ポエトリー・デザイン

インハウスデザイナーが思う、日々の機微。

20110311、地震。

2011年03月13日 | blog


会社で仕事をしている時にそれは起こりました。
机の下に隠れ、サンダルをスニーカーに履き替えました。



天井の構造部材が一部崩落し、蛍光灯がぶら下がっていました。
壁が崩れたところもありました。
人が手で動かせる机や什器は、すべて動いているようでした。
デスクの上は大型の液晶モニタが倒れ、あらゆるものが散乱していました。
フロアのセキュリティドアは開放され、代わりに鉄の防火扉が閉まっていました。人の通り道は手動で開けるタイプです。

電気と水道は生きていたのでトイレに行き、自販機でお茶を買っておきました。

デスクの上の、避難するのに役に立ちそうなものをカバンに放り込みました。ハサミとカッター、ペンとメモ、ペンチ、携帯の充電器、お菓子、ひざ掛け。

フロアは五階だったのですが、非常階段から見ると、街の数カ所から黒煙が上がっているのが見えました。

外に集まり、点呼を取り、徒歩で帰れるものは帰るようにという判断が出たのが15:40頃だったと思います。方角を同じくする同僚7人ほどと歩き始めました。

電車が止まっているのはわかっていたのですが、バスが見えたので乗ることにしました。家までは行けませんが、途中の駅まで移動できれば電車が動くかも、という淡い希望がありました。
バスはすし詰めで、一台は見送り、二台目に乗りました。

信号が消えていることに、走り出して気付きました。当然ひどく渋滞しています。警察官が交差点で誘導していました。車は恐る恐る譲り合っていました。時折、工事の誘導の警備員や、地元の高校生と思われる少年たちが、交差点で交通整理をしていました。コンビニの電気が消えていたので、停電とわかりました。その暗いコンビニには、すでに長蛇の列ができていました。

「人が手で動かせる机や什器はすべて動いている感じ」と書きましたが、街を見ていると、その揺れは「建物のせいで増幅されたのかもしれない」と思いました。自転車が一切倒れていなかったからです。

妻とは連絡が取れませんでした。娘の保育園も電話が通じませんでした。

けれど、情報収集のためにTwitterを開いたら、妻のつぶやきがありました。自転車通勤の妻はすぐ保育園に娘を迎えに行き帰宅していました。被害は食器だけと。18分前でした。

同行した同僚たちは、冗談を言い合ったりして励ましあっていましたが、私は半分上の空でした。その時はじめて、妻と娘と連絡が取れなかったこと、無事が確認された事を言いました。既婚で子供がいるのは私だけでした。妻とはその後、Twitterのダイレクトメッセージでやりとりしました。

結局、5キロほどをバスで移動し、残りり10キロを歩くことにしました。その時点で同行の同僚は二人。一人が薄着だったので、持っていたウインドブレーカーを貸しました。徐々に日は暮れはじめ、冷たい向かい風が吹いていました。

停電のエリアと電力があるエリアを何度も通りました。
週末に解約するつもりだったドコモのガラケーが役に立ちました。
ワンセグとFMラジオで情報収集しながら歩きました。

トレーニングもなく長距離を歩く場合、痛めやすいのが足首であることを経験的に知っていたので、足元には注意を払いました。

6キロほど移動したところで一人が帰着し、もう一人は先が長いので自転車を買いました。最安値ではなく、ちょっと可愛い折りたたみを選んだところがデザイナーのサガでしょうか。

二人と別れ、すっかり日が落ちた残り4キロを歩きました。その時間になると、徒歩で帰宅する人が増え、歩道が混雑しはじめました。

世田谷の自宅に到着すると、妻が娘と遊んでいました。二歳の娘にはいつもの夕食どきです。遊んでくれとせがまれましたが、ふらついてうまくできませんでした。いつも一緒のお風呂は妻に頼みました。

被害は食器棚の食器が7~8枚。電気ガス水道とインターネットはすべて生きていました。

東京の揺れは東西方向でした。集合住宅は南面を多く取るために東西に長い形が多く、東西方向の揺れには強いのが不幸中の幸いだったかもしれません。

会社のビルは南北に長いので、上層階では揺れが増幅されたのかもしれません。実際、1~2階に目立った被害はなかったと聞きました。

実家の父とはなぜか早い時間にメールがつながり無事を伝えました。翌日iPhoneのViberで固定電話と繋がったので少し話しました。

あす月曜日は、久々に自転車で会社に行こうと思います。
まずは片付けから。