵庫県
2022年11月4日、淡路島 洲本市街地を散策してきましたので写真紹介します。
本日はその第15回として鐘紡洲本工場跡地を紹介します。














淡路ごちそう館 御食国


上の2枚の写真は「淡路ごちそう館 御食国」として利用されているレンガ造りの建物
昔は、鐘紡洲本工場(鐘紡洲本支店)の建物でした。
上の写真は塩屋カフェの入口


上の写真は淡路島文化史料館の展示で大正6年(1917)、鐘紡洲本支店 第三工場発電所
現在は「淡路ごちそう館御食国(みけつくに)」として活用されています。

S Bric


上の2枚の写真もかっての鐘紡洲本工場の煉瓦造りの建物を活用してできたS Brick

鐘紡洲本工場時代、何に使用されていたかは未調査だが倉庫か?。
2021年4月29日(木)にリノベーションオープンした食事処、複合施設
 
洲本アルチザンスクエアと洲本図書館

上の写真は鐘紡洲本工場時代の煉瓦造り建物を利用して整備された洲本アルチザンスクエアと洲本図書館


上の写真は淡路島文化史料館に展示の鐘紡洲本支店第二工場の建物 昭和10年代に撮影
現在は洲本図書館、洲本アルチザンスクエアとして活用されています。

市民広場と兵庫県立淡路医療センター

その他、鐘紡洲本工場の跡地には市民広場や兵庫県立淡路医療センターなどがあります。
(下の2枚の写真)
上の写真は市民広場


上の写真は兵庫県立淡路医療センター

このシリーズも作成に長時間を要しましたが何とか最終回まで書き終えました。
散策シリーズでは新たに姫路市林田町を書いていきます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その14 しあわせ島ごはん「まどみ」でのランチ

2023年05月03日 03時44分52秒 | 神戸市以外の兵庫県
2022年11月4日、淡路島 洲本市街地を散策してきましたので写真紹介します。
本日はその第14回としてしあわせ島ごはん「まどみ」でのランチを紹介します。
以前に単独で記事を書いています(下記リンク)がこのシリーズに取り込み再掲します。













しあわせ島ごはん「まどみ」は、地元の人気店のようで賑わっていました。

しあわせ島ごはん「まどみ」の基本情報
住所:洲本市本町5丁目2-23 TEL:090-5127-0358
営業時間:11:00~17:00(L.O.16:30) 18:00~21:00(L.O.20:30)
                (夜の営業は金・土・日曜日のみ)  
休業日:木曜日(加えて月に2回不定で日曜日も休み) 
オープン日: 2014年10月4日 (2022年で8周年)


所在地のGoo地図を添付しておきます。 


上の写真は当日いただいた「まどみ定食」 ¥880(税別) 968円(税込)
内容は以下の通り。
・チキンカツ、ねぎ揚げ、もう一品揚げ物
・小鉢3品
・ごはん(大、中、小が選択できます)
・おみそ汁

上の写真はメニュー表です
上の写真は店頭に掲示のメニュー

上の写真は店頭に掲示の基本情報など
上の写真はお店の外観
上の写真はお店「まどみ」付近から撮った本町商店街(アーケード街)

この店のことをネットで調べていたら、喫茶サンマルチを改装して開店したようです。
次のように紹介しているサイトもありました。
四季折々の地元食材を使った家庭料理を提供する、レトロな雰囲気のカフェ。味と栄養バランスを考えた定食ランチが人気。店主の主人は現役漁師なので、新鮮な魚介が味わえる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その13 岩田康郎氏像

2023年05月02日 05時00分24秒 | 神戸市以外の兵庫県
2022年11月4日、淡路島 洲本市街地を散策してきましたので写真紹介します。
本日はその第13回として洲本バスセンター近くに建つ岩田康郎氏像を紹介します。

過去の訪問記
 第1回 淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その1 洲本市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その2 洲本城 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)













