ポエトリー・デザイン

インハウスデザイナーが思う、日々の機微。

「不在」が「表現」するもの。

2014年07月14日 | blog
ファレル・ウィリアムスのHappyは、1AMバージョンを最初に見た。ファレルが四分、ワンカットで踊ったあと、二人目のおっさんが強烈だった。何より驚いたのは、そのおっさんも四分フルコーラスで踊り切ったことだ。

三人目くらいでようやく「そういうプロモーションなんだ」ということに気付いたが、気付いてからも色々見てしまった。なんというか、目が離せなくなる。

見ながらずっと考えていたのは、この、目が離せなくなる理由は何か、ということだ。

そして発見したのは、ある一つの法則だ。完璧ではないが、共通点がある。

「ダンサーは、カメラを見ない」

公式の四分ビデオではカメラ目線のダンスも多いが、一時間版のYouTubeでは、ほぼ全員がカメラを見ない。これは意図的な演出だろう。

ではなぜカメラを見ないのか?

カメラを見るというのは、観客を意識するということだ。カメラを見ないというのは、観客を意識しない、つまり「勝手に踊ってる」ということになる。なぜ勝手に踊るのか。それは

「自分自身のために踊ってる」

ように見えるのだ。勝手に踊ってる人は好きで踊ってる「ように見える」。観客に対して「オラオラ」感がない。ただ、自分自身のために踊っている。だから、目が離せない。

凄い演出だと思う。

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この事を考えたのは少し前だ。思い出したキッカケはPerfumeのライブDVDを借りて感動したからだ。テレビ以外のPerfumeの映像作品を見たのは初めて。

何が凄いって、「生身」の演者がメンバー3人しか出てこない。バンドもダンサーも一切無し。東京ドームの広大なセットのなかで、完全に孤独な三人のメンバー。

『ボコーダーにロボットダンスでお人形さんみたいに生臭さを徹底的に抜いたスタイル』と勝手に思ってたけど、「生身の人」が三人しか出てこないことで、「すべての表現を引き受けた三人」の生々しさが、生き生きと際立つ構図になってる。すごい。


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どちらも、何かが不在であることで、何かを強烈に表現している。


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