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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その10 都志大橋

2023年07月21日 05時57分47秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第10回で6月15日に訪問した「都志大橋」について書いていきます。


洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 







高田屋嘉兵衛の生きた時代(1769~1827)当時、都志川の下流で唯一架かっていたのが
都志大橋でした。現在の都志大橋は平成11年(1999)春に完成しました。



上の3枚の写真は6月15日、雨の中、撮影した都志大橋です。
橋の袂(たもと)の欄干は北前船の船首尾をヒントにデザインされたとのこと。
天明元年(1781)13才の高田屋嘉兵衛は都志浦新在家の親戚弥右衛門方に寄宿して漁業を
さらに同浦の和田屋喜十郎(妻は嘉兵衛の母親の妹)方で商売の手伝いをしていました。

都志大橋の近くにある料理旅館「川長」の店頭に面白い展示があったので写真紹介します。

上の写真は川長旅館の外観 赤い色の船と蛸料理の看板が目立ちます。

上の写真は旅館川長の4代目がこの文章を書かれています。
北前船の辰悦丸(嘉兵衛が初めて船持ちになった船)について簡単に記述しておきます。

辰悦丸 
寛政8年(1796)に完成した高田屋嘉兵衛初の持ち船。嘉兵衛28才であった。1,500石積(約230t)で当事の最大級の船で酒田で建造されました。
建造費は1,500~2,000両と言われ、現在の1億数千万円に匹敵する。
費用は嘉兵衛が 紀州熊野沖で大規模な鰹漁などで儲けた約600両と残りは北風惣右衛門貞幹から
借金して調達しました。
その頃、必ずこの都志大橋を往来していたと思われます。

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洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その9 住吉神社

2023年07月20日 04時38分03秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第9回で6月15日に訪問した「住吉神社」について書いていきます。


洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 







住吉神社の基本情報
住所:洲本市五色町都志288 TEL:0799-33-1100
御祭神:住吉大神(住吉3祭神)
    底筒男命(そこつつのをのみこと)
    中筒男命(なかつつのをのみこと)
    表筒男命(うはつつのをのみこと)
創建時期:不詳 住吉大社から勧請

所在地のGoo地図を添付しておきます。





上の2枚の写真は拝殿と本殿

住吉神社の御祭神は住吉大神で航海安全、農耕神でX年に住吉大社より勧請した。
本殿は大永5年(1525)2月に建てられた都志八幡神社の古い本殿を明治33年(1900)3月に移し
改築されました。
昭和25年(1950)3月、屋根が破損のため銅板葺きの屋根に改修された。
さらに昭和61年(1986)老朽化した拝殿を改修すとともに一部を修理し現在に
至っています。 平成11年? 五色町文化財審議会会長 北山学 

境内に住吉神社記録碑なるものが建立されていた。(下の2枚の写真)
上述の文はこの碑の内容を要約したものです。




住吉神社は都志川河口の洲となった部分に建っています。
高田屋嘉兵衛の生家から徒歩で約5分くらいのところにありました。
高田屋嘉兵衛は幼名を菊弥(きくや)といった。土地の方言で菊弥(きっちゃ)と呼ばれていた。
嘉兵衛は弟達を連れ、色々な形の木切れを舟に見立てて遊んだり、潮の干満を
調べたりを都志川の
堤で行っていたとのこと。この遊びが海で仕事をする嘉兵衛の原点となります。
その場所は住吉神社の境内であったのだろうか・・・


摂社と移設された氏神など

特に表示はされていなかったが漁業の神様「恵比須神社」であろうか?


