海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(70)

2010-09-04 08:15:24 | 歴史
 私は、谷山の地で最初に古本屋を始めたので、ある程度谷山のことは知っている。もちろん、その頃は、鹿児島市に編入されてもう久しかった。また、当時、私は、鹿児島の歴史知識など皆無に近かった。ところが、古本屋をオープンしてから、必要に迫られて歴史を勉強せざるを得なくなってしまった。店の前半分は、漫画棚やエロ本コーナーが占めていたが、奥半分は自分の読んだ本や好みの本を並べていたので、奥にやってきた客は、さまざまな本の所在を尋ねたからである。
 そこで多かったのは、やはりその地方に関する歴史書だった。ああ、地方の古本屋というのは、その地方に関する本を集めなければならないんだ、と初めて認識した馬鹿さかげんだった。これは毎度のことなので、今さら悔やんでも仕方ないが、こんな中で、『谷山市誌』の需要が多かったことは以前も言ったことがある。しかし、なかなか入手できなかったことも。そんな時に、客から昭和42年版『谷山市誌』の執筆者の一人が近くに住んでいることを耳にし、店が休みのとき、一度、その家を訪ねていったことがあった。誰か『市誌』が不要な人を知っているのではないか、と。
 初めての訪問にもかかわらず、その元小学校の校長だった郷土史家は、親切にも自室まで招じてくれた。それから事情を話すと、「そうですか、20年も前の本ですからねー」と言って、自分が今使っているという背表紙が外れかけた一冊を取り出した。そして、「最初は、何冊も抱えていたのですが、皆人にあげてしまって、今はこれだけなんですよ」と言うので、私はそれ以上その話を続けることができなかった。そこで、その沈黙を破ろうとして私は話題を変え、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』の話をしたように憶う。すると、その郷土史家は、「ああ、あの作品ですね。私も読みました」と言って、それを本棚から取り出した。そして、ある頁を開き、「この二人の人物名が違っていましたね。引用した本が古かったのでしょう」と郷土史家らしい指摘をし、私はひどく感心したことを覚えている。だが、名前もどの場面だったかも忘れてしまった。たぶん、谷山に関したことだっただろう。
帰り際、『谷山市誌』の執筆担当者で、まだ生存していたもう一人の人物も紹介してくれた。ただ、そこを2度ほど訪問しても不在だったので、あきらめた。   
 会えなかったもう一人の郷土史家は、古代史の専門家だったことを記憶しているので、今思えば、ひょっとすると、元小学校校長だったあの郷土史家が、西南戦争編の担当者だったのかもしれない。
 そうだったとすると、その穏やかな表情の下に、人知れす良心の呵責のようなものを隠しもっていたのだろうか。
 その後、1、2度、私の店を訪ね、立ち話をして行った。どんな内容だったかまるで記憶にないが。また、偶然信号待ちの車の中から、何人かの「生徒」を連れて、谷山の公園近くを歩いているのを見かけたこともある。谷山の歴史講座の先生でもしていたのだろう。その後ろ姿が妙に淋しげに見えたのは、『谷山市誌』の「秘密」を知った今それを憶い出し、イメージを重ねているからだろうか。