海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(6)

2010-09-16 08:11:10 | 歴史
 だから何なんだ、と言われても困ってしまうが、どうもこの事件の全貌がよくわからなくなってきているのは、この「曖昧さ」も一因になっているということではないだろうか。
 あの戦争中、なるほど、早くから起きた「投降事件」やそれによって引き起こされた「処刑」などという薩軍内部の「秩序の乱れ」が明らかになった。 
 しかしながら、それはあくまでも戦争の所産であり、戦争が直接の原因であった。そして、そうとしか言いようがない。
 それでは、大河平事件はどうかというと、戦争が間接的な引き金になったのは間違いないとしても、その戦争が直接幼児虐殺までつながったとは言いにくいのである。というより、それとは関係なく、大河平というやや固有の特殊な地域で起った悲惨な事件だった、と言ったほうが当っているような気がする。

 私は、大河平家の墓地にある献灯碑を見たとき、その碑に刻まれた女性名の多さに何か異様な感じを受けたことを覚えている。と同時に、幼児を殺害されたという悲しみの他に、女性たちの哀れみを誘う何かまた別の問題でもあったのだろうか、と考えたこともある。
 たとえば、殺された鷹丸には先妻の子供と後添えの歌(子)との間に6人の子供がいた。「山林原野御下戻願」には、(注)で、長女と次女は先妻の子供としているが、年齢からいって、私には上の3人の子供は先妻の子供のように思える。そのうち11歳の長女は、後妻の歌(子)の3人の幼児とともに殺されている。運良く助かったのは、現場から離れた場所で遊んでいたという8歳の英(子)と7歳の時(子)だった。
 私が大河平家の子孫と関係のある家からもらった資料によると、どうも碑銘にある女性たちは、何らかの理由で離縁され、城下に戻っていた先妻の親族と関係がある名前のようである。とすれば、かの女たちが悲しみ追悼したかったのは、幼い幼児たちが殺されたのは当然ながら、先妻の子である長女が母親と生き別れ、さらに事件に巻き込まれたことをとくに悲しみ、追悼したかったためかもしれない。
 ところで、なぜ最初の妻が離縁されたのか、また、いつ頃なのか、なぜ子供を置いて一人実家に戻ったのかなど何もわかっていない。
 わかっているのは、最初の妻は、城下侍の娘だったということぐらいである。