海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(73)

2010-09-07 08:08:33 | 歴史
 私は、3,4度、この郷土史に目を通していたが、一回も満足に写真など見ることはなかった。ところが、最後の最後に、何気なく十数人の人物たちの中心人物に目をやり、写真下にある名前と照合すると、小城宗一郎(77歳)と書かれてあった。この人物の名前は、ここで初めて紹介することになるが、私は、何度もこの郷土史に目を通していたので、この人物の名前は知っていた。
 この小城宗一郎という人物は、帖佐隊の投降者である黒江豊彦らとは一線を画していたのである。
 繰り返すが、薩軍の最初の編制で、加治木の区長だった別府晋介の下、独立一番大隊、独立二番大隊が組織され、黒江豊彦ら帖佐士族は、二番大隊十一小隊の中に組み込まれ、薩軍最初の出陣となった。より正確に言うと、帖佐士族たちは、黒江豊彦は二番小隊長として、川崎吉兵衛は五番、川崎助左衛門は七番、そして小城宗一郎が十番の小隊長として振り分けられたのである。ところが、熊本戦線の消耗で隊が編制しなおされると、黒江は行進十番中隊長、川崎吉兵衛、川崎助左衛門はそれぞれその中隊の小隊長として行動するようになるのである。
 その中で、小城宗一郎だけが、別の隊に組み込まれたのか、以後一緒に行動していない。つまり、7月3日夜半、黒江や川崎らが官軍に投降した際、そこにはいなかったということなのである。
 どこにいたのか知らないし、書かれてもいない。しかし、そのかれも、これもどこか書かれていないが、8月18日になって官軍に降伏したとある。ただ、このころ、鹿児島戦線に残っていた部隊は、帖佐郷士族たちに限らず、ほぼ戦意を失い、続々と官軍に投降していたと思われるので、小城部隊の投降もその一つにすぎなかっただろう。ましてや、かれは、黒江や川崎たちと違って、以後官軍に協力した様子もない。ということは、戦後は帖佐に戻り、黒江や川崎とは違った平穏な日々を取り戻したにちがいないのだ。その論より証拠が、この『姶良町郷土誌』の最後に掲げられた写真だと思える。
 私は、以前、226名という大量の兵士を連れて官軍に投降し、あまつさえ、その幹部たちが官軍を教導し協力したと綴った。こういう「裏切り行為」は、故郷はもとより、結局は政府軍でも持てあまされ、路頭に迷ったようなことも言った。
 それが本当のことかどうか私は知らない。ひょっとして、故郷に帰り、強い風圧に耐えながら、かれらを支持する少数の郷土士族に支えられ、ほそぼそと生き延びたのかもしれない。もし私が想像するようなことが正しいとすれば、あの最初に投降したとされる赤塚源太郎らも同じ運命を辿ったのではないだろうか。
 だからこそ、弱い立場のかれらが、最初の投降者と烙印を押されたのだ、と。おそらく、戦後戸長心得となった吉留盛喜が最初の投降者だった。しかしながら、かれには狭い、より閉じられた共同体の中で、今に至るまで影響を及ぼせる政治力のようなものがあった。その差が、赤塚らと一線を画したのではないだろうか。
 今になって、こんなことを考えても仕方のないことだが、かれらは、戦後、薩軍が蒙った以上に深い傷を負ったことは想像に難くない。

 西南戦争とは、ある一面から見ると、長きにわたる独特な島津体制によって生じた「鬱積」や「閉塞感」を「狂気」という形で放出させた、まさに「骨肉相食む」戦争だった。