上の写真は港湾を見つめて建つ岩田康郎氏像



上の2枚の写真は側面の漢語と読み下し文で書かれた説明板

読み難いので読み下し文をそのまま転記しておきます。
明治15年5月からこの港湾の改修と港へ流れていた洲本川のつけ替え工事が
時の町長岩田康郎氏によって行われたが精魂をこめた同氏の努力と情熱に
よって同37年7月に完成した この大事業は甞ての大被害を受けたはん濫を絶ち
港内を広めて運輸を便にし更に埋立地には新しく鐘紡紡績洲本工場を誘致して
産業を進めるなどわが郷土発展の基を築いた
大正3年7月この改修10周年を迎えた町民は相はかり空前の偉業を不朽に伝える
ため高さ4メートルに余る青銅製記念碑をも献納するに至った
その後礎石のみが残されていたが今回改めて岩田康郎氏の業績をしのび全市民の
感謝の真心を表すため市会の議決を得て在りし日の氏の姿をこのゆかりの
深い埠頭に建てる
昭和34年2月11日

上の写真は淡路島文化史料館に展示の洲本川の付け替えと港湾改修工事の説明パネル

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その12 レトロこみち

2023年04月30日 05時21分38秒 | 神戸市以外の兵庫県
2022年11月4日、淡路島 洲本市街地を散策してきましたので写真紹介します。
本日はその第12回としてレトロこみちを紹介します。

過去の訪問記
 第1回 淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その1 洲本市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その2 洲本城 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)











昔から残る小道に特徴のあるお店が有り、新しい観光スポットになっているようです。
お店には入らなかったので詳しい報告はできません。
そこで詳しく書かれたサイトにリンクさせていただきました。


上の写真が「洲本レトロこみち」の様子です。



上の2枚の写真はレトロこみちの表示


上の写真はレトロこみちと本町商店街(アーケード)との交差地点

ちょっと内容が乏しいので本町商店街で見つけた掲示物等を何点か添付しておきます。
上の写真は洲本八狸の一つ 柴右衛門の恋女房 お増の像と説明板

上の写真は城下町洲本の古地図の掲示
上の写真はお菓子処「長手長栄堂」のお店の外観
長手長栄堂は洲本市本町5丁目堀端 三井住友銀行前にあり銘菓「あわじオレンジスティック」
が看板メニューのお菓子屋さんです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その11 史跡 旧益習館庭園

2023年04月27日 04時48分25秒 | 神戸市以外の兵庫県
2022年11月4日、淡路島 洲本市街地を散策してきましたので写真紹介します。
本日はその第11回として旧益習館庭園を紹介します。

過去の訪問記
 第1回 淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その1 洲本市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 淡路島 洲本市街地の散策記 on 2022-11-4 その2 洲本城 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)










史跡 旧益習館庭園の基本情報
住所:洲本市山手3丁目 地内   TEL:0799-24-7632 


旧益習館庭園は、寛永8年(1631)から行われた城下町建設時の石切場であった場所です。
石切場として利用されたのち、徳島藩の筆頭家老稲田氏の別荘(西荘)の庭として作庭された後、
嘉永7年(1854)、稲田氏の私塾学問所「益習館」となった。
明治3年(1870)の庚午事変により、建物は焼失しましたが、庭だけが残った。
曲田山山麓に作庭された庭園は、東西に長い池泉を穿ち、山側に和泉砂岩の巨石を用いた
池泉回遊式庭園である。庭園の高さ4mを超える巨石は、庭石としては日本最大級。
Wikipediaより庭園の変遷について引用紹介します。
第1期 : 稲田家西荘・益習館時代(江戸時代)
第2期 : 川上氏時代(第1次造成、明治時代末から大正時代)
第3期 : 川上氏時代(第2次造成、大正時代から昭和初期)
第4期 : 高田氏時代(1960年〈昭和35年〉から2013年〈平成25年〉)
川上氏時代の造成では庭園の景観を残しつつ、書院の新築および増築、
60cmの盛り土と飛び石の設置、池中の石灯篭と4mを超える石灯篭の設置が行われた。 
洲本市に寄贈後の経緯は以下のとおり。
2013年(平成25年)2月 - 洲本市が復元整備開始
2014年(平成26年)2月 - 洲本市の名勝に指定
2016年(平成28年)3月 - 兵庫県の名勝に指定
2019年(平成31年)2月 - 国の名勝に指定



