海鳴記

歴史一般

大河平事件再考・補遺(4)

2010-09-30 09:33:22 | 歴史
 そして、親賢には何人の娘がいたのかはっきりしないが、末の娘は、大河平鷹丸に嫁がせている。要するに、松方正義の妻である政子の妹が、鷹丸の最初の妻だったのである。それゆえ、政子にとって、あの事件で殺害された鷹丸の長女・久米は、「姪」にあたったということなのである。逆からいえば、鷹丸の長女・久米にとって、政子は「伯母」さんだった、ということになる。ましてや、前回述べたように、政子の母親は、大河平家の出身だったのである。
 これで、侯爵だった松方夫妻が、献灯碑を贈って供養した理由も頷けるというものだ。
ところで、この碑は、いつ頃造られたのかよくわからない。日付がないからである。推測すれば、明治42年、夫妻で帰郷したときだろうか。
 蘇峰の『公爵松方正義傳』の年表を見ると、松方自身、明治29年にも帰郷し、先祖の「展墓」をしたとある。つまり、墓参りである。だが、このときはまだ伯爵だった。侯爵の爵位を授けられたのは、明治40年だから、明治42年の夫妻の帰郷と符号する。
 夫人自身は、明治10年の6月に上京したようだから、在郷中に事件を知ったかどうかわからない。いや、戦争の混乱中だったから、知らずに上京したことだろう。その後、実家からの手紙などで事件を知ったかもしれないが、30年振りで帰郷し、川上家とは別に碑を造ったのだろう。
 こういうことは、当時、地元の新聞種になってもよさそうだが、私は取り上げられているのかどうか知らない。いや、おそらく取り上げられなかっただろう。もし、取り上げられていれば、この事件が鹿児島で語り継がれても不思議ではないからだ。

 さて、話を元に戻そう。やがて、隆芳の次の代の隆正で大河平家も没落する。隆芳が必死になって獲得した650町歩(ヘクタール)という山林原野も、官選知事の年俸が3、4千円という時代に、10万円で売却し、それを隆正の代で費消してしまうのである。
 あの太平洋戦争中、鹿児島の空襲を避けるため、大河平に疎開したときには、すでに町営住宅に住まわざるを得なくなっていたという。それゆえ、先祖の墓域さえ切り売りせざるをえなくなってしまっていたのだろう。
 大河平家の墓前にある川上家の献灯碑を除けば、侯爵松方家や他の一対の碑も隅に追いやられ、その関係もわからなくなってしまっていたのである。