海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(68)

2010-09-02 08:15:12 | 歴史
 『蒲生郷土誌』や「西南戦争と蒲生」の不可解さの謎に迫っているうちに、いつの間にか『谷山市誌』の謎が解けてしまったが、もう一度『蒲生郷土誌』に戻ってみよう。
昭和版も平成版も赤塚源太郎の項は判でおしたようにほぼ同じ表現だった。それでは、その部分を昭和版で見てみることにする。

    一番隊帰順(これも何だかなあという感じ・・・私注)
 各地の戦斗が漸く酣(たけなわ)なるとき、淵辺高照、別府晋介、辺見十郎太等が募兵のため鹿児島に帰ったが、蒲生からも兵員三百七十余名、軍夫七十五人が隊伍を編成して出陣した。此の隊兵は肥後八代、日奈久(ひなく)、人吉方面に転戦した。当時、加治木、帖佐、重冨、各郷に於ては帰順兵を見なかったが、独り蒲生に於てのみこれを見たのは、始めから郷党が分裂したことによるものであろう。
同じく、二番立、川崎竜助、本村幸助等は肥後に於て軍艦鳳翔に降った。本村幸助が海軍軍人であった故か。

 私は、(65)で、昭和版、平成版『蒲生郷土誌』ともに、加治木でも帖佐でも重冨でもなく、なぜ赤塚ら(吉留ではない)が最初に帰順したのかということについて云々、と綴った。しかし、ここでは、「最初」を「独り」、そして、いつなのかということについて、「当時」という曖昧な表現で濁していることがわかる。そういう意味でいえば、私の要約は正確ではなかったのだが、それはともかく、このことで、蒲生の郷土史家たちは、如何に「帰順した日」と「最初に」ということをウヤムヤにしたかったことがわかるだろう。
平成版も昭和版のほぼ丸写しなのだから、蒲生の郷土史家の意識は変わっていないということになる。
 つまり、かれらにとって、吉留盛美(もりよし)の名前を出すことは、蒲生郷の士族が薩軍最初の「裏切り者」を出したことを明確にすることになり、どうしてもそれだけは避けたかったのだろう。
 戦後、「二番立」の帰順派は一時的に蒲生郷の実権を握った。しかし、「一番立」の有力者が懲役などから戻って来ると、形勢が変わり始める。そして、「明治十四年国会開催の大詔が下ると郷内は吏党、民党の政争に変じ、小学校子弟や農夫をもまきこむ激しい争いとなった」と述べていたように、その「しこり」がいまだに残っているのかもしれない。