第九演奏会の正指揮者による初めての合同練習が行われた。
演奏者同士は一度練習したもののまだ硬い雰囲気でチューニング終了。
現れた指揮者の姿に、心の中で「えっ!」と叫んでいた。
赤いバンダナで頭を覆ったスタイルに「流行りのラーメン店の店主?(失礼)」と思った。
少なくとも、年齢的には所属楽団のマエストロとは二周り以上の若く見える。
よく見てみると、愛嬌のある顔立ちで、ちょっと親近感が沸く。
幼友達でデザイナーのM君にも、優秀なマーケッターだった同僚F君にも似ているのだ。
「才能のある人はみなこんな顔立ちなのか」なんて思った。
さてほとんど挨拶らしい挨拶もなく第1楽章が始まった。
途中一度もストップさせることなく第1楽章終了。
ここから、さまざまなアドバスが展開されていった。
第1楽章のフィードバックは4点ほどあったと思うが、覚えているのは
「相手の話が終わってないのに、話し始めないで」と会話のコントを交えての説明があったことと、
「細かい刻みの粒が分からないようにという人もいるけどもっと神経使って、正確に」という話。
これまで接してきた指揮者とは全然違って、言葉でどう演奏して欲しいかを伝えてくれる。
強弱の取り方、ベートーベンの書き入れたフォルテfの意味、武満徹の「無音に勝る音」・・
さまざまなエピソードを交えて、曲の解釈を述べ、指導してくれた。
特に弦楽器に対しては「もっと弓全体を使って!」「楽器全体を響かせて」と、
時にはコントラバスを使ってボーイングを実演して示してくれたり、
弦楽器全員で深呼吸とリラックスの時間を数分間行なって、響きを取り戻させたりした。
管楽器出身の指揮者とずいぶん違うものだと、とても新鮮な練習になっていった。
音楽に対する深い理解、知識技術の確かさを感じ、大変素晴らしい先生だと信頼感を増していった。
しかし、残念ながら、せっかくの指示・指導のうち
半分くらいしか吸収することができない(聞き取れない)歯がゆさを同時に感じていた。
最初は「歳のせいかな~」「耳が悪くなったな~」と感じていたが、
慣れ親しんだ指揮者の言葉は耳にストレートに入ってくることを考えると、
初めて接する先生の、語り口、レトリックに慣れていないから、何かが抵抗しているのだと気づいた。
エクリチュールという言葉が浮かんだ。
正確な意味は知らないが、その人の持っている「文体」みたいなもので、
生育の過程でその人なりの体験を重ねた結果生まれてくるスタイルみたいんものだ。
人は誰もが、その人独自の語り口、固有の表現方法があり、言葉の背景を支えている。
きっと彼の「文体」が皮膚感覚ではまだ馴染んでこず、必死で「言語」を「意味」に転換しているはずなのに
なかなかその真意が伝わってこず、自分では捉えられないのだ。
恐らく協働演奏する団員とは、何回か練習をしてきたのだと思うが、彼らの反応のほうがクイックだし
鉛筆なども良く動いている。
一方初めて接する団員にとっては、指揮者との阿吽の呼吸に至るには、時間が必要な気がする。
これが、演奏技術があるプロの演奏家や、アマでもさまざまな経験を経てきたベテラン演奏者にとっては、
初めて接する指揮者とも、瞬時に何らかのコミュニケーションが成立し、
刺激的なコラボレーションができてしまうのだろう。
そう思うと、自分の技術の至らなさ、音楽理解の浅さの上に、新しい「表現者」である指揮者に接しても、
その人が持っている癖というか、色というか、「表現の綾」見たいなものとの心理的な距離感をなかなか縮められず、
自分の馴染んでゆくスピードの遅さに、落ち込んだ。
今日は大変心身ともに疲れる一日となったのだ。
いい指揮者のもとで演奏できることは幸福だけど、年末までの限りある練習で
どこまで体が馴染むのかちょっと気が重くなってしまった。
自分にできることは、第九という音楽に慣れ、演奏能力を少しでも高めて行くしかなさそうだ。
