海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(67)

2010-09-01 08:52:55 | 歴史
 これを読んですぐ私は、「またか」と思ったと同時に、この常山三番小隊長池田庄左衛門がどの郷の出身なのか、とさらに読み続けた。しかし、今回、繰り返しはなく、次節はまた別の場所の戦闘状況に移っていた。もう2度目なので、著者も繰り返すのは止めにしたのだろうか。
 それからしばらくして、私は、そういえば、志布志郷士族の投降があったのは、この時期だということを憶い出した。そこでまたそれを手にとると、そこには、『破竹・雷撃本営雑誌』にもあった酒匂亀五郎や菊田源五郎が、6月12日朝降伏し、スパイとして再潜入したため処刑したという「回章写」とともに、そのあと期日ははっきりしないものの、13人の志布志郷士族の名前とともに(谷山郷参拾壱名、松山郷三名略)という項目が付け加えられてあった。 
 これらのことは、以前にも述べているし、だからこそ『谷山市誌』や『松山町誌』を取り寄せたのだが、それらの郷土史には取り上げられていないこともすでに紹介した。
 しかしながら、この『志布志町誌』で付け加えられている項目は、引用した『血涙史』の池田小左衛門等四十余名のことではないか。そして、酒匂や菊田が12日の朝降伏したというなら、他の志布志郷士族もかれらと一緒に帰順したことになるからと、『血涙史』の前頁に戻ってみた。すると、わかったのである。池田庄左衛門の出身地が。ではその部分も抜き書きしてみよう。

六月十二日
官軍大畑(おおこば)に逼(せま)る雷撃一番(西村)常山三番(原田)破竹五番(稲田)隊等防戦之(これ)を久(し)うす常山三番中隊小隊長池田庄左衛門(谷山郷人)等四十余名俄(にわか)に反覆して三番中隊の側面を衝く衆切歯して之を拒(ふせ)くも両面敵を受け遂(つい)に支ゆる能(あた)はずして敗走す、・・・(下線部は黒丸点)

  先に引用した13日の官軍への降伏時の話とは若干合わないような気もするが、それはそれとして、もうこの12日の時点で、薩軍から離反していたのである。それも、もし『血涙史』の書いていることが正しければ、考えられないような抜き打ち的な行動で。これでは、当然、『谷山市誌』近代編の著者が無視せざるをえないことがわかる。いや、昭和42年度刊行の『谷山市誌』の編集委員たちと言うべきか。