当日は開園日ではなかったので入口に掲示されていた庭園のスケッチを添付(下の写真)




上の写真は下屋敷庭園群と旧益習館庭園の現地説明板
上の写真は旧益習館庭園への入口前の広場
上の写真は旧益習館庭園 閉園であったが塀の上部より撮った
上の写真は旧益習館庭園のライトアップのPRポスター


上の写真は風月旅館跡庭園の現地説明板








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫県たつの市神岡町奥村&北横内に所在の奥村廃寺跡 on 2023-4-19

2023年04月26日 04時51分14秒 | 神戸市以外の兵庫県
兵庫県たつの市神岡町奥村&北横内の愛宕山(168m)の南麓に奥村廃寺がかってあった。
2023年4月19日に揖保乃糸資料館を訪問する際に愛宕山南麓の荒神社の入口に奥村廃寺跡の
説明版が掲示されおり初めて奥村廃寺の存在を知った。
本ブログでは奥村廃寺の発掘調査等をレビューして纏めてみた。

現地説明板の説明文(平成14年(2002)3月、龍野市教育委員会が作製)

 奥村廃寺跡
この地にはおよそ1,300年前、7世紀後半から8世紀にかけて存続した古代寺院がありました。
寺は奥村廃寺と名付けられ、発掘調査によって中央に金堂と東西両塔、その北に
講堂と推定される伽藍配置が確認されました。こうした建物の配置は、全国で三例しか
知られていない珍しいものです。
寺域は一辺が約150mの方形と推定され、寺の前面には古代美作道が通っています。
発掘によって出土した瓦は、軒丸瓦13種、軒平瓦16種、鬼瓦3種におよび、
渡来系の文様を持っていました。とりわけ、手書き唐草文は珍しいものです。
「播磨風土記」に記された「上(神)岡里」で活躍した渡来人の足跡がこうした
寺院の存在からも偲ばれます。

上の写真は現地説明板の「寺域と伽藍配置」
金堂の両脇に塔を2基持つ双塔伽藍が極めて珍しく奥村廃寺の他には次の類例のみです。
  1)新治(にいはり)廃寺(常陸)
  2)三ツ塚廃寺(丹波)
              詳細は下記のPDFファイル
  3)来美(くるみ)廃寺(出雲)

塔を支える心柱を受ける礎石(塔心礎 )は 龍野歴史文化資料館で保管、展示 されています。
写真及び解説は下記サイトで見ることができます。

上の写真は奥村廃寺跡のイメージ図 出典:たつの市2007
上が北側。西塔の西側には僧坊?と思われる建物跡も発掘調査で確認されています。
  金堂:東西17m×南北14m
  東塔:金堂の中心から20m東に塔心礎 基壇は瓦積基壇(渡来系寺院の特徴)
  西塔:金堂の中心から21m西に塔心礎 基壇は瓦積基壇(渡来系寺院の特徴)
  講堂:金堂の背後の愛宕山山麓に一段高くなった平坦面があり、現在は荒神社の参道がある。
    3個の礎石が確認されています。

上の写真は現地説明板 出土軒丸瓦・軒平瓦 復元拓本

上の写真はGoogle地図の上に奥村廃寺の寺域を赤サークルで示した。

上の写真は兵庫県文化財調査報告第347冊「姫路新宮線緊急地方道路整備事業に伴う発掘調査報告書」
の広域遺跡地図に書かれた41「奥村廃寺跡」を示したものです

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする