海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(10)

2010-09-20 08:18:30 | 歴史
 そもそもこの「山林原野御下戻願」は、明治12年の地租改正(注)で、大河平の山林原野が官有林に組み込まれたことを契機としている。ところが、明治17、8年頃になって、国が国庫を増やすためか、この際の地割り等が不備だったとして、再度、私有林の国有林化を推し進めたのである。この結果、宮崎県下では猛烈な反対運動が起り、隆芳もこれに乗り、官有林化された大河平地区の払戻し嘆願書を出したと思われる。
 このとき、国の、なぜ明治12年の改正のときに訴え出なかったのかという疑問に対して、隆芳は、明治10年、長男夫婦子供まで殺害され、その復讐の念で犯人探索にやっきになっていたため、しばらく財産のことなど顧みる余裕などなかったと言っている。
 これは、隆芳があらかじめ国側に出した諸資料を検討し、国がなぜ私有地だといえるのかという疑問を出した中の一つに数えられているのだが、隆芳はそれ以外、さらに4つの疑問点に絞って「山林原野御下戻願」の中で答えている。そして、それらを隆芳がどう答えているか、それぞれ解説してみたい。
 中には、私自身いまだにピンとこない項目もあるので、何とか理解できる項目から入っていくことにする。
 では最初に、なぜ大河平には「名寄(なよせ)帳」が現存していないのか、という国側の質問に対して、隆芳がどう答えているか見てみよう。
 まず、隆芳に言によれば、「名寄帳」というのは、納税のための土地台帳だという。たとえば、官有の地を開墾した士分の者が、その田畑の石高を算定し、高成(たかなり)願(持ち高に繰り入れ願い)を出せば、その願いを出した者の知行高として「名寄帳」が下付される。もしそれが持ち高制限を超えた場合など、その超過した部分だけは小作人同様の取扱いを受け、藩庁直轄の蔵入高(くらいりだか)とするため、「名寄帳」が下付されるのだ、と。
 要するに、隆芳は、もともと大河平の地は、島津家から山林原野のまま下付されたので、石高(高積=たかづもり)もなかった。だから蔵入高などもなく、「名寄帳」など現存していないのは、当然のことだと言っているのである。
 この辺りが、島津体制の中でも異質だといえるのだが、その異質さ、奇妙さは次ぎの疑問点にも続いている。

(注)・・・鹿児島県は、明治10年の西南戦争まで政府の意向には従わなかったので、地租改正等の事業はほとんど進まなかった。諸県地方もその例に漏れず、明治12年になってようやく一通りの地租改正が終わったようである。


大河平事件再考(9)

2010-09-19 08:14:59 | 歴史
 やはり、これらのことには、長い間の主家に対する「恨み」のようなものが根幹にあったと考えたほうがいいような気がする。

 少し前にもどるが、『えびの市史』には、求磨(くま)の皆越氏の家臣については何の言及もなかった。たぶん、かれが連れて来たであろう一族郎党が主体となって、肥後相良との国境警備にあたることになったのは想像に難くない。 
 もっとも、「今城」の戦いで、以前の大河平氏一族郎党130名が討ち死にしたと書いているとはいえ、最初に入った大河平氏の郎党すべてが滅んだわけではないだろう。さらに、それでも足りない場合は、地元の武士を登用したかもしれない。まだまだ統一されていない戦国期なのだから。それゆえ、皆越氏が連れて来た郎党、元々の郎党と新規の郎党の間の軋轢が遠因になっているという想像も可能である。
 あるとき、私と懇意になった地元の郷土史家は、大河平氏には60家の家臣(注)がいたというようなことを言っていたことがある。もしそうだとすると、一介の地方武士である皆越氏が最初から連れてきた家臣としては多すぎるような気がする。『市史』にもあったが、皆越夫妻が飯野にやって来る際、相良氏などの報復を恐れてか、義弘は60名の護衛を送って出迎えた、ともあるのだ。
 だから、皆越氏が大河平家を再興したには違いないにしても、その家臣団は一枚岩ではなかった。
 私が、何度か訪れた大河平という地域は、いわば高台の山間地で、平地部は少なく、農業を主体に生活できるような場所ではなかった。
 それでは、家臣団はいったいどういう生活を送っていたのだろうか。これは、正直言ってよくわからない。が、今回はもう一度大河平隆芳の「山林原野御下戻願」を詳細に辿ることで探ってみようと思う。

(注)・・・そのうちの10家は、幹部(皆越氏が連れてきた直属家臣?)だとも言っていた。これらの家臣団のことをある程度裏付ける記述が、「山林原野御下戻願」にあった。隆芳は、慶応年間、英国式銃兵一小隊(80名)の編制を命じられたことがあり、その諸費用充当に四苦八苦したことをそこで述べている。一小隊80名を組織するためには、それだけの士分の者がいたということだろう。


大河平事件再考(8)

2010-09-18 08:02:33 | 歴史
 これを知った鷹丸は、嫉妬にかられ、妻を離縁した。当然、理由は内密にしただろう。これが表沙汰になれば、自分の不名誉ともなるし、ともに成長した「信頼ニ足ル」家臣も失ってしまうことにもなりかねない。
 おそらく、離縁の理由は、どうとでもなった。たとえば、大河平家になじまないとか、跡取りの男児が生まれないとか。
 あるいは、これらとはまた違った筋立ても可能かもしれない。それというのも、後添えに入った歌(子)の素性が今一つはっきりしないからだ。大河平家の家格にあった城下士の娘だという痕跡が見えないのである。
 それゆえ、もし歌(子)が大河平近辺の地方武士の娘、また大河平出身の娘だったとしたら、どうだろう。これなら、また幾通りかの筋立てが可能だろう。ひょっとして、川野道貫だけでなく、清藤泰助や他の若者たちも巻き込んだ「恨み」まで発展した「騒動」でもあったのかもしれない。
 もちろん、こんなことは、隆芳の「山林原野御下戻願」には一切書かれていない。隆芳が、一家斬殺の原因に挙げているのは、川野が主家の財産である山林を盗伐し、それらを売り払うという不正を働き、それを鷹丸に追及され、これを「恨み」に思ったからだとしている。
 しかし、考えてみれば、これだって奇妙なことのように思える。聡明で「信頼ニ足ル」川野に、大河平家の管理を任せたのに、数年を経ずして、裏切ったのである。もともと、川野が面従服背(ふくはい)の徒で、それを鷹芳や鷹丸が見抜けなかったとしたらともかく、もしそうでなかったとしたら、川野が不正を働くに至った動機もあったはずだろう。
おまけに、川野と清藤が共謀したのかどうかわからないが、「山林原野御下戻願」のある項には、清藤泰助も、「明治九年中、・・・檪(くぬぎ)樹ヲ伐採シ櫓(ろ=やぐら)木ヲ製造シ、人吉ノ商人藤田某ニ売却シ」たりもしているのだ。たとえ、かれらが面従腹背の悪漢だとしても、そして、それが周囲の人達にわかってきたら、主家殺しに十数人も従(つ)いて行くだろうか。
 つまり、川野や清藤には、不正を働く動機があったと考えたほうが、納得がいくのである。だが、それが単に鷹丸の妻にまつわる「私怨」だとしても、またそのことで不正を働いたとしても、獄中で漢詩まで作る大人まで巻き込み、それも赤ん坊まで殺す「動機」足りうるかというと、はなはだ疑問に思えるのである。
 言い方を変えれば、単に、「私怨」が発端だとしたら、鷹丸一人をあるいは鷹丸夫妻を殺害するだけで充分なように思える。十数人で子供(跡取り)まで殺害するというのは、主家を断絶させたいという意味合いまで含まれているのだから。

大河平事件再考(7)

2010-09-17 08:12:34 | 歴史
 想像力豊かな小説家なら、この辺りを巧みに取り入れ、それなりに物語をこしらえあげることもできようが、どうも私の想像力はそういう風に羽ばたかない。だが、一度だけそういう線で踏み込んでみよう。

 最後の大河平「在番」だった大河平隆芳が鹿児島の「本宅」に引き上げ、そのあとの管理を事件の第一首謀者であった川野道貫(みちつら)に委ねたことは、『西南之役異聞』でも述べた。
 もちろん、このことは、隆芳の「山林原野御下戻願(お下し戻し願い)」の中にあることなのだが、そこで隆芳は、道貫の来歴を次のように語っている。  
 かれは、橋口武八の次男で、本来、大河平では、次男以下は百姓になる運命だったが、聡明な子供だったので、大河平家臣の富裕な河(川?)野家へ養子としてもらわれた。そして、隆芳の長男である鷹丸と同い年でもあったので、「文武学修」の友としてともに成長した。
 それから、明治5年になって隆芳が鹿児島に移ることになると、「其才幹用ユルニ足ル」青年になっていた道貫に、大河平家の「所領地ナル山林原野田畑ニ関スル一切ノ事ヲ管理セシ」めた。
 このあと隆芳は、その後の道貫の不正を暴いていくのだが、その前に、何も書かれていない長男鷹丸の明治5年前後に戻ってみる。この頃、すでに鷹丸は結婚していて、3人の子供がいた、と推定できる。事件で殺された長女がそのとき、11歳だったとすれば、当時は5、6歳だろう。そして、次女の英(子)は、2歳か3歳、三女の時(子)は、1、2歳ということになるだろうか(注)。
 ところで、後妻の歌(子)の長男が事件当時5歳だったとすれば、ちょうどこの頃生まれたことになる。ということは、先妻と離縁したのもこの頃だろう。
 もしそうだとすれば、この離縁の理由が川野道貫と何らかの関係があったと想像することは可能だ。たとえば、道貫と鷹丸との先妻との間に、不義密通があったとか。
 もっとも、不義密通が露見したとなれば、大罪である。道貫がそのまま大河平家の管理など任せられるわけがないし、切腹か追放をまぬがれないだろう。だから、これはありえないとしても、道貫と鷹丸の妻との間に密通とは行かないまでも何か「親密な」関係があった。鷹丸と道貫とは「文武学修」をともにした仲だったのだし、道貫は自由に主家に出入りも出来ただろうから。

(注)・・・繰り返すが、「山林原野御下戻願」の(注)には、長女と英(子)は先妻の子としてあるが、時(子)については、よくわからない。私は年齢的に見て、時も先妻の子と推定している。

大河平事件再考(6)

2010-09-16 08:11:10 | 歴史
 だから何なんだ、と言われても困ってしまうが、どうもこの事件の全貌がよくわからなくなってきているのは、この「曖昧さ」も一因になっているということではないだろうか。
 あの戦争中、なるほど、早くから起きた「投降事件」やそれによって引き起こされた「処刑」などという薩軍内部の「秩序の乱れ」が明らかになった。 
 しかしながら、それはあくまでも戦争の所産であり、戦争が直接の原因であった。そして、そうとしか言いようがない。
 それでは、大河平事件はどうかというと、戦争が間接的な引き金になったのは間違いないとしても、その戦争が直接幼児虐殺までつながったとは言いにくいのである。というより、それとは関係なく、大河平というやや固有の特殊な地域で起った悲惨な事件だった、と言ったほうが当っているような気がする。

 私は、大河平家の墓地にある献灯碑を見たとき、その碑に刻まれた女性名の多さに何か異様な感じを受けたことを覚えている。と同時に、幼児を殺害されたという悲しみの他に、女性たちの哀れみを誘う何かまた別の問題でもあったのだろうか、と考えたこともある。
 たとえば、殺された鷹丸には先妻の子供と後添えの歌(子)との間に6人の子供がいた。「山林原野御下戻願」には、(注)で、長女と次女は先妻の子供としているが、年齢からいって、私には上の3人の子供は先妻の子供のように思える。そのうち11歳の長女は、後妻の歌(子)の3人の幼児とともに殺されている。運良く助かったのは、現場から離れた場所で遊んでいたという8歳の英(子)と7歳の時(子)だった。
 私が大河平家の子孫と関係のある家からもらった資料によると、どうも碑銘にある女性たちは、何らかの理由で離縁され、城下に戻っていた先妻の親族と関係がある名前のようである。とすれば、かの女たちが悲しみ追悼したかったのは、幼い幼児たちが殺されたのは当然ながら、先妻の子である長女が母親と生き別れ、さらに事件に巻き込まれたことをとくに悲しみ、追悼したかったためかもしれない。
 ところで、なぜ最初の妻が離縁されたのか、また、いつ頃なのか、なぜ子供を置いて一人実家に戻ったのかなど何もわかっていない。
 わかっているのは、最初の妻は、城下侍の娘だったということぐらいである。

大河平事件再考(5)

2010-09-15 08:05:42 | 歴史
 この戦いで「今城はついに廃墟と化した」が、これで大河平氏が滅んだわけではない。隆次の姉がいたのである。かの女は、求摩(人吉地方)の皆越六郎左衛門という武家に嫁いでいた。そして、実家の大河平一族が滅んだことを知り、深く嘆くと同時に大河平一族の再興も念じていたという。
 その再興のチャンスが、永禄11年(1568)にやってきた。伊東義祐の密使が皆越宅に泊った際、伊東氏と人吉の相良氏が共謀して義弘のいる飯野城を攻めるという話を、皆越六郎左衛門の妻女が耳にしたのである。これぞ大河平氏再興の時とばかり、妻女は腹心の八重尾岩見を使者として義弘の元に送り込み、委細を報告させた。これを聞いた義弘は、準備万端、相良氏の侵入を防ぎ、ついにこの伊東氏の野望を打ち砕いたのである。
 この結果、義弘は使者を遣わして皆越の妻女の功を賞し、「今義弘に随身するなら大河平の地を与え隆次の跡を継がせる」と伝えさせた。そこで、「皆越氏も意を決し島津氏に臣従を誓った」という。
 皆越氏が飯野城に入ると、義弘は六郎左衛門に大河平を本領として与え、名前を大河平左近将監隆俊と改めさせた。
 以後、隆俊は敗滅した大河平家の再興に奮励して基盤を整え、一族は最後の「在番」である大河平隆芳の代まで続いたのである。
 
 『えびの市史』にある固有名詞をできるだけ省いて、以上のようにまとめたが、『市史』それ自体も、『飯野町誌』や隆芳の『山林原野御下戻願』を下敷きに記述しているだろうから、それらからもさほどはみ出たものではないと思う。
 言ってみれば、これが、あの明治10年の大河平事件を「誘引した」一族の「歴史」である。もちろん、これで何かがわかるというものでもない。ただ、ほぼ土着の諸豪族を支配下に治めてきた島津氏の中では、やや特殊な一族と言えることは間違いないだろう。それゆえ、島津氏内における位置もあいまいなのだ、と。

大河平事件再考(4)

2010-09-14 08:06:50 | 歴史
 ともかく、大河平氏が、いつ頃、どのような経路で入国するようになったのか、その辺りから探ってみよう。
 『えびの市史』によれば、まず「大河平氏は南北朝動乱の世に、南朝宮方の主将として奮戦した菊池氏の支族である」と始まり、菊池氏初代から6代目の隆直の代で、平家は滅亡した、とある。そして、軍略上から肥後の菊池の領地に帰っていた隆直も源義経と豊後の緒方惟能の策謀に敗れると、次男の菊池二郎隆定が菊池氏7代を継いだ。この隆直の5男に隆俊という人物がいたが、かれが大河平氏の始祖だという。その隆俊は、一族郎党10家を率いて菊池から八代(やつしろ=熊本県)に移り、八代の領主になって姓を八代五郎隆俊と名乗った。
 その後も、着々と地盤を固め、初代から6代目になる隆氏が、「菊池氏本家と提携し、南朝宮方の将として各地を転戦しながら、征西将軍懐良(かねなが)親王を八代に奉迎」したりした。
 ところが、隆氏から9代目の隆屋の時代に大友氏との戦いに敗れ、「ついに家臣66家を率いて飯野郷大河平村に移り、飯野城主北原氏の家臣」になったという。
 この北原氏というのは、のちに内紛によって滅亡するようだが、土着豪族の一隅にいた。そして八代隆屋が北原氏の家臣になったころは、島津氏の勢力圏だった飯野城を守備し、その支配下にあった。その結果、永禄5年(1562)、隆屋は、栗野城において島津義弘に拝謁し、主従関係を誓ったので、大河平の地を本領として与えられたのである。
 以後、隆屋は大河平姓に改め、3代まで大河平城を守ってきた。しかし、3代隆次の代に、伊東義祐が飯野に出兵し大河平城を襲撃している。まだ年若い隆次がこれを何とか凌いだため、義弘はこれに感激し、大河平地区以外の土地も安堵した。さらに大河平城の近くに新たに「今城」と呼ばれる城を構えさせ、そこを本拠に伊東氏に備える準備もさせた。
 しかしながら、これが北原氏の妬みを買ったのか、かれらの策謀によって、永禄7年(1564)、手薄になっていた「今城」を伊東の軍に襲撃され、大河平一族郎党「枕を並べて全員戦死し、城は陥落して妻子ことごとく捕われて」しまったのである。