上の2枚の写真は境内の小祠


玉垣
上の写真は拝殿・本殿の周囲の玉垣

住吉神社付近から都志港遠望
ここからの夕焼けの景色は素晴らしく、名所となっているそうです。

語り草
嘉兵衛の里めぐりウォーキングコースのリーフレットより引用紹介します。
翁がロシアから無事に帰国した文化10(1823)年の10月、山高印の船旗をひるがえした
18隻の手船が、都志沖に勢揃いしました。若く夢多い少年時代の嘉兵衛の心には
このことあるを予期していたのでしょうか。『大きなったらこの沖に千石船を並べて見せる』と

上の写真は都志川に架かる都橋の中央部の高田屋の千石船を描いたもの
高田屋の山高印が帆に描かれています。
都橋は都志大橋(最も海に近い橋)より1つ上流側に架かる橋です。



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洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その8 高田屋嘉兵衛邸宅跡

2023年07月19日 05時37分33秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第8回で6月14日に訪問した「高田屋嘉兵衛邸宅跡」について書いていきます。


洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 






五色バスセンターの向かい(北側)にある小さな園地が、高田屋嘉兵衛邸宅跡です。

上の写真は高田屋嘉兵衛生誕地の碑 
嘉兵衛が生誕した頃の家は小さく、後に文化年間(1804~1816)に大規模な邸宅が建てられました。
この文化年間の嘉兵衛に関する主な出来事をピックアップしておきます。
文化元年(1804) 36才 箱館港の改築、造船場の建設
文化2年(1805) 37才 箱館の開墾(大坂、淡路より農民数十戸を移住)
            江戸、大坂に出店
文化7年(1810) 42才 場所請合制を復活させようとする幕府からエトロフ島場所請合を命じられる
文化8年(1811) 43才 ロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンら8人クナシリ島で捕らえられる。        
文化9年(1812) 44才 幕府によりロシア軍艦ディアナ号艦長ゴローニンが捕えられた報復として、
     高田屋嘉兵衛は観世丸でエトロフ島から箱館に向かう途中国後島のケラムイ沖で
     8月13日(or14日)、リコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。   
文化10年(1813)45才 帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い
     ことを納得させ、人質解放に尽力した。
     日ロ双方に対し、献身的に折衝し、両国から賞賛された。
     9月26日、リコルドは函館でゴローニンらの引き渡しを受ける
     9月29日、リコルド、ゴローニンらを乗せたディアナ号は箱館を出航(ゴローニン事件の解決)
文化11年(1814)46才 嘉兵衛、許されて再び幕府の蝦夷地定雇船頭となる
        ゴローニン事件解決の功を賞せられ、幕府より金十両を下賜

新邸は主屋だけで9間半に5間(約157㎡)。これ以外に7棟あり、周りに高い塀をめぐらした
屋敷の総面積は543坪(約1,892㎡)に及んでいたと言われています。
上の写真は高田屋嘉兵衛生誕地の碑が建つ商業施設の駐車場から旧邸跡及び顕彰碑への案内板


上の2枚の写真は高田屋嘉兵衛邸宅跡に建てられた休み処と復元された塀及び現地説明板
上の写真は高田屋嘉兵衛屋敷跡の平面図
出典:五色町教育委員会編「高田屋嘉兵衛」(1960)Page10 著作権消滅 

上の写真は平成7年(1995)までに撮影された高田屋嘉兵衛屋敷跡の一部(厩など)
平成7年(1995)の阪神淡路大震災で倒壊し解体されました。
出典:嘉兵衛の里めぐりウォーキングコースのリーフレット 

次に高田屋嘉兵衛の顕彰碑について写真紹介していきます。

上の2枚の写真は高田屋嘉兵衛の顕彰碑の遠・近景です。
正式名は「高田屋嘉兵衛翁記念碑」 碑には「贈正五位高田君 碑」と書かれています。
高田屋嘉兵衛の功績が後に認められ明治44年(1911)正五位が追贈されました。
これより都志の有志が中心となり全国中等学校からの寄付金等、各方面の協力を得て
大正4年(1915)11月、この地に記念碑が建立されました。(高さ6.3m、幅3.0m)
碑石は香川県庵治産の花崗岩で当時の金額で6千5百余円を要した。

上の写真は高田屋嘉兵衛翁記念碑の現地説明板
 高田屋嘉兵衛の生まれから死亡までの経歴と主な業績が記されています。
明治44年(1911)8月、政府は高田屋嘉兵衛の生前の功績に対し、正五位を追贈した。


上の写真は高田屋嘉兵衛記念館
高田屋顕彰館・歴史文化資料館(菜の花ホール)が平成7年(1995)に開館してからは
記念館の資料や嘉兵衛の遺品などは高田屋顕彰館・歴史文化資料館に統合され、閉館となりました。

