海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(9)

2010-09-19 08:14:59 | 歴史
 やはり、これらのことには、長い間の主家に対する「恨み」のようなものが根幹にあったと考えたほうがいいような気がする。

 少し前にもどるが、『えびの市史』には、求磨(くま)の皆越氏の家臣については何の言及もなかった。たぶん、かれが連れて来たであろう一族郎党が主体となって、肥後相良との国境警備にあたることになったのは想像に難くない。 
 もっとも、「今城」の戦いで、以前の大河平氏一族郎党130名が討ち死にしたと書いているとはいえ、最初に入った大河平氏の郎党すべてが滅んだわけではないだろう。さらに、それでも足りない場合は、地元の武士を登用したかもしれない。まだまだ統一されていない戦国期なのだから。それゆえ、皆越氏が連れて来た郎党、元々の郎党と新規の郎党の間の軋轢が遠因になっているという想像も可能である。
 あるとき、私と懇意になった地元の郷土史家は、大河平氏には60家の家臣(注)がいたというようなことを言っていたことがある。もしそうだとすると、一介の地方武士である皆越氏が最初から連れてきた家臣としては多すぎるような気がする。『市史』にもあったが、皆越夫妻が飯野にやって来る際、相良氏などの報復を恐れてか、義弘は60名の護衛を送って出迎えた、ともあるのだ。
 だから、皆越氏が大河平家を再興したには違いないにしても、その家臣団は一枚岩ではなかった。
 私が、何度か訪れた大河平という地域は、いわば高台の山間地で、平地部は少なく、農業を主体に生活できるような場所ではなかった。
 それでは、家臣団はいったいどういう生活を送っていたのだろうか。これは、正直言ってよくわからない。が、今回はもう一度大河平隆芳の「山林原野御下戻願」を詳細に辿ることで探ってみようと思う。

(注)・・・そのうちの10家は、幹部(皆越氏が連れてきた直属家臣?)だとも言っていた。これらの家臣団のことをある程度裏付ける記述が、「山林原野御下戻願」にあった。隆芳は、慶応年間、英国式銃兵一小隊(80名)の編制を命じられたことがあり、その諸費用充当に四苦八苦したことをそこで述べている。一小隊80名を組織するためには、それだけの士分の者がいたということだろう。