海鳴記

歴史一般

「大河平事件」再考(1)

2010-09-11 08:03:34 | 歴史
 私が、今まで西南戦争の史料を漁ってきたのは、本来は大河平(おこびら)事件の真相を知りたいためだった。どこかに、この事件の真相を暗示したり、あるいは示唆したりしている記事があるのではないか、という一縷の望みにかけたいためであった。それが、いつの間にか意外な方向に発展し、おそらく地元鹿児島人ですら、ほとんど知らなかった薩軍内部の「投降事件」という不協和音が出てきてしまったのである。
 私はそれまで、西郷隆盛の下に、薩軍はまるで揺るがない一枚岩のような印象をもっていた。なぜなら、この戦争を私に語ってくれたほとんどの鹿児島人自身がそう信じ、そう語っていたからである。
 ところが、どうもそれが怪しいことがわかってきた。いや、怪しいどころか、いまだにそれらの情報を抑えていることが、出水事件や大河平事件を曖昧にしている遠因であることもわかってきた。
 だから、まずこれらの問題を一つ一つ解明していかない限り、大河平事件のような特殊な事件の解明も無理なのかもしれない。
 ただ、今回、一つだけ収穫があったとすれば、あの6月15日に起きた事件の外因のようなものがやはりあったということである。
 まず、もっとも早い5月15日前後の蒲生(かもう)隊の降伏、それから6月4日の人吉隊の大量投降、6月12日の谷山隊の「裏切り」と翌日の投降。これらのことが薩軍首脳部、すなわち辺見十郎太や河野主一郎らを怒らせ、その後の処刑等に駆り立てた「狂気」に走らせたことは想像に難くない。そしてそれらは、飯野の負け戦(いくさ)の中にいた事件の首謀者たち、川野道貫(みちつら)や清藤(きよふじ)泰助はもちろん他の大河平士族たちにも伝染した。
 もっと別な言い方をすると、当時、あの地域全体が異様な空気の中にあったのである。そして誰もそこから逃れられなかったとすれば、数ヶ月の赤ん坊から10歳までの子供4人が惨殺される異常な事件は、起こるべくして起こったと言えなくもないのだ。ただ、これはあくまでも外的な因子であって、内的な要因とはいえない。では、内的な要因とは何だったのだろうか。殺された鷹丸の父である大河平隆芳の『山林原野御下戻願』で言っているような、川野や清藤らの個人的な恨みからだろうか。
 もちろん、私は何度も、これだけで徒党を組み、いたいけない赤ん坊や子供まで殺す要因足りえないと繰り返してきたが、ここでもう一度これを取り上げ、再考してみたいと思う。