最後に記念館近くに鎮座する高田屋嘉兵衛像の写真を添付して筆を置きます


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たつの市 素麺神社(大神神社) 訪問記 on 2023-4-19

2023年07月18日 05時38分47秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年4月19日、たつの市神岡町の「揖保乃糸資料館 そうめんの里」 の近くにある
素麺神社(大神神社)を訪問しましたので写真紹介します。
正式名は大神(おおみわ)神社です。

危険な暑さが続く今日この頃、素麺がピッタリの季節です。
そこでそうめん神社を取り上げました。

素麺神社(大神神社)の基本情報
住所:たつの市神岡町大住寺794−5  TEL:不明
御祭神:大物主大神 (おおものぬしのおおかみ)
    大己貴神 (おおなむちのかみ)
    少名彦名神 (すくなひこなのかみ)
創建:明治2年(1869)大神神社より分祀

所在地のGoo地図を添付しておきます。

拝殿(本殿)




正面鳥居からの遠景





手水舎


由緒
「伝説では、大和三輪において紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である
大田田根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十五世の孫である従五位上
大神主大神朝臣狭井久佐(大神朝臣三枝)の次男穀主(たねぬし)が飢饉と疫病に苦しむ
民の救済を祈願したところ、神の啓示を賜り三輪の地で小麦をつくり、素麺を初めて作ったという。」
この縁で、大神神社祭神は「素麺作りの守護神とされる」このような歴史から、明治2年(1869)、
龍野に「大神神社」の神様「大物主命」を勧請し、素麺神社が創設された。
通称、「そうめん神社」として崇拝されています。

明治32年に本殿ほか2棟を兵庫県手延素麵協同組合が建立。当時の例祭ではそうめんの
掛け巻き競技、そうめん箱作り競技、そうめんの把競技等が行われ、ここで優勝することが
最高の名誉とされていました。 現在の社殿は、永年にわたる風雨によって石垣、玉垣などの
老朽化が進んだため、 平成大改修事業が企図され、組合員や業界崇拝者の総意を結集して、平成16年4月に完成。

田中好子さんの玉垣
平成16年(2004)の大改修で女優の田中好子さんが100万円を寄付をされています。
元キャンディーズのスーちゃんこと田中好子さんはテレビCM「そうめんやっぱり揖保乃糸」に
亡くなった2011年まで約20年、起用されました。

平成16年(2004)の大改修寄付者

上の写真は平成16年(2004)の大改修の寄付者芳名が書かれた石碑

古い時代の神社石造物など


上の2枚の写真は狛犬

上の写真は拝殿入口の石灯籠群
上の写真は案内石碑

境内の桜と藤棚







奉納イラストなど



上の3枚の写真は兵庫県立龍野北高等学校 総合デザイン科の奉納品


平成大改修記念で兵庫県手延素麺協同組合からの奉納額


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揖保乃糸資料館 そうめんの里 訪問記 on 2023-4-19

2023年07月16日 03時34分07秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年4月19日に訪問したたつの市神岡町の「揖保乃糸資料館 そうめんの里」を写真紹介します。

揖保乃糸資料館 そうめんの里の基本情報
住所:たつの市神岡町奥村56番地 TEL:0791-65-9000
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:毎週月曜日
入館料(2階) 大人300円 中・高校生200円 小人100円

所在地のGoo地図を添付しておきます。


上の写真は揖保乃糸資料館 そうめんの里の建物外観

上の写真は竣工記念碑 揖保乃糸資料館 そうめんの里 兵庫県手延素麺協同組合と
刻字されています。平成9年(1997)4月吉日に建立。題字は貝原俊民兵庫県知事の筆です。

上の写真は塩谷重喜翁(1923-2001)の銅像
塩谷重喜氏は兵庫県手延素麺協同組合理事長(1983~2001) を務められていました。
塩谷氏は2001年7月3日、糖尿病による臓器不全のため国立姫路病院で死去、79歳。 

