チェロ五十代からの手習い

57才でチェロに初めて触れ、発見やら驚きを書いてきました。今では前期高齢者ですが気楽に書いてゆこうと思います。

指揮者の「エクリチュール」の違い

2010年09月13日 00時24分53秒 | オケの練習
第九演奏会の正指揮者による初めての合同練習が行われた。

演奏者同士は一度練習したもののまだ硬い雰囲気でチューニング終了。
現れた指揮者の姿に、心の中で「えっ!」と叫んでいた。

赤いバンダナで頭を覆ったスタイルに「流行りのラーメン店の店主?(失礼)」と思った。
少なくとも、年齢的には所属楽団のマエストロとは二周り以上の若く見える。

よく見てみると、愛嬌のある顔立ちで、ちょっと親近感が沸く。
幼友達でデザイナーのM君にも、優秀なマーケッターだった同僚F君にも似ているのだ。 
「才能のある人はみなこんな顔立ちなのか」なんて思った。

さてほとんど挨拶らしい挨拶もなく第1楽章が始まった。
途中一度もストップさせることなく第1楽章終了。

ここから、さまざまなアドバスが展開されていった。
第1楽章のフィードバックは4点ほどあったと思うが、覚えているのは
「相手の話が終わってないのに、話し始めないで」と会話のコントを交えての説明があったことと、
「細かい刻みの粒が分からないようにという人もいるけどもっと神経使って、正確に」という話。

これまで接してきた指揮者とは全然違って、言葉でどう演奏して欲しいかを伝えてくれる。
強弱の取り方、ベートーベンの書き入れたフォルテfの意味、武満徹の「無音に勝る音」・・
さまざまなエピソードを交えて、曲の解釈を述べ、指導してくれた。

特に弦楽器に対しては「もっと弓全体を使って!」「楽器全体を響かせて」と、
時にはコントラバスを使ってボーイングを実演して示してくれたり、
弦楽器全員で深呼吸とリラックスの時間を数分間行なって、響きを取り戻させたりした。

管楽器出身の指揮者とずいぶん違うものだと、とても新鮮な練習になっていった。
音楽に対する深い理解、知識技術の確かさを感じ、大変素晴らしい先生だと信頼感を増していった。

しかし、残念ながら、せっかくの指示・指導のうち
半分くらいしか吸収することができない(聞き取れない)歯がゆさを同時に感じていた。
最初は「歳のせいかな~」「耳が悪くなったな~」と感じていたが、
慣れ親しんだ指揮者の言葉は耳にストレートに入ってくることを考えると、
初めて接する先生の、語り口、レトリックに慣れていないから、何かが抵抗しているのだと気づいた。

エクリチュールという言葉が浮かんだ。

正確な意味は知らないが、その人の持っている「文体」みたいなもので、
生育の過程でその人なりの体験を重ねた結果生まれてくるスタイルみたいんものだ。

人は誰もが、その人独自の語り口、固有の表現方法があり、言葉の背景を支えている。
きっと彼の「文体」が皮膚感覚ではまだ馴染んでこず、必死で「言語」を「意味」に転換しているはずなのに
なかなかその真意が伝わってこず、自分では捉えられないのだ。

恐らく協働演奏する団員とは、何回か練習をしてきたのだと思うが、彼らの反応のほうがクイックだし
鉛筆なども良く動いている。
一方初めて接する団員にとっては、指揮者との阿吽の呼吸に至るには、時間が必要な気がする。

これが、演奏技術があるプロの演奏家や、アマでもさまざまな経験を経てきたベテラン演奏者にとっては、
初めて接する指揮者とも、瞬時に何らかのコミュニケーションが成立し、
刺激的なコラボレーションができてしまうのだろう。

そう思うと、自分の技術の至らなさ、音楽理解の浅さの上に、新しい「表現者」である指揮者に接しても、
その人が持っている癖というか、色というか、「表現の綾」見たいなものとの心理的な距離感をなかなか縮められず、
自分の馴染んでゆくスピードの遅さに、落ち込んだ。
今日は大変心身ともに疲れる一日となったのだ。

いい指揮者のもとで演奏できることは幸福だけど、年末までの限りある練習で
どこまで体が馴染むのかちょっと気が重くなってしまった。

自分にできることは、第九という音楽に慣れ、演奏能力を少しでも高めて行くしかなさそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜか楽しかった「第九」合同練習会

2010年09月07日 01時04分31秒 | オケの練習
炎熱の日が続いているものの、夕方になると動き始めた風の中に涼しさのかけらが感じられる。
そんななかで、二つのオーケストラの初めての「第九合同練習」が行われた。
はじめは緊張して参加したけど、終わってみると涼しい風に吹かれたように、楽しい経験になった。

その気分はちょうど文化祭でクラスの誰かが言いだしっぺに、不承不承参加したイベントが、
終わってみると成し遂げた清々しさを感じるような、久しぶりの感覚だった。

「たかが合同練習程度でそんな気分になれるなんて」と思ったらちょと違うんだな~
二つのオケが合同練習するというのは、それ自体が開催するだけでも大変なイベントだったのだ。


合同練習の大変さとは・・・


まず、何十キロも地域が離れた二つのオケが、どちらかの場所で一緒に練習すること自体大変だ。
日常でも1時間もそれ以上の時間を掛けて集まっている場所とは全然違う会場に向かわなければならない。
中には2時間半車を飛ばして駆けつけた人もいた。一日練習しての帰りが大変だ。

到着した土地は不案内。駅に降りてからの交通手段も簡単ではない(千葉の地方都市のこと結構離れている)。
迎える側では、遠方から参加してくれる団員たちの送り迎えはどうするの?昼食は?と心配は尽きない。

無論、練習会場はいつもの場所には入り切れない。猛暑の中、クーラー無しとは行かないから
それなりの施設を確保しなければならない。

楽器についても通常使っている「重楽器」はどうするのか。
ティンパニーは、コントラバスや大太鼓は?
それから何十人にもなると譜面台だけでも何十キロの重さになる。
(僕は譜面台係だったけど、譜面台が何十本も入ったケース持ち上げ損なってちょっと怪我しちゃった)


演奏についても、合わせて行くのは大変だ。
練習時の指揮者と本番では指揮者が代わるから、表現はきっと違う。
(自分のオケの指揮者の指導と全然違う指摘がされるかも知れないのだ)

指揮者の立場に立ってみても、新しい組み合わせの演奏者には、
これまで積み重ねてきたことを、再度示さなければならないから厄介だと思う。

弦楽器の場合、オケごとにボーイングは明らかに異なるから、途中での調整が頻繁に入る
(N響のと読響の第九と見比べてみるとはっきり違いがあるようにアマオケでも)

管楽器だと、パートのダブリをどう解消するか。どちらがトップを取るのか。
(遠目で見ていると、プライドの高いソロ楽器の皆さん、心のなかで色々思っているのでは・・
 ・・この人結構やるじゃんとか、俺に任せろ、私のほうが上よ・・とかね)

心理的にも、隣に座る人は「始めまして」からなので、気を使うことになる。
弾き方の癖やボーイングの違いで、弓と弓がチャンバラになっても、文句は言えない。
なんだかいつもと勝手がちがうのだ。人によって「間合い」の感じ方は違うのだろうから・・と自分に言い聞かせる。


そして、楽器の搬出と、片付けたあとの再搬入(我がオケの練習場は、体育館の二階でエレベーターが無いから、
みんな老骨に鞭打って、ティンパニーのお釜やら、指揮台やら、大太鼓、コンバス用の椅子
・・・等々を汗だくで上げ下げしなければならない。


新しい経験ずくめの大変な「合同練習」だったけど、
でもなぜか楽しい、うきうきした気持ちが残った。


なぜだろう?と考えてみた。


どうやら、秘密は単純で「みんな心を一つにして汗をかいた」ということに尽きそうだ。
高校でも、大学でも、会社に入ってからも、特に意味は無いんだけど、汗かいて、一生懸命やったことは
それ自体大した意味があるものでなくても、参画した本人にとっては、強い印象、愛着を残す。

「思いをこめた」とか「必死だった」とか「一緒になった」ということが、
後から振り返ると、楽しさ、さわやかさを感じさせることなのだと思う。

あと一つは、目先が変ることはそれ自体が楽しいものだ。
見た目の変化 ~ 知らない人が半分。黄色やら白やら、青のチェロケースが並ぶ。
聞こえる音の変化 ~ いつもと違う管楽器の音色(たとえばオーボエの泣き方とか)、
同じティンパニーでも叩く人で全然違うものだ・・みたいな。

いやいや、本当は自分の息子より若い、新人君がチェロに加わったことが励みになっているのかも。
キャリアは僕なんかよりずーっと長いし、上手そうだけど、なんせ3年目にして初めて迎える「後輩部員」なんだから。


これから秋が深まり、夕闇が早まり、木枯らしに切り替わるころに第九の演奏会がある。
この暑さでも、こんな楽しい気持ちだったのだから、きっと心に残る演奏会になるはずだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危なっかしい練習スケジュール調整

2010年05月20日 15時13分00秒 | オケの練習
今年の定演は、仕事とのバッティングに大慌てしたので、
早めに秋のファミリーコンサートと、年末の第九の全体練習の
スケジュールを確保しようとしていたら、
すでに7~9月の土日が仕事で半分以上埋められていた!

とりわけ、第九に割り当てられた練習と、開催地オケとのコラボ練習の
スケジュールがガッチンコ状態。

秋のファミコン前後は大丈夫なのか・・・と慌ててスケジュールを確認。
こちらは何とかなりそう。
 
年末の第九はいろいろな点で初めて尽くしだ。

千葉県外房方面の二つのオケの協働企画というのも、初めて。(
二つのオケの団員が席を並べて一つの企画を遂行することになる)

指揮者も初めて。僕にとってはこの3年間、学校の先生ような
教育的な面を持った今の指揮者についてきたけど、
果たして外部の指揮者の下で演奏するとはどういうことなのか想像できない。

会場についても、初めての会場で(われらが茂原地域からはかなり遠い)。
練習の行き帰りについても、本番直前の交通事情もよく分からない。

なによりも「ベートーベン第九」をこんなに早くに演奏することは予想もしてなかった。
演奏の機会については嬉しいものの、CDを聴きながら譜面を追いかけてみても、
合唱の背景で繰り広げられる弦楽器の激しい動きには全くついて行けるか分からない。

不安だ!

先日の定期演奏会での師匠にそれとなくたずねてみた時の会話
本番前の弁当を食べながら先生が・・
「田園は難しい曲です」
「先生にとってもですか」
「そうです」
「じゃ第九はどうなんですか・・」
「そう年末に第九やるんだそうですね」
「10年早いと言われるとは思うんですが・・・」
「・・・・(まーやってみたらという感じ?)」
「先生、田園が10の難しさだとすると、第九は15くらいですか・・」
「いや、第九は田園の3倍は難しいでしょう」
「えっえ~!!」

その他いろいろ話されたけど「3倍」だけが耳の中で鳴っていた。
田園の難しさに嫌と言うほど触れたあとだけに、「3倍」にはたじろがされる。

仕事と練習のダブルブッキングなんてしてられないのだ。
せめて、残りの日程を全て練習に確保するしかないのだ。

今年の秋も大変なことになりそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「田園」の難所を諦めないことにした

2010年05月11日 23時39分11秒 | オケの練習
今週の日曜日がいよいよ定期演奏会だ。「今度こそ100%参加するぞ!」と心に決めて練習してきたものの、
どうしてもクリアーできずに一度「諦めた」部分がある。

それがベートーベンの第6交響曲「田園」の最終楽章で、チェロが速い動きをするところ。
8分の6拍子のAllegrettoだけど、かなりスピードが必要だ。
  <左の赤枠の中の前半部分が難所>

48小節にも同じパターンが現れるが、こちらは第1ポジション前後でなんとか演奏可能だ。
しかし158小節から出現する同じパターンの旋律は、第4ポジションでの速い動きが必要で、
同小節前半のファ-ミ-ファ-ソ-ファまでは追いつけても、後半から始まるレ-ファ-ド-ファ-シ♭-ファは、
一段下がっている「レの音」を、親指で押さえるのか、瞬時にポジションをずらして人差し指で対処するかしかなさそうだ・・・
いずれにしても大変困難で、結局団員はほとんど全員落っこっちゃっている。

 ベテランエキストラの方にとっても難しいらしく、最悪は助っ人のプロの先生のソロになりかねないのだ!
その先生といえば、おどけて難題の「レの音」を、なんと顎で押さえて弾く離れ業を見せてくれた!
その頭を左に傾けて顎を突き出してネックに乗せた瞬間の、いたずらっぽい表情に思わず笑ってしまった。
「顎シフトをみんなでやりましょうか、一斉に顎を突き出したら会場が沸くかも」なんて冗談言ってみたもののサブ~い。

何度も聞いた田園のこの部分は、繊細で美しい。
この見せ場を諦めるのが悔しい。

そこで、毎晩特訓を始めた。

以前先生が語ったエピソード「マッチ棒を用意して、自分で100回と決めたらやりきる」というあの話に習えだ。
左手、右手が完全に無意識に連動できるまで訓練すれば、必ずクリアーできるはずだ。
実際繰り返し練習をやってみると、少しずつだが、到達度が変ってくる。

逆に一番良くないのは
「この運指は違うのではないか・・」
「もっといい方法があるのでは」と迷うことだと思う。

「今回はこのシステムで行くんだ」と決め込んでやりきるしかないと思う。

今は、一段下がる「レ」を”顎ではなく”、親指を繰り出して押さえ、
左手全体は第4ポジションから大きく動かさない方法に決めて特訓中。

いくらやっても、本番で落ちる可能性はあるが、やるだけやってみるぞ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定演前 最後の合同練習 ちょっと気がかりも

2010年05月09日 22時51分06秒 | オケの練習
 来週がゲネプロなので、今日が練習としては最後。
このところ 締め切った体育館は蒸し風呂状態たったので、
最後の練習にほっとする一方、ちょっと気がかりも感じた。

この時期になると、我がマエストロ・土田政昭氏は「練習トレーナー」という”仮の姿”から、
指揮者本来の姿に変身される。土田先生の素晴らしさはそこにあると、ある方が言っていた。

 普通の指揮者(たとえば客演の先生)だと、1回か2回練習にこられて、自分なりの表現を指示し、
演奏者への指導には関わらないのが普通なのだという。
演奏者が努力するのは当たり前、指揮者は演奏は出来ないのだから、
与えられた演奏者を前提に自分なりの表現をするのは当然なのだろうとは思う。

 それに比べ我が指揮者は、楽団創設以来の常任指揮者であるからなのか、
あるいはもとももとの面倒見が良い人間性からなのか、
あるいは「教師型」の先生だからなのか分からないが、
交響楽団を育てながら(文字通り生徒指導的な我慢強さが必要)
演奏会では本物の指揮者に変身されるのだ。

(ある指揮者志望の団員はその指導振りを学びに入団されたそうだ)


 つまり、今日あたりになると、箇所ヶ所の演奏(つまり音楽の部品みたいなもの?)や、
技術的な指導に時間を使うことよりも、オケ全体のバランスの調整や
曲全体を音楽としてまおめてゆくような曲作りに集中したいところなのだ。
団員も楽曲全体をイメージしながら表現するようにマインドシフトすべきなのだと思う。

 しかし本日ちょっと残念だったのは、Vnへの指導ばかりが繰り返される最終練習となったこと。
全体の調整という段階に入れず「これでは振れないよ」という先生の嘆きというか、
苦しそうな言葉が何度も出されていた。
「速い箇所や難しいところが弾けないこと自体は問題ではないんだよ」とも言っていた。

 Vnは人数が最も多く、エキストラが逐次参加されることもあり、半年間積み上げたものが
なかなか全体に伝わっていないのかもしれない。
「田園」と「カリンニコフ」というの交響曲を2曲演奏する難しさもあるのかも知れない。

 チェロやCbの低弦は、プロの先生の参加や指導力もあって、あまり問題とされなかった。
自分も最近は 全体の音を聴く余裕が出てきていることもあり、
他のパートの仕上がり状態が余計気になるようになってきたのかも知れない。

 そんなこんなで、来週の演奏会がちょっと心配な気もするが・・
いや わがオケはいつも本番で一番実力を発揮してきたのだから、
これから1週間の各自の努力と本番での本気で乗り切ってゆけるのだろうと信じよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定演目前、エキストラの方々の「妙技」

2010年05月02日 21時46分39秒 | オケの練習
 定演まであと二週間。今日はエキストラで出演されるプロの演奏者も多く参加して、
緊張感と集中力を切らさない練習となった。

 エキストラの先生方の演奏の素晴らしさは言うまでもないのだが、今日は演奏以外で、
さまざまに驚かされることがあったのでそのことを書いておこう。

1)まずはボーイングの変更をすぐ見破るの術 

弦楽器は多人数で同じ演奏を行うので、ボーイングを合わせることはきわめて重要だ。
お客さんから見て格好が悪いのはいいとしても、隣とチャンバラみたいにガチャガチャぶつかったり、
ひどいときには刺さりそうになる。それも音楽としては見逃すとしても、アップにするか、ダウンで行くか、
あるいはアップダウンを切り替えるかで曲想が変ってしまうから全体での統一は重要だ。
 
 だからボーイングは事前に譜面に書き込まれ配布されるのだが、そのボーイングが主席
(あるいはトレーナーの先生)の判断でしょっちゅう変更が加えられるのだ。
プロやベテランのエキストラの皆さんに驚かされるのは、主席のボーイングの変化を
即座に見つけ、鉛筆を持ち、即書き直すそのスピードの速さだ。
3列4列後ろでも即見つけるのはなぜ出来るのだろう
 僕など必死に譜面にしがみついているので、前列の変化を見る余裕が全く無い。
みなさんは楽譜を覚えているのは前提で、指揮者、主席、譜面など広角的に見ているのかもしれない。
そうでなければ不可能な「秘技」に見える。

2)譜めくりの術 ~ツバメ返しか?~

弦楽器は同じ楽譜を演奏するので、二人で譜面を見るようになっている。
管楽器は全員が違う譜面を見て演奏するので一人に1台なのだろうと想像している
(過去Hrやってたころは見やすくてよかった。特に目が弱くなってくると余計そう思う)
そこで僕のように列の裏側の奏者が譜めくりを担当することになるのだが
(弦楽器は管ほど休みが多くはないので、途切れては困るのだ)

この譜めくりがなかなかうまく行かない。

オケの練習用の譜面台がボロイこともあるけど、先週もコンミスのプルトでは、演奏中に
二回も譜面全体を落っことしていた。下手すると、こうなるのだ。
そこでそっと、ゆっくりと・・というわけにも行かない。もたついて表側の奏者の演奏に
支障が出ては困るし、自分も大事なところで追いつけなくなるからだ。
 でも焦るとめくりそこなったり、楽譜を落としたり、慌てると弓を落としそうになったりする。

僕の譜めくり速度はチェロから手を離して、めくり終わり、弓を持ち直すまでには
恐らく6~7秒掛かっているのではないかな~。

 それが、本日 目のあたりにしたのは1秒?位の早業だった!
しかも譜面に何の乱れもなく、即次のフレーズに突入しているではないか。
この妙技の持ち主が、本日僕の表側で演奏してくれた、あの「万能演奏家」のお嬢様先生。
 ん~どうして?という顔したら「あたしこれ得意なの」だって。すっげーウルトラC。

3)演奏場所発見の術 ~透視能力?~

この力はすごい!