大河平事件再考(3)

2010-09-13 08:02:51 | 歴史
 脱線したついでにもう一つだけ面白い知見を挙げておく。
 石高のない薩摩郷士の大半は、鎌倉期以来の、普段は農業に従事し、いざというときに戦場へ駆けつけるというような、ほぼ農民と言っていいような人たちだった。もちろん、これはある程度土地を持ち、何とか食っていける人たちのことだろう。だが、食っていくだけの土地のない者はどうするのか、というと、以前どこかで話したように大工などをしていた。そして、この『えびの市史』(下巻)には、大工の他、「鍛冶、紺屋が士族(郷士)たちの職であり、平民は石工、木挽(こびき)、左官、桶屋の職人になるように仕組まれていた」とあるのである。
 これは、明治以降の話として出てくるが、実際は江戸期以来のことだろう。こういうことまで規定されていたというなら、もっと具体的な職種を書いた史料があったはずである。なぜなら、こういう「仕組み」は、お上からの指令なのだから、より細かい、具体的な文書で通達されていたはずなのだ。
 あの徳川幕府が出した「慶安の御触書」を見ればいい。農民に対してうんざりするほど細かい指示を出している。島津氏が支配した薩摩藩が、これに習わないはずがないではないか。いや、それ以上だろう。
 私がなぜこんなことにこだわるかというと、鰹舟の船頭だったといわれる田中新兵衛は、どうだったのかということが知りたかったのである。
だが、残念ながら、内陸部の諸県地方には、鰹舟の船頭の項目はなかった。そういう職につく者がいなかったので不要だったのである。

 さて、今までの脱線話で、えびの地方も間違いなく薩摩領域内にあったことがわかるが、どうも薩摩藩内における大河平氏の位置がはっきりしない。
 土着の一族でもなかったし、地頭というようなはっきりした役職になったこともない。強いていえば、大河平の「在番」(奉行でもない)という「職」を代々引き継いでいたということだけである。また、以前、地元の郷土史家に聞いたところによれば、馬に乗れる家格だというようなことを言っていた。とすれば、奈良原助左衛門(喜左衛門や繁の父)家のような「小番」格以上だったのだろうか。  
 もっとも私は、「小番」格の奈良原家が馬に乗れたのかどうか知らない。このあたりかもう一つ上の家格(「寄合並」)あたりが馬に乗れるか乗れないかのギリギリの線だと推測しているだけなのである。ご存じの方はご教示願いたい。


大河平事件再考(2)

2010-09-12 08:20:16 | 歴史
 私は今、まだ真新しい郷土史である、平成6年刊行の『えびの市史』(上下2巻)の下巻を開いている。まだ真新しいというのは、6,7年前、最初にえびの市の図書館を訪れた際、図書館と隣接した「郷土資料館」で「まっさら」なものを購入していたからである。おまけに、『西南之役異聞』で利用したほか、あまり見開くことがなかったからでもある。そしてその時点で、いい出来の郷土史だとは思っていたが、前回、いろいろな地域の郷土史を紐解き、それらと比較すると、さらにいっそうその感を強くした。
 「大河平事件」は当然のことながら、西南戦争中、鹿児島の郷土史ではほとんど記載のなかった2度目の隊編制の詳細、それぞれの配置や周辺の戦闘状況と、余すことなく伝えてくれている。それも、適切で明確な資料の提示も怠りなく、文章も非常に読みやすいときている。文章の読みやすさという点では、あの『姶良町郷土誌』にも充分に優っている。
 ところで今回、大河平一族の歴史も再確認しようと中世編から目を通して見た。すると、近世編とは違う執筆者が担当していることはわかるものの、資料提示の的確さや解説の明解さ、さらにかなり多くの人の目を通したと思われる校正の厳格さという点でも「出色」の郷土史だということがわかった。
 