上の写真は昔の素麺づくりで水車小屋で使用されていた石臼
兵庫県における素麺の生産は住吉川上流の灘目が最初で奈良県の三輪からそうめんの製法が
伝わったいたとの経緯があります。西播磨の人達が農閑期に出稼ぎに来て、帰郷後に
「灘目素麺」の製法で「播州素麺」をつくりはじめ発展していったようです。
大正時代には機械による大量生産で「播州素麺」は知名度を一気に上げた。
阪神・青木駅南側には「兵庫県における 素麺発祥の碑」があります。


上の2枚の写真は龍野地方の水車、石臼による製粉の製造法を説明したパネルと実物展示
現在は大手製粉会社より仕入れているとのこと。


遣唐使によって伝えられた素麺
日本の「そうめん」は遣唐使によって伝えられたとされています。
昔は宮中のおもてなし料理のひとつで七夕の日に食べると疫病にかからないと
いわれていたようです。遣唐使の航路について説明パネルがありました。
説明パネルに次の記述がありました「遣唐使船の航路 暖流と夏の風にのって朝鮮半島沿いに
行く「北路」が最も安全な航路でした。後期になると日本と新羅との関係が悪化したため、
海流と風の流れを無視した「南路」がとられ、たくさんの船が遭難するようになりました。
上の写真は遣唐使船の模型などの展示
上の写真は遣唐使船が「唐から持ち帰ったもの」の説明パネル

宮中のごちそう
上の写真は宮中のごちそうに関する説明パネル

手延べ素麺とは
上の写真は「手延べそうめんとは」の説明パネル

明治の頃の素麺づくり



上の写真は「明治の頃の素麺づくり」の説明パネル

古代の素麺

上の写真は「古代の素麺」の説明パネル

中世の素麺


上の2枚の写真は「中世の素麺」の説明パネルと点心膳の再現展示

近世の素麺

上の2枚の写真は「近世の素麺」の説明パネル

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洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その7 吉祥山 多聞寺

2023年07月15日 03時43分58秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第7回で6月14日に訪問した「吉祥山 多聞寺」について書いていきます。


洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 






多聞寺の基本情報
住所:洲本市五色町都志1344  TEL:0799-33-0736 
宗派:高野山真言宗 山号:吉祥山
御本尊:大日如来

所在地のGoo地図を添付しておきます


上の写真は多聞寺の入口外観
門柱には吉祥山多聞寺と高田屋嘉兵衛菩提寺と書かれています。
上の写真は上側から撮った多聞寺の本堂と庫裡
平成9年(1997)に移転した時に建てられた建物なので割合、真新しく感じた
上の写真は庫裡側から撮った本堂


上の2枚の写真は本堂の横に鎮座する水子地蔵尊と現地説明書き

嘉兵衛の里めぐりウォーキングコースのリーフレットに次のような記述がある 
高田屋嘉兵衛の菩提寺である多聞寺では翁の白木の位牌を祀り、過去帳を保存しています。
また、寺の一角にある大師堂には四国八十八カ所の石仏があり、その中に翁と
ふさが施主となった石仏が見受けられます。
多聞寺は元本村墓地の隣に建てられていましたが、平成9(1997)年現在地に移転されました。

上記リーフレットを読んでいたので大師堂の中の四国八十八カ所の石仏をお願いして見せていただきました。




上の4枚の写真は大師堂の内部の石仏、弘法大師空海の像、不動明王などの仏像

上の写真の左は「豆巡礼」の十番 切幡寺(きりはたじ)の石仏 「本村高田嘉兵エ」奉納
と右の四十一番 龍光寺の石仏で「高田嘉兵エ 妻」と刻まれています。
出典:高田屋顕彰館・歴史文化資料館編「高田屋外交 ゴロヴニン事件解決200周年記念版」(2014)Page92


上の写真は納骨堂の前の大師像

嘉兵衛の里めぐり健康ウォーキングコース①高田屋顕彰館・歴史文化資料館まで300mの標識
多聞寺へは上記の高田屋顕彰館・歴史文化資料館から車道沿いに300m降りた場所にあります。



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洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その6 高田屋嘉兵衛参り墓

