海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(5)

2010-09-15 08:05:42 | 歴史
 この戦いで「今城はついに廃墟と化した」が、これで大河平氏が滅んだわけではない。隆次の姉がいたのである。かの女は、求摩(人吉地方)の皆越六郎左衛門という武家に嫁いでいた。そして、実家の大河平一族が滅んだことを知り、深く嘆くと同時に大河平一族の再興も念じていたという。
 その再興のチャンスが、永禄11年(1568)にやってきた。伊東義祐の密使が皆越宅に泊った際、伊東氏と人吉の相良氏が共謀して義弘のいる飯野城を攻めるという話を、皆越六郎左衛門の妻女が耳にしたのである。これぞ大河平氏再興の時とばかり、妻女は腹心の八重尾岩見を使者として義弘の元に送り込み、委細を報告させた。これを聞いた義弘は、準備万端、相良氏の侵入を防ぎ、ついにこの伊東氏の野望を打ち砕いたのである。
 この結果、義弘は使者を遣わして皆越の妻女の功を賞し、「今義弘に随身するなら大河平の地を与え隆次の跡を継がせる」と伝えさせた。そこで、「皆越氏も意を決し島津氏に臣従を誓った」という。
 皆越氏が飯野城に入ると、義弘は六郎左衛門に大河平を本領として与え、名前を大河平左近将監隆俊と改めさせた。
 以後、隆俊は敗滅した大河平家の再興に奮励して基盤を整え、一族は最後の「在番」である大河平隆芳の代まで続いたのである。
 
 『えびの市史』にある固有名詞をできるだけ省いて、以上のようにまとめたが、『市史』それ自体も、『飯野町誌』や隆芳の『山林原野御下戻願』を下敷きに記述しているだろうから、それらからもさほどはみ出たものではないと思う。
 言ってみれば、これが、あの明治10年の大河平事件を「誘引した」一族の「歴史」である。もちろん、これで何かがわかるというものでもない。ただ、ほぼ土着の諸豪族を支配下に治めてきた島津氏の中では、やや特殊な一族と言えることは間違いないだろう。それゆえ、島津氏内における位置もあいまいなのだ、と。