演奏者同士は一度練習したもののまだ硬い雰囲気でチューニング終了。
現れた指揮者の姿に、心の中で「えっ!」と叫んでいた。
赤いバンダナで頭を覆ったスタイルに「流行りのラーメン店の店主?(失礼)」と思った。
少なくとも、年齢的には所属楽団のマエストロとは二周り以上の若く見える。
よく見てみると、愛嬌のある顔立ちで、ちょっと親近感が沸く。
幼友達でデザイナーのM君にも、優秀なマーケッターだった同僚F君にも似ているのだ。
「才能のある人はみなこんな顔立ちなのか」なんて思った。
さてほとんど挨拶らしい挨拶もなく第1楽章が始まった。
途中一度もストップさせることなく第1楽章終了。
ここから、さまざまなアドバスが展開されていった。
第1楽章のフィードバックは4点ほどあったと思うが、覚えているのは
「相手の話が終わってないのに、話し始めないで」と会話のコントを交えての説明があったことと、
「細かい刻みの粒が分からないようにという人もいるけどもっと神経使って、正確に」という話。
これまで接してきた指揮者とは全然違って、言葉でどう演奏して欲しいかを伝えてくれる。
強弱の取り方、ベートーベンの書き入れたフォルテfの意味、武満徹の「無音に勝る音」・・
さまざまなエピソードを交えて、曲の解釈を述べ、指導してくれた。
特に弦楽器に対しては「もっと弓全体を使って!」「楽器全体を響かせて」と、
時にはコントラバスを使ってボーイングを実演して示してくれたり、
弦楽器全員で深呼吸とリラックスの時間を数分間行なって、響きを取り戻させたりした。
管楽器出身の指揮者とずいぶん違うものだと、とても新鮮な練習になっていった。
音楽に対する深い理解、知識技術の確かさを感じ、大変素晴らしい先生だと信頼感を増していった。
しかし、残念ながら、せっかくの指示・指導のうち
半分くらいしか吸収することができない(聞き取れない)歯がゆさを同時に感じていた。
最初は「歳のせいかな~」「耳が悪くなったな~」と感じていたが、
慣れ親しんだ指揮者の言葉は耳にストレートに入ってくることを考えると、
初めて接する先生の、語り口、レトリックに慣れていないから、何かが抵抗しているのだと気づいた。
エクリチュールという言葉が浮かんだ。
正確な意味は知らないが、その人の持っている「文体」みたいなもので、
生育の過程でその人なりの体験を重ねた結果生まれてくるスタイルみたいんものだ。
人は誰もが、その人独自の語り口、固有の表現方法があり、言葉の背景を支えている。
きっと彼の「文体」が皮膚感覚ではまだ馴染んでこず、必死で「言語」を「意味」に転換しているはずなのに
なかなかその真意が伝わってこず、自分では捉えられないのだ。
恐らく協働演奏する団員とは、何回か練習をしてきたのだと思うが、彼らの反応のほうがクイックだし
鉛筆なども良く動いている。
一方初めて接する団員にとっては、指揮者との阿吽の呼吸に至るには、時間が必要な気がする。
これが、演奏技術があるプロの演奏家や、アマでもさまざまな経験を経てきたベテラン演奏者にとっては、
初めて接する指揮者とも、瞬時に何らかのコミュニケーションが成立し、
刺激的なコラボレーションができてしまうのだろう。
そう思うと、自分の技術の至らなさ、音楽理解の浅さの上に、新しい「表現者」である指揮者に接しても、
その人が持っている癖というか、色というか、「表現の綾」見たいなものとの心理的な距離感をなかなか縮められず、
自分の馴染んでゆくスピードの遅さに、落ち込んだ。
今日は大変心身ともに疲れる一日となったのだ。
いい指揮者のもとで演奏できることは幸福だけど、年末までの限りある練習で
どこまで体が馴染むのかちょっと気が重くなってしまった。
自分にできることは、第九という音楽に慣れ、演奏能力を少しでも高めて行くしかなさそうだ。