海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(12)

2010-09-22 08:19:42 | 歴史
 このように、いわば3段論法のように並べられると何となく大河平の特殊性がわかってくる。そしてこのあと、他の「拝領地」はまったくその性質を異にしているので、一所領主のような土地返還に従う必要もなかったし、島津家からも返還を促されたことも、あるいは所有権を没収されたこともない、と続ける。
 さらに、維新の際、領地を返還した一門家や寄合家の邸宅などは、現在みな公共の用に供出されたが、義弘が設計に関わった大河平家の在番邸宅は、明治10年に焼失したものの、宅地はいまだに大河平家の所有である。また、明治12年、領地内にある田畑で禄高になったものに対して、確かに公債証書が下付された。が、高成りの手続きを経ないで、禄高にならなかった田畑は、明治24年現在でも所有し、小作米を取り立てている。
 こうして隆芳は、くどいほど大河平家の特殊性を並べ、他の「拝領地」と異なっている事由を挙げている。屁理屈をこねているようにも感じられる部分もあるが、最終的には認められ、650町歩(ヘクタール)余りの山林原野を手中にしているのだから、何をか況や、である。

 では最後の、主家および家臣たちがどのように生計を立てていたのかという問題と、その過程で述べている境界争いの問題に移ろう。
実をいうと、隆芳はこの問題を最初に回答しているのだが、私にはいまだによく理解できない部分があったので最後に回したのである。より具体的にいえば、ここの回答に関する限り、隆芳が提出した証拠書類の引用が多く、それを目にしていない私には、どうもすっきりと頭に入らなかったというわけである。
 
 さて、国側が出した質問というのは、なぜ「稼山(かせぎやま)」を出願したのかということなのであるが、これを理解するのは少し難しかった。どうも、「稼山」というのは固有名詞ではなく、たとえば、 柞灰(さくばい=肥料にして使うのだろう)、椎茸、山餅(鳥モチなどを得る)、松煙(まつけぶり=墨の原料)などを植えてある山を指しているようなのだが、あまり自信がない。ただ、これらを販売して収入を得ていたことは確かなようで、これらを販売する際に、藩の許可を願い出ることが必要だった。このことを国側が、自分の所有地の生産物を販売するのに、なぜ藩に願いでなければならなかったのか、と言っているのである。