海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(4)

2010-09-14 08:06:50 | 歴史
 ともかく、大河平氏が、いつ頃、どのような経路で入国するようになったのか、その辺りから探ってみよう。
 『えびの市史』によれば、まず「大河平氏は南北朝動乱の世に、南朝宮方の主将として奮戦した菊池氏の支族である」と始まり、菊池氏初代から6代目の隆直の代で、平家は滅亡した、とある。そして、軍略上から肥後の菊池の領地に帰っていた隆直も源義経と豊後の緒方惟能の策謀に敗れると、次男の菊池二郎隆定が菊池氏7代を継いだ。この隆直の5男に隆俊という人物がいたが、かれが大河平氏の始祖だという。その隆俊は、一族郎党10家を率いて菊池から八代(やつしろ=熊本県)に移り、八代の領主になって姓を八代五郎隆俊と名乗った。
 その後も、着々と地盤を固め、初代から6代目になる隆氏が、「菊池氏本家と提携し、南朝宮方の将として各地を転戦しながら、征西将軍懐良(かねなが)親王を八代に奉迎」したりした。
 ところが、隆氏から9代目の隆屋の時代に大友氏との戦いに敗れ、「ついに家臣66家を率いて飯野郷大河平村に移り、飯野城主北原氏の家臣」になったという。
 この北原氏というのは、のちに内紛によって滅亡するようだが、土着豪族の一隅にいた。そして八代隆屋が北原氏の家臣になったころは、島津氏の勢力圏だった飯野城を守備し、その支配下にあった。その結果、永禄5年(1562)、隆屋は、栗野城において島津義弘に拝謁し、主従関係を誓ったので、大河平の地を本領として与えられたのである。
 以後、隆屋は大河平姓に改め、3代まで大河平城を守ってきた。しかし、3代隆次の代に、伊東義祐が飯野に出兵し大河平城を襲撃している。まだ年若い隆次がこれを何とか凌いだため、義弘はこれに感激し、大河平地区以外の土地も安堵した。さらに大河平城の近くに新たに「今城」と呼ばれる城を構えさせ、そこを本拠に伊東氏に備える準備もさせた。
 しかしながら、これが北原氏の妬みを買ったのか、かれらの策謀によって、永禄7年(1564)、手薄になっていた「今城」を伊東の軍に襲撃され、大河平一族郎党「枕を並べて全員戦死し、城は陥落して妻子ことごとく捕われて」しまったのである。