海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(3)

2010-09-13 08:02:51 | 歴史
 脱線したついでにもう一つだけ面白い知見を挙げておく。
 石高のない薩摩郷士の大半は、鎌倉期以来の、普段は農業に従事し、いざというときに戦場へ駆けつけるというような、ほぼ農民と言っていいような人たちだった。もちろん、これはある程度土地を持ち、何とか食っていける人たちのことだろう。だが、食っていくだけの土地のない者はどうするのか、というと、以前どこかで話したように大工などをしていた。そして、この『えびの市史』(下巻)には、大工の他、「鍛冶、紺屋が士族(郷士)たちの職であり、平民は石工、木挽(こびき)、左官、桶屋の職人になるように仕組まれていた」とあるのである。
 これは、明治以降の話として出てくるが、実際は江戸期以来のことだろう。こういうことまで規定されていたというなら、もっと具体的な職種を書いた史料があったはずである。なぜなら、こういう「仕組み」は、お上からの指令なのだから、より細かい、具体的な文書で通達されていたはずなのだ。
 あの徳川幕府が出した「慶安の御触書」を見ればいい。農民に対してうんざりするほど細かい指示を出している。島津氏が支配した薩摩藩が、これに習わないはずがないではないか。いや、それ以上だろう。
 私がなぜこんなことにこだわるかというと、鰹舟の船頭だったといわれる田中新兵衛は、どうだったのかということが知りたかったのである。
だが、残念ながら、内陸部の諸県地方には、鰹舟の船頭の項目はなかった。そういう職につく者がいなかったので不要だったのである。

 さて、今までの脱線話で、えびの地方も間違いなく薩摩領域内にあったことがわかるが、どうも薩摩藩内における大河平氏の位置がはっきりしない。
 土着の一族でもなかったし、地頭というようなはっきりした役職になったこともない。強いていえば、大河平の「在番」(奉行でもない)という「職」を代々引き継いでいたということだけである。また、以前、地元の郷土史家に聞いたところによれば、馬に乗れる家格だというようなことを言っていた。とすれば、奈良原助左衛門(喜左衛門や繁の父)家のような「小番」格以上だったのだろうか。  
 もっとも私は、「小番」格の奈良原家が馬に乗れたのかどうか知らない。このあたりかもう一つ上の家格(「寄合並」)あたりが馬に乗れるか乗れないかのギリギリの線だと推測しているだけなのである。ご存じの方はご教示願いたい。