 演奏会への追い込みともなると、指揮者は気になるところでストップし再スタートを繰り返す。
そのたびに「小節番号125から」とか、「Dから8小節目」とか「Eから数えて12小節」とか、
「ファゴットがタタタタと入るところ、わかるよね」とか、探しにくい所からのスタートも多い。

 僕の場合は必死に小節を数え始めて、ようやく開始場所にたどりつくことができる。
数えては見たものの、再スタート箇所に自信がないときには、周りが演奏を始めてから
追いつくこともある。
結構やっちゃうのが、開始場所を探しきれずに入り損ねて、落っこちてしまうことだ。
このタッチというか、乗りというのも「音感」の一部なのだと思うと、少々落ち込む。

 ところがどうだろ!
 
隣の先生、前のページだろうが、目の前のページだろうが、即座に「ここ」と弓で指してしまう。
驚くことに、指揮者がどこを指示するかも予測しているかのように、
指示が出た瞬間に「ここ」と教えてくれるのである。

 あまりの早さに「動体視力ですか?」と聴いてみたら「ま~そんなものね」とおっしゃっていたが、
どこが課題になるかを見抜いているのは、全体の音を聴いていないとできないことだろう。
「昔からしつけられてきたから」というなぞめいた言葉も残して行かれたが、
プロの先生が入る場所を間違えたことはほどんどない。
 この力も、音楽技術であり、楽曲理解のバロメーターなのではないかと思う。

4)調弦の術 ~その場で楽器調整のマジック~

 チェロのチューニングは、ネックの上部にあるペグと、下部にある微調整ネジで行うが
今日は微調整ネジだけではチューニングがうまく行かなくなっていた。温度変化が激しいのだ。
隣の「万能先生」は それを見抜いてしまったのか「もうこれ限界まできてるでしょ」と、
ちょっとした休憩時間に僕のチェロを抱えて始まったのが、弦と駒の調整作業だった。

 微調整のねじを全部一杯まで開放したら、弦をビロビロに緩めて、駒の位置まで両手で調整し
(恐らく直角を保つように)、一気に全部の弦を新しい状態にしてくれたではないか!
なんだか赤ちゃんのおしめを取り替えているような風情だったのが不思議だ。

 微調整でチューニングが取りきれないときの苦労は大変で、オーボエが温まっていないときと
温まってキーが高くなったときのギャップを微調整でまかないきれないことがよくある。
そんなときはネックの先端のペグを回して調整するのだけど、非常に力がいるし、
その後の微調整にも時間が掛かるので 演奏直前のペグ回しは恐怖に感じているのに・・

彼女はあっという間に終了。

調整の効果は抜群で、その後安心して演奏できるという状態になれたのだった。
「僕はまだまだオシメが取れない赤ちゃん状態?」と感じてしまったな~。
弦調整の技というのも、大事な音楽の素養なのだ!

 それにしてもこのお嬢さん、どうしてあの硬いペグを動かしながら弦調整できるんだ?
やっぱこれもコツがあるに違いない。残念ながらそこまで聴けなかった。

 音楽の演奏技術以外、さまざまに驚くことはあるのだけど「音楽一筋に生きてきた人たち」が
繰り広げる、さりげない技に、積み重ねの厚さ、奥深さを感じることができた。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指揮者の指摘に、初めて逆らっちゃった

2010年05月01日 00時14分13秒 | オケの練習
今日は参加者が少なく、トップサイド、つまり主席と同じプルトで演奏することに。
目の前には指揮者がいて、スコアーの書き込みもピンクや青のマークまで見える位置だった。

主演目の練習が終わり、アンコール曲「ローエングリーン」より第3幕への前奏曲の練習中のこと。
すでに昼休みに練習時間は食い込んでいる時間帯のことだった。

「チェロ(入るのが)早過ぎる!」の指摘で演奏はストップ。
あの有名な、喜びを表しているという、3連符で駆け上がり、盛り上がったあと
収束して下りに入るところへの「入り方が早過ぎる」というご指摘なのだ。

いつもなら注意のあと「はい、もう一回」となるはずが・・・
「君だ!」と僕のことを指さしたではないか!

