ポエトリー・デザイン

インハウスデザイナーが思う、日々の機微。

血液型と、性格。

2014年07月25日 | blog
血液型と性格の関係には、科学的な根拠はないそうです。たしかに根拠は無いかもしれませんが、私は相関があると思ってます。

私は、父がA型、母がO型でした。
姉がO型で、容姿も性格も父に似ている自分は、確率的に(笑)、ずっとA型と信じていました。

中学2年の頃だったと思います。理科の実験で、血清を使ったABO型の判定という授業がありました。自分の血を採って、血清と混ぜて、凝固反応でABO型の血液型を判定する、というやつです。

今では考えられないかもしれませんが、実は私は自分の正確な血液型を知りませんでした。(ちなみに事故などの際はその場で血液型を調べるので、あらかじめ本人が血液型を知っておくことにあまり意味はありません)。その理科の実験で、初めて正確な血液型を知ることになったのです。

ずっとA型だと、なんとなくそうじゃないかと信じていた自分が、血清で調べたらO型でした。びっくりして教諭に何度も確認しましたが、O型でした。

そのとき、何かふっと気持ちが緩むような感覚があったことをよく覚えています。

ああ、自分はA型じゃないんだ。もう真面目で几帳面である必要はないんだ…と。

中学生くらいの思春期は、まだ自我が確立していません。
不安的な自我の10代は、自分が何者であるかの根拠を常に求めています。ほら、私って、ナントカなひとじゃないですかぁ…と言える根拠を。

そこに、血液型の性格診断はピッタリはまります。

本質的に、ほとんどすべての占いは、自分事として見ると、何割かは当たっているものだと思います。

ちょっと話が逸れますか、これは自分の誕生日が、天秤座と乙女座の境目であることにも関係しています。もし自分の両親が、出生日を一日ずらしてお役所に申請していたら、生まれの星座が変わっていた。だから隣の正座の占いを見て、これが自分の星座と思ってみると、案外当たっていたりします。(もしも自分が占い師だったら、自分もきっとそういう占いを書くでしょう)

だから後天的な刷り込みとして、占いと性格には相関があると思っています。もちろん科学的な根拠はありません。科学というより社会学ですかね?


デザインの境界線。

2014年07月18日 | blog
この記事が面白かった。



まずは反射的に、スマホが「デザイン性」無いわけないだろ、と思いますが。

しかしデザインを生業にしていると、「へー、そんなものもデザインされてるんですかー」という素朴な疑問に触れることは多いです。

当事者であるデザイナーの常識として、「目に触れるほとんどすべての人工物はデザインされている」というのは当たり前ですが、一般の人(て誰だ)にとってはそんなのただのトリビアです。

この記事の場合、タフネスという「性能」を重視したために「デザイン」が無いことになってる。

これは面白いですね。機能とデザインが相反するもの、ということになってます。

そのことを糾弾するつもりもありません。世間はそんなものだと思います。デザインに対する無理解とか軽視とか、ヘンテコなデザインが蔓延しちゃう背景として、納得感ある話です。

んで、お客さんに対して「わかってないなぁ」なんて言ってもなんの意味もないので、我々メーカーのデザイナーとしてはそういう現実を呑み込んだうえで、日々のデザインをしています。

そのことに気付いてやってるデザインと、気付かずに翻弄されてやってるデザインがあって、わかる人にはわかります。一見ださく見えるデザインも伊達じゃない、ってことは結構ある。


「不在」が「表現」するもの。

2014年07月14日 | blog
ファレル・ウィリアムスのHappyは、1AMバージョンを最初に見た。ファレルが四分、ワンカットで踊ったあと、二人目のおっさんが強烈だった。何より驚いたのは、そのおっさんも四分フルコーラスで踊り切ったことだ。

三人目くらいでようやく「そういうプロモーションなんだ」ということに気付いたが、気付いてからも色々見てしまった。なんというか、目が離せなくなる。

見ながらずっと考えていたのは、この、目が離せなくなる理由は何か、ということだ。

そして発見したのは、ある一つの法則だ。完璧ではないが、共通点がある。

「ダンサーは、カメラを見ない」

公式の四分ビデオではカメラ目線のダンスも多いが、一時間版のYouTubeでは、ほぼ全員がカメラを見ない。これは意図的な演出だろう。

ではなぜカメラを見ないのか?

カメラを見るというのは、観客を意識するということだ。カメラを見ないというのは、観客を意識しない、つまり「勝手に踊ってる」ということになる。なぜ勝手に踊るのか。それは

「自分自身のために踊ってる」

ように見えるのだ。勝手に踊ってる人は好きで踊ってる「ように見える」。観客に対して「オラオラ」感がない。ただ、自分自身のために踊っている。だから、目が離せない。

凄い演出だと思う。

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この事を考えたのは少し前だ。思い出したキッカケはPerfumeのライブDVDを借りて感動したからだ。テレビ以外のPerfumeの映像作品を見たのは初めて。

何が凄いって、「生身」の演者がメンバー3人しか出てこない。バンドもダンサーも一切無し。東京ドームの広大なセットのなかで、完全に孤独な三人のメンバー。

『ボコーダーにロボットダンスでお人形さんみたいに生臭さを徹底的に抜いたスタイル』と勝手に思ってたけど、「生身の人」が三人しか出てこないことで、「すべての表現を引き受けた三人」の生々しさが、生き生きと際立つ構図になってる。すごい。


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どちらも、何かが不在であることで、何かを強烈に表現している。


納富廉邦さんの「百四十文字小説集」。

2014年07月02日 | blog
あのね、「素人でもたまにうまいこと言う」というのがTwitterだと思うんですけど、その、『素人ダンスバトルの会場』みたいなところに、ふらっとプロがやって来て、ささっと軽いステップを踏むんです。

あはは、くすくす、と笑っていると、こんなのはどう?こんなのは?と次から次へとステップが。テーマを、文体を、スタイルを変えて、140字の短編は続きます。

はじめはくすくす笑っていても、やがて「あれ?」と気付きます。幾つも幾つも繰り返される、『軽い』笑い。SF、エロ、ホラー、落語。たまにじゃない、まぐれじゃない、圧倒的な『量』から生まれた、プロのお遊び。



納富廉邦さんの「百四十文字小説集」。 140字というフォーマットが、プロの凄さを際立たせます。