2023年07月14日 04時16分57秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第6回で6月14日に訪問した多聞寺の墓地内の「高田屋嘉兵衛参り墓」


洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 




都志本村の周辺地域では埋葬した墓とは別に「参り墓(詣り墓)」の慣習(両墓制

両墓制の発生については諸説あり、明確な定義はなされていません。
最も有力なのは 死を穢れと考えたため
死の穢れを遠ざけ、死者の供養の場を近くに置いたというものです。
死は穢れとして考えられるだけでなく、物理的に臭気を放ち、また感染症の原因にも
なったはずです。忌避観をともなう遺体の埋葬は村はずれで行い、故人の供養は村の中で
行ったものだと思われます。 

詣り墓の呼称としては、ラントウバ(卵塔場)、ラントウ、タッチョウバ、サンマイなどがある。

上の写真は平成11年(1999)生誕230年に際し、地元の人々はその偉業を称えようと
新たに大きな墓碑を建立したとのこと。
墓碑の正面には高田屋嘉兵衛の戒名の「高譽院至徳功阿唐貫居士 」が刻まれています。
 



上の3枚の写真は上述の墓碑の脇にある現地説明板









上の6枚の写真は奥の墓地の高田家累代の墓碑 最近の墓誌しか記載されていません。





上の3枚の写真は古い墓碑が並ぶ墓地です。
嘉兵衛の里めぐりウォーキングコースのリーフレットに次のような記述がある。
高さ約2mの石造五輪塔があり墓碑の正面に高譽院至徳功阿唐貫居士(こうよいんしとくとうかんこじ)
と刻まれています。この碑の右側に父母、左側に2・3代目の嘉兵衛や一族の碑が続き
全体で7基建てられています。
この記述をもとに該当する墓碑がないかと探しましたがピッタリ該当する墓碑を確認できませんでした。

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洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その5 金毘羅神社

2023年07月09日 04時49分48秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第5回で6月14日に訪問した「金毘羅神社」について書いていきます。

洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 





上の写真が金毘羅神社の祠です。背後にログハウスが写っています。
高田屋嘉兵衛公園内のログハウスの西側金毘羅山の一角に金毘羅神社の小さな祠があります。
金毘羅神社は船乗りが信仰する神社です。
高田屋嘉兵衛も故郷へ帰ると金毘羅神社に参り、無事を報告しお礼をしたと思われます。

上の2枚の写真は金毘羅神社(展望台)から観た都志港の遠景
山の名前も金毘羅山。
上の写真は現地説明板
昭和6年(1931)に大干害があり現地説明版にあるような雨乞いが行われたとのこと。
上の写真は少し下った場所にある鳥居
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洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その4 高田屋嘉兵衛埋葬地

2023年07月08日 03時42分07秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第4回で6月14日に訪問した「高田屋嘉兵衛埋葬地」について書いていきます。

洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 




上の2枚の写真は高田屋嘉兵衛埋葬地の墓碑です。
墓には長い石材を使った石室が造られているそうです。
この埋葬墓の他に多聞寺墓地に参り墓があります。
参り墓については後日、記事を書く予定です。

右手が高田屋嘉兵衛の墓で左手は嘉兵衛の弟(四男) 金兵衛 の墓です。
埋葬地は地元では茅生の隈(ちふのくま)という場所です。
埋葬地はウェルネスパーク五色高田屋嘉兵衛公園(洲本市五色町都志1087)の
一角にあり夢工房から階段を下った場所にあります。
ウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)のリーフレット埋葬地の位置が記載されて
いますので添付しておきます。

上の地図でHの施設が夢工房
地図の作者は明石市在住の伊藤太一さんです。
上の写真は高田屋嘉兵衛埋葬地への案内標識
200m手前の位置に設置

上の写真は高田屋嘉兵衛埋葬地の現地説明板です
説明文をそのまま転記しておきます。
高田屋嘉兵衛埋葬地
1818年(文政元年)、事業を弟達に譲り郷里都志に引退した嘉兵衛は、都志八幡神社随神門
の寄進や灌漑用井堰の築造・都志港などの修築等郷土の開発に尽くた。
しかし、1827年(文政10年)4月5日(太陽暦4月30日)、病のためその波乱に満ちた
生涯を閉じ、ふるさとを見下ろすこの地に手厚く埋葬された。
墓碑は多聞寺に祀られている。享年59才。
 法号 高誉院至徳唐貫居士