僕としては、全然間違って演奏してなかったし、指揮者から「間違った指摘」を
名指して受けた経験は入団以来初めてのことだったので、一瞬とまどったものの・・
「いや、僕はちゃんとやってますよ」と答えていた。

果たして、どんな反応が返ってくるかとちょっと心配してはいたが・・
「なぜ正しいと分かるんだ」ときた!

どうしてったって、証拠も何もあったもんじゃないから「何言ってんだ!」と思ったが
「ここの部分は自分できちっと弾けた自覚がありますから」としか言えなかった。

すると「こちらにはちゃんと聞こえているんだから」とかなんとか言いながら
「まーいい」という感じで演奏再開となった。

演奏会近くなると、この先生必ずテンションが上がって、あちこち槍玉にするのは
常套手段なので、ま~しかたないか・・とも思ってはいるけど、
自分で自覚がないというか(上手い下手は別に)譜面どおりに弾けている部分を
名指しで指摘されれば、自分の名誉のためにも抗弁せざるを得なかったのだ。

ところがである、演奏に一旦戻ったものの、やはり先ほどの駆け上がる部分のチェロが
気になるのか、「もう一回チェロだけ」と戻って弾きなおすことになった。

「こりゃやばいかなー・・あら捜しか~・・先生を刺激しちゃったかな~」と少々不安が混じり始めた。

いつもなら「チェロ合わない」とか「チェロ誰か音程低い」とか「低弦もたつくな」とか
言われても、全部自分が悪いかもしれないという風に、恭順の様子ですごしてきたけど、
なぜか今日は名指しだったから反発し過ぎちゃったな~・・・
(実際は自分が悪いのかも知れないと思ったときは、密かに落っこちて
全体の音を聞いてみると いい加減な演奏している人は他にいることも多いのだ)

さてチェロだけで弾き直してみると「なんだ違うのはあんたじゃないか」と指揮者にも
犯人は別の人だということがはっきりして、何とか冤罪は晴れたような不思議な気分だった。


そんなこんなで午前中の練習を終えたとき、入団以来始めての出来事があった。

指揮者がこちらに近づいてきたと思うと「さっきは悪かったね、失礼しちゃった」と
わざわざ笑顔で謝ってくれたではないか!
「いえいえ、全然気にしてないですから、いつでもどうぞ!」
とこちらも精一杯の笑顔で答えたと思う。

しかし、このわずかなやり取りが、今日一日自分の中では、
さまざまな思いを喚起しながら反芻されたのであった。

「間違いとはいえ、指揮者の指摘に逆らったのはまずかったかな~」
「指揮者がわざわざ謝ってくれるなんて、なんだかかえって悪いよな~」
「いやいや率直ないい先生だよな~」
「やっぱ『すいません』と受け流す方が大人のマナーだったのかもしれないなー」
「僕の短気ですぐムキになる性格は変らないよな~、俺ってまだまだだな~」とか

「それにしても、名指しで指摘を受けたのはこの3年で初めてのことだったよな~」
「なんだか叱るだけの力がついてきたということなのかな~」
「これって、オーケストラの端くれとして認められたということ・・」とかとか。

てな具合に、あれやこれや思い起こしていたのです。

そういえば帰り際に、オケのインスペクター(全体の世話役さん)から
「チェロ弾けるようになったじゃない。最近楽しくなってきたでしょ」と
さりげない一言があって、これも合わせて様々に僕の頭は忙しくなったのだった。

「おーやっぱり認められ始めたのか(喜)」
「いやいや これまで弾けなかったけどみんな我慢してくれていたということ(哀)」
みたいな風に。

いずれにしろ、この小さな出来事、些細な一言で、事態は変化を迎えるのであろう。
一端(いっぱし)の口を利いた以上練習あるのみなのだ。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オケの定期総会に参加して思ったこと

2010年04月25日 23時28分26秒 | オケの練習
 市民オケに入ってもうすぐ3年になろうとしているが、まだまだ新参者気分だ。オケの運営の当事者という気持ちになっていない。
 そんな自分がオーケストラの運営がどのようになされているのか、つぶさに感じられたのが、年に一度の定期総会だった。

 オケ全体練習のあとの総会では一年間の活動報告、来期の活動計画、収入支出項目が詳細に書かれた、立派なアニュアルレポートが配布された。いつの間にこんな立派なまとめをしているのだろう。
 思えば団長、会計担当、広報担当の活躍だけでなく、楽器を整備したり、楽譜を調達したり、団費を集めたり、指揮者やトレーナーの先生たちと調整を図ったり・・・多くの役割を担った人たちの努力で成り立っていることを思い起こされた。

