ポエトリー・デザイン

インハウスデザイナーが思う、日々の機微。

ユートピア。

2014年06月20日 | blog
朝、自転車で住宅街のある交差点を通ると、お巡りさんが小学生を誘導している。初老の、人の良さそうなお巡りさん。小学生はみな挨拶したり、他の子についてお話したりする。通り過ぎると自転車の私にも「おはようございます」と挨拶をくれるので、慌てて返す。

朝、交差点にいるお巡りさんに「おはようございます」を笑顔で言える世界は、その瞬間だけは、絵に描いたユートピアのようだ。

世の中いろいろ困ったことばかりで、もうこの世界はすっかりSF映画のディストピアじゃないか、と思うこともあるけど、街のお巡りさんに「おはようございます」と言うだけで、ポッと灯りが灯る。

ちょっと気恥ずかしいかったけど、もう慣れた。こんな簡単にユートピアを感じることができるなんて、安いもんだ。


「ペンを持っているのは自分だ」という事実。

2014年06月17日 | blog
自分で自由にできないことはつらいものですが、正確に言うと「自分でなんとかなりそうだけど、できない」というのが一番つらい。

雨が降るとか、自分でどうにもならないことは諦めがつきますが。

デザインというのは多かれ少なかれ身を削って生み出すもので、ダメ出しやりなおしがつらいですね。

クリエイティブというと無から有を生み出すみたいですが、それよりも「具体的にする」というところにチカラを使います。

イメージとかコンセプトとかの実体のないものを、身も蓋もない物理的な存在として現すというところ。

「なめらかなライン」は具体的に数値を伴ったアール…2800Rなのか3000Rなのか…を規定しなければ実際のモノにはならないし、「暖かみのある雰囲気」は実際にRGB値と座標を伴うフォーマットに具体化しなければモノにはならない。

そうやって、イメージを自分の身体というフィルターを通して現世に存在させるのがデザイナーの仕事なので、表現されたものは自分の一部というか自分自身でもあります。

それを、できたモノ見て「こうじゃないんだよなー」とか「イメージ違うんだよなー」とか「もっと違う切り口ありませんかねー」とか言われるのはつらい。そりゃつらいです。

そんな時いつも考えるのは、たとえ何をどんなに言われても、「ペンを持っているのは自分だ」という事実です。

何をどう言われようが、このアールの具体的な値を決めて、この色味の具体的なRGBを決めているのは自分だと。そこは、相手がどんなに声を枯らしても、最後の意思を表現するためのペンを持っているのは自分だと。(それがたとえ誰にもわからない違いであったとしても。)

空想の世界が誰にも邪魔されず完全に自由であるのと同じように、たとえ言われたとおりの線を引いたように見えても、そのペンにどう力を入れる自由は自分にある。

からだをうごかす。

2014年06月02日 | blog
体育会系のノリと勝負事が本当にきらいで、だからスポーツ全般に一切興味がなく、だから自分が本当は『体を動かすことが嫌いじゃなかった』、ということに気付くのに本当に時間がかかった。

勝負事が嫌い、というのは負けず嫌いだとおもう。

小学生くらいの頃、よく家族でトランプをやった。両親と姉の4人家族。ババ抜きか七並べ。どっちも相手をダマすゲームだ。これが悔しくて悔しくて、毎回負けて毎回泣いて地団駄を踏んだ。

ドッジボールも嫌だった。憎んでいた。当てられると痛くて、悔しくて情けなくて泣いた。あとは悪循環だ。

勝負事が嫌いすぎて、たとえ勝っても嬉しくない。だからとにかく避けてきた。(まあ、それでも人生なんとかなる)

運動の話だ。

娘と毎週末にプールに行っている。娘は水に顔が漬けられない。でも水で遊ぶのは気に入っている。

去年の夏は毎日プールに行った。外で遊ぶには暑すぎたし、屋内の遊び場はあまりないし、妻が療養中で遠出もままならなかった。

最近は娘がだいぶプールに慣れたので、すこし目を離せるようになった。そっと25mプールを半分ほど泳ぎ、また戻る。子供ができるまでは20年くらい泳いでなかったが、さすがに毎週末に泳いでいるとカンも戻る。

いま興味があるのは脚の使い方だ。脚は手の5倍くらいの筋力があるわりに、水を蹴ると効率がわるい。手をうまく使った方がよくすすむ。不思議なのであれこれ試している。

そういうことが楽しい。体の動きをよく観察して、工夫を重ねる。

娘と同じように、水に顔を漬けられずに泣いていた小学一年生。あの頃の自分におしえてあげたい。体うごかすって、おもしろいんだぜ。





自由自在。

2014年06月01日 | blog
5歳の娘が、どんな小さいことでも何かができるようになったときは、「自由自在だね」と言うことにしている。「うまいね」ではなく、「よくできたね」でもなく、「自由自在だね」。

子供というのは本当に不自由で、「自分の意思」で「自由」で「自在」にできることなんてほとんどない。自由にできることが何もないなんて、自分に置き換えたら気が狂う。

だから、わずかなことでも、できたことは「自由自在だね!」と言うことにしている。「自由自在を、もっと増やそうね」と。

人生における「面白さ」というのは、どれほど「自分の意思で、自由自在にできるか」に尽きるとおもう。
逆に、世界のすべてのストレスの源は「自分の意思で、自由自在にできないから」と言ってもいい。


自由自在を、もっと増やそう。