ポエトリー・デザイン

インハウスデザイナーが思う、日々の機微。

ブランドと、ものまね。

2014年05月23日 | blog
あ、パクリのことじゃなくて、ブランディングの話。CIとか、企業ロゴくらいの範囲で。

ロゴやCIが変わってガッカリすることって、ありますね。なんでこうなっちゃんたんだろう、と。
あれは、当事者があまりにも「変わりたい変わりたい」という想いが強すぎて、守るべきところも捨てちゃうからだと思うのです。
外から見て、「ここいいトコなのにな」と思われているトコまで、捨てちゃう。

なんでそうなっちゃうかというと、やっぱり当事者は自意識過剰なんです。
変わりたいのは勝手だけど、誰もそんなにあんたに事なんて見てないよ!
そして、自ら築いた価値…これまで積み上げてきた世間のイメージ…に、気付いていないことが多い(だから捨てちゃう)。

これは似顔絵に例えるとわかりやすいです。似顔絵は特徴を端的に、デフォルメして描きます。
これは記号化された世間の印象の最大公約数みたいなもんです。

自分じゃちょっと嫌いなところもコンプレックスも、似顔絵にはありありと表現されていて、なかなか自分では客観的に受け入れにくいものです。
(余談ですが、似顔絵を描いてくれる友人知人がいる人は大事にしましょう。それはあなたにとって大事な視点です)

さて、ブランドは認知されてこそ価値が、(その前に意味が)あるのですが、人々に残る「印象」には往々にして自分の嫌いなところやコンプレックスを含んでいることが多い。
そんな弱みもひっくるめて客観的に「今」を受け入れて、次ににどうなってゆきたいかを考えるべきです。

---

ものまね番組のご本人登場シーンが大好きです。
ものまねはそれこそ、その人の隠したいところも変えたいところも容赦なくデフォルメして見せつけます。

そして「あ、やっぱご本人、違うな~」と思わせる人は、表面的な特徴を超えた表現力の豊かさだったり、
特徴や印象を残しつつ今風に垢抜けたルックスだったりします。
針すなおの似顔絵を受け入れたうえで、意思と方向付けを持って、アップデートしている。

たぶん、佐藤カシワなんかはそういうところが上手いんだと思います。
よくヒアリングして、似顔絵描いて、「うん、我々の今はこういうことだよね」ということを共有して、次に向かう。
そういう視点は、内部の人だけではどうしてもできない。ブランディングには、似顔絵師が必要なんです。


(最後に余談ですが、着るものをイメージチェンジしたいときに、似顔絵を描いてみるといいかもしれません。
ちょっと前に流行ったBitstripで似顔絵(アバター)作ってみたんですが、
痩せたメガネ坊主に普段着てるような服を着せたら全然似合わなくてショックでした。客観性って、だいじ。)

田中圭一、「わが生涯に一片のコマあり」。

2014年05月18日 | blog
『激白!東村先生。『主泣き』誕生秘話! - 電子書籍ストアBookLive! http://booklive.jp/feature/index/id/wagakoma1405 』

田中圭一氏というのはモノマネ職人みたいなもんで、モノマネ職人はものまねの対象をそれはもう深く深く観察しているであろうことは想像に難くない。本人が憑依したようなあるあるなタッチは常人を超えた観察眼の賜物であろう。

現在BookLive社の社員である田中圭一氏によるこのコラムの使命は「この漫画、読んでみたい!」と思わせることだ。

モノマネ職人であり、自らも表現者たる深い観察眼を駆使して「これ読んでみたい!」と思わせるエッセンスをこれほどまでに「作者」から引き出したインタビュアーがいただろうか。漫画界の町山智浩か!

いや、これは「評論」ではなくあくまで「販促」だ。そもそも実力があるうえに目的が明確化されているのでその破壊力、効果抜群だ。

田中圭一氏自身も凄いが、彼を
社員として擁し、このコラムを企画したBookLive社は慧眼だ。おかげでまんまと東村アキコ「主に泣いています」を全巻揃えてしまったよ!




問題は…本文以外をよく読まずに買ったので、BookLiveではなくAmazonで買ってしまったことだ。趣旨台無し。大変申し訳ございません。このインタビューが凄い!と思った方は是非BookLiveで購入されることをお勧めしやす。一巻無料だし。

劇団四季、リトル・マーメイド。

2014年05月18日 | blog
劇団四季のリトル・マーメイド見てきた。いま日本で見られるミュージカルの王道中の王道。普段ギャグでしか見ることの無い「朗々と歌い上げるミュージカル」の正真正銘のホンモノ。鍛え抜かれた表現力と身体能力。そりゃあすごいわ。

とにかく誰も彼も、何か言う度に歌う度に日本屈指の発声で響き渡る。気持ちいいことこの上ない。こっちでバリトン、そっちでソプラノ、くどいくらいのファルセット。

シルク・ドゥ・ソレイユもそうだが「舞台上で、どう見えるか」ということだけに究極にこだわった儚いビジュアル。本当の構造とか本当の素材とかはどうでもいい。ただ舞台のうえで、客席からの角度で、記憶の中の記号を呼び覚まし、さらに拡張するための、舞台の上だけの視覚効果。

普段ソフトウエアのデザインをしていても、ユーザーから見えているのは液晶画面でしかないので似たようなことを考えることがある。どう見えるかという結果だけが真実。その「結果」にどこまでこだわれるか。そして、じつは「結果」じゃないところに拘泥することの何と多いことか。