 総会は団員の3分の2以上の出席で成立し、議案は参加者の過半数で議決されることになっている。会議運営の姿は、企業の株主総会のような、取締役会議のような(イメージしか分からないけど)雰囲気もした。
 「なぜここまでしなければならないのかな~」と一瞬思ったが、実は市の税金から毎年大きな支援を受けていて、きっちり報告し、次年度の予算を執行してもらわないとならないことも説明された。これなら、今話題の事業仕分けなんかがあっても何の問題もないと思った。

 一方で「なぜ市から多額の支援をいただけるのか」とふと思ったりもする。
その理由は、市民だけでなく周辺の街から、さらには遠く東京からも通ってきて、努力している団員の活動があるからに違いないが、何よりも定期的に開催する演奏会に多くの市民がやってきてくれ、評価してくれているからだと思う。その評判なしには市当局だって認められるわけないだろう。

 今日の総会で活動の結果を見させてもらうと「自分はただ乗り」しているだけのような、後ろめたさも少し混じった。
 だとしたら 自分にできることは何だろう?やっぱり演奏技術を磨いて、少しでも演奏に貢献することが基本だと思う。
 少なくとも演奏において「ただ乗り」というか、お気楽に弾けるところだけ弾いて参加している気分になっている、というわけにはゆかないと思う。

その面では、最近基本練習のおかげで、チェロが鳴ってくれていることが大きな支えになってきている。あとは、難しいパッセージの繰り返し練習による克服でなんとか貢献したいと思っている。

そんなことを考えていて 少し気になってきたことがある。
自分も還暦寸前だけど、実は団創設以来のベテラン団員の高齢化が気になっている。
本人の意欲が続く限り活動して頂きたいとは思うが、年齢には限界もある。体調を壊すことも多くなるだろう。

多くの企業が直面している「○○年問題」というかたちで、一斉にキャリアある人たちが抜けたらどうなるのか・・東京のど真ん中ならまだしも、千葉県の地方都市にある楽団なのだ。ホームページにはほとんどのパートで「経験者募集中」「大募集」が踊っている。

 なんとかオーケストラ人気がもっと盛り上がらないものか・・・
 今上映中の「のだめカンタービレ」最終楽章は結構良かった。でもこの映画だけではオーケストラを作り上げてゆく情熱は伝わらないよな~。テレビシリーズはまさにそれだったけど。

 そういえばフランス製作の映画「オーケストラ」は、かつてプロだったけど現在は掃除人やタクシードライバーをやっている人たちを寄せ集めて、素晴らしい演奏を再現するというストーリーらしい。宣伝ではマイケルのThisi is it!を抜いて、パリではNO1になった映画とか。

まだ見ていないけど、ぜひこの映画を見て、また元気をもらいたいと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弦トレの先生は今日も「詩人」だった。その背景は?

2010年03月22日 16時04分04秒 | オケの練習
毎回楽しみにしている弦トレ。今日はカリンニコフ交響曲第一番を弦楽器だけで練習した。

 トレーナーの先生はチェロ奏者で、弦楽器の演奏についてはあらゆる悩みに応えられるはず。
でも先生は、奏法やテクニックもさることながら、曲の解釈、表現そのものの示唆によって
アンサンブルの表現を様変わりさせてゆくことに驚かされる。

 本日のアドバイス前後でその変化のコントラストが一番現れたのは、カリンニコフの第3楽章でのことだった。
第3楽章はAllegro no troppoでにぎやかに始まり、途中でModerato assaiに変化し、牧歌的雰囲気になる。
オーボエの寂し気なメロディー、第一Vnが緩やかに応えてゆくのを第2Vnがリズムをきざみ、チェロはarcoとpizzの2部に分かれて単音のベースを繰り返ような部分の合奏が終わった後のこと。

 先生は小首をかしげ「みなさん何かをイメージしながら演奏してますか?」と問いかける。
「みなさんの演奏はこう・・」とややオーバー気味に、思い入れたっぷりにチェロを歌わせてみせる。みんなから笑いが漏れる。
「そうではなくて、ここは昔話をしている感じなんですよね」と今度は素朴な感じで同じメロディーを演奏する。その瞬間みんなから感嘆の声が上がる。

 その瞬間に見えたのは、本当に昔話をしているロシアの田舎の風景。日本ならさしずめに囲炉裏端でおばあさんが孫に話して聞かせているような場面だった。
 同様に伴奏のきざみもピッチカートもそれぞれに先生が、みんなの弾きかたと”物語にあわせた”弾き方を実演してみせる。なるほどと納得だった。
 当然その後の演奏は全く表情の異なるものになっていった。

 弦トレの先生は、言葉での説明は上手ではないことはご本人もよーく分かっていて、説明しきれない場合は「ここは、なんというか・・ちょっと違うんですが・・」と表現の違いを弾き分けて示してくれる。
 一方楽曲全体の表現については、詩のような一言で全体を動かす。
以前も「ここは天国ですよ、はいここからは地上に降りて・・」というリードで一気に表情が変化したことがあった。
 先生は口下手かもしれないが、発したときの一言の効果は絶大だ。それは細かなテクニックの指導と比べると演奏に与える影響が非常に大きいと思う。