 話は少し脱線するが、こういう郷土史を読むのは楽しい。こんな経験は初めてだった。今までは、必要のためだけ、半ばいやいや目を通していたが、この郷土史だけは、そういう気がしなかった。部分部分の項目を何気なく読んでいても新しい知見が頭に飛び込んできて、いわばワクワクさせられたのである。 
 そういう知見の中で最大の収穫は、巻末に掲げてある史料集を眺めているときに出遭った。そこにあったのである。私が目を通した限り、鹿児島の郷土史にはなかった籾高表示の史料が。
 「(日向<ひゅうが>諸県<もろかた>郡)飯野郷池嶋村門別<かどべつ>田畑」という史料に、それぞれ等級分けされた田畑の収穫(目安高)量がすべて籾(高)となっていたのである。以前、このような明確な史料が『縣史』を含めて鹿児島の郷土史では見出せなかったため、苦労して私なりの推論を展開した。が、何のことはない、ここにあったのである。
 日向国内の史料とはいえ、島津支配下にあった土地柄なのだから、何の問題もない。島津氏は、薩摩、大隅、日向(諸県郡)という三州の支配者であり、その威令通達は、琉球や島嶼群を除けば、2,3日で隅々まで浸透したはずである。
 だから、ここが例外であるという批判は的外れであろう。たとえ、本文で70数万石という公式数字を挙げていたとしても。

「大河平事件」再考(1)

2010-09-11 08:03:34 | 歴史
 私が、今まで西南戦争の史料を漁ってきたのは、本来は大河平(おこびら)事件の真相を知りたいためだった。どこかに、この事件の真相を暗示したり、あるいは示唆したりしている記事があるのではないか、という一縷の望みにかけたいためであった。それが、いつの間にか意外な方向に発展し、おそらく地元鹿児島人ですら、ほとんど知らなかった薩軍内部の「投降事件」という不協和音が出てきてしまったのである。
 私はそれまで、西郷隆盛の下に、薩軍はまるで揺るがない一枚岩のような印象をもっていた。なぜなら、この戦争を私に語ってくれたほとんどの鹿児島人自身がそう信じ、そう語っていたからである。
 ところが、どうもそれが怪しいことがわかってきた。いや、怪しいどころか、いまだにそれらの情報を抑えていることが、出水事件や大河平事件を曖昧にしている遠因であることもわかってきた。
 だから、まずこれらの問題を一つ一つ解明していかない限り、大河平事件のような特殊な事件の解明も無理なのかもしれない。
 ただ、今回、一つだけ収穫があったとすれば、あの6月15日に起きた事件の外因のようなものがやはりあったということである。
 まず、もっとも早い5月15日前後の蒲生(かもう)隊の降伏、それから6月4日の人吉隊の大量投降、6月12日の谷山隊の「裏切り」と翌日の投降。これらのことが薩軍首脳部、すなわち辺見十郎太や河野主一郎らを怒らせ、その後の処刑等に駆り立てた「狂気」に走らせたことは想像に難くない。そしてそれらは、飯野の負け戦(いくさ)の中にいた事件の首謀者たち、川野道貫(みちつら)や清藤(きよふじ)泰助はもちろん他の大河平士族たちにも伝染した。
 もっと別な言い方をすると、当時、あの地域全体が異様な空気の中にあったのである。そして誰もそこから逃れられなかったとすれば、数ヶ月の赤ん坊から10歳までの子供4人が惨殺される異常な事件は、起こるべくして起こったと言えなくもないのだ。ただ、これはあくまでも外的な因子であって、内的な要因とはいえない。では、内的な要因とは何だったのだろうか。殺された鷹丸の父である大河平隆芳の『山林原野御下戻願』で言っているような、川野や清藤らの個人的な恨みからだろうか。
 もちろん、私は何度も、これだけで徒党を組み、いたいけない赤ん坊や子供まで殺す要因足りえないと繰り返してきたが、ここでもう一度これを取り上げ、再考してみたいと思う。