葬儀は、都志の長林寺で執り行われたが、この地への葬送の列は道中途切れることなく、
まだなおお寺の境内にあふれていたと言われ、嘉兵衛の人望とその偉大な業績が偲ばれる。

埋葬地の近くには「日本の誇る高田屋嘉兵衛翁此の地に眠る」と刻まれた時の総理大臣羽田孜の石碑が平成6(1994)年に建てられています。(下の写真)

高田屋嘉兵衛を中心とした家系図
高田家は元々尾張の国の武家であった。永禄年間(1558~1570)に淡路島に
移ってきた高田孫八郎が鮎原(あいはら)北山に住みついたのが始まりである。
代が進むにつれ武士から農民や町人の身分となったが高田屋嘉兵衛は父・弥吉から
武士道の教えや読み書き算盤の大切さを教えられ育った。

最後に第1回で添付した高田屋嘉兵衛を中心とした家系図を再掲載して筆を置きます。
出典:五色町教育委員会編「高田屋嘉兵衛」(1960) 著作権消滅 

出典:童門冬二著「物語と史蹟をたずねて 高田屋嘉兵衛」成美堂(1988)

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洲本市五色町都志の散策記 on 2023-6-14&6-15 その3 浜千鳥レストランでのランチ 

2023年07月07日 04時07分20秒 | 神戸市以外の兵庫県
2023年6月14日と6月15日に高田屋嘉兵衛の生まれ故郷&晩年を過ごした淡路島 洲本市五色町都志を
散策してきましたので写真紹介します。訪問先をシリーズで紹介していきます。
本日はその第3回で「ウェルネスパーク五色(高田屋嘉兵衛公園)」内にある
浜千鳥レストランでのランチについて書いていきます。

洲本市五色町都志の散策シリーズ過去の記事
 


2023年6月14日、淡路島洲本市 ウェルネスパーク五色 浜千鳥レストランでランチを
いただきましたので写真紹介します。初訪問のお店です。
宿泊施設内のレストランで、落ち着いた雰囲気で食事を楽しめます。
 ウェルネスパーク五色は、司馬遼太郎の「菜の花の沖」の主人公でも知られる、
洲本市五色町出身で江戸時代の先駆者・高田屋嘉兵衛を顕彰して造られた公園です。 

ウェルネスパーク五色 浜千鳥レストランの基本情報
住所:洲本市五色町都志1087  TEL:0799-33-1600(代表)
料理ジャンル:和食が中心、郷土料理もあり
営業時間:ランチは11:30~14:00  ディナーは17:30~21:00 (L.O.20:00)
     カフェは11:30~16:00 
定休日:なし不定休


上の2枚の写真は当日いただいた日替わりランチ880円(税込)と内容が書かれたボード
内容はオムライス、エビフライ、ごま豆腐、香の物、みそ汁でどれも美味しかった。
食後にはコーヒーなどもついてきます。
上の写真はメインのオムライスとエビフライのアップ
上の写真はゴマ豆腐と香の物のアップ

次に浜千鳥のお昼のメニュー表を添付します。
上の写真は最初に食べてみたいと思ったメニュー 期間限定の島定食1,870円(税込)
上の写真は生しらす味めぐり丼 1,320円(税込)


上の写真は釜揚げしらす丼 1,100円(税込)

上の写真は季節限定 鱧定食 2,750円(税込)

上の写真はえびす鯛定食 1,980円(税込)

上の写真はえびす鯛茶飯 1.320円(税込)


上の写真は丼もののメニュー一覧表 一部麺類
上の写真は和のメニュー一覧
上の写真は洋のメニュー一覧表

上の2枚の写真はアルコール類などのメニュー表
上の写真は地ビールのメニュー表

上の写真は浜千鳥の玄関
上の写真は食堂(1階)付近の外観 2階は宿泊施設
コメント
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