 ところで、一言で全体が大きく変る・・・これは何を意味しているんだろう。

 楽器も一人ひとりの個性もバラバラな集団が、たった一言で、共通の世界を示し始めるということがあるんだということなのだが、それはなぜなのだろう?
人は意味、価値、目的・・・さまざまなものを共有させようと必死で努力しているが、普通それは簡単なことではないのに、ここではそれが一瞬で行われたのだ。

 僕が思う理由は、演奏する人たちが、共通の「情景」を共有したということだと思う。
しかも「情景」というのは、視覚的だけでなく、その場に立ちあい、肌寒さや匂いをも共有するに近い感覚なのだが、そういう意味での「情景の共有」は集団にすごい力で一致感を生み出してくれるのだと思う。

 先生の一言は、まさに「情景に立ち会わせる」ことにつながっている。
 これは「詩」の持つ力だ。

 先生がそんな「詩」みたな言葉を発信することができる理由はどこにあるんだろう?

それは先生は作曲家が創造した音楽の世界に没頭し、そこで見たり、触れたり、匂いをかいだり、味わっていることに他ならない。そしてその世界で見聞きしたことを、一言の言葉に乗せて伝えてくれているのだと思う。
 そして共有した「情景」が「心情」の共有を生み出し、「音楽」にストレートに反映されるのだ。

 音楽家の先生はすごいと思う。技術の先にしかありえない世界を旅して、その”旅行記”を「詩」にして伝えてくれている。技術の壁に汲々としているいわれわれに、その先の世界を思い至らせてくれるのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第九を演奏できるチャンスが与えられた

2010年03月12日 20時52分42秒 | オケの練習
 本年年末 12月23日に いよいよベートーベン第九「合唱つき」に参加できる!

 所属するオケに出演依頼が届き、団員の8割方の賛同を得て年末の第九を演奏することに決まったのは大分前、年末のこと。その第一回の練習がいよいよ始まるのだ。

 ちなみに反対票はFgチームだったかも。なんでかな~・・・
  演奏の困難さ?
  4管編成(実は知らない)? 
  前後の演奏会が立て込んでいる?
  それともコントラファゴットが無い? 
こちらは「目○○蛇に怖じず」で「はーいはーい」ってな感じで手を揚げたけど、いざ楽譜が届いてみると「こりゃ大変な大曲だ」と実感。

 以来第九コンサートが放映されるたびにVTRに貯めおき、N響2本と読響、計3本のVTRができた。これと楽譜をみくらべて行くと、ボーイングの方向や、左手のポジションのとり方が少しずつ解明できてきた。

 ちなみにその中では読売交響楽団をオスモ・ヴァンスカが振っている演奏が傑出していると感じていて、あんな小気味良い、鮮烈な演奏ができたらさぞかしすばらしいだろうなーと思っている。

 さて第九は聴けば聴くほど、すばらしい曲。第一楽章、第二楽章・・・全てに「祈り」がこめられているのを感じないわけにはゆかない。4楽章「合唱」はシラーの詩で、神様が出てきて、世界の人々が手を取り合う・・・みたいな言葉はあるが、それよりもベートーベンの天才は、音楽の響きそのものの中にに敬虔な祈りを込めたのだと感じる。

 amazonを通して購入したスコアブックがたった今届いた。冒頭に諸井三郎氏による解説が載っている。それによるとベートーベンが第九を構想したのは1812年ころ、シラーの詩を読んだのはそれより20年くらい前だったということだから、200年以上の時を越えて、彼の「祈り」が極東の自分に届けられてきて言うとおもうと、不思議だ。

 どんな「祈り」を込めていたのだろう。
 なぜそんな「祈り」を祈る気持ちになったのだろう・・・
 決して言葉では表わせることができない「祈り」なのだろう
 
 のだめで知った「クリティーク」が今こそどうしても必要な気がする。


 いろいろ第九について考えてみたけど、まだ練習には全く手をつけていない。ちょっと演奏してみてもいいか・・と思うが、いざ音を出そうとしても、なんだか練習曲集的に楽譜にアクセスするようで、申し訳ない気持ちなのだ。
 でも来週には第一回練習が始まるわけだし、恐れながら音出しをしないわけには行かなくなった。

 明日土曜日からベートーベン第九を解禁にしよう。
振り返ると、初めてチェロを購入して生の楽器にさわり、その感激でこのブログをスタートしたのは、2007年3月15日だった。それから丸3年が経過しようとしている。まさにその瞬間に、ベートーベンの第九の練習を開始できるとは、なんて幸せ者なんだろう!

 今年1年、定期演奏会、ファミリーコンサートの合間を縫って、最大最高の交響曲に取り組んで行こうと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする