海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(7)

2010-09-17 08:12:34 | 歴史
 想像力豊かな小説家なら、この辺りを巧みに取り入れ、それなりに物語をこしらえあげることもできようが、どうも私の想像力はそういう風に羽ばたかない。だが、一度だけそういう線で踏み込んでみよう。

 最後の大河平「在番」だった大河平隆芳が鹿児島の「本宅」に引き上げ、そのあとの管理を事件の第一首謀者であった川野道貫(みちつら)に委ねたことは、『西南之役異聞』でも述べた。
 もちろん、このことは、隆芳の「山林原野御下戻願(お下し戻し願い)」の中にあることなのだが、そこで隆芳は、道貫の来歴を次のように語っている。  
 かれは、橋口武八の次男で、本来、大河平では、次男以下は百姓になる運命だったが、聡明な子供だったので、大河平家臣の富裕な河(川?)野家へ養子としてもらわれた。そして、隆芳の長男である鷹丸と同い年でもあったので、「文武学修」の友としてともに成長した。
 それから、明治5年になって隆芳が鹿児島に移ることになると、「其才幹用ユルニ足ル」青年になっていた道貫に、大河平家の「所領地ナル山林原野田畑ニ関スル一切ノ事ヲ管理セシ」めた。
 このあと隆芳は、その後の道貫の不正を暴いていくのだが、その前に、何も書かれていない長男鷹丸の明治5年前後に戻ってみる。この頃、すでに鷹丸は結婚していて、3人の子供がいた、と推定できる。事件で殺された長女がそのとき、11歳だったとすれば、当時は5、6歳だろう。そして、次女の英(子)は、2歳か3歳、三女の時(子)は、1、2歳ということになるだろうか(注)。
 ところで、後妻の歌(子)の長男が事件当時5歳だったとすれば、ちょうどこの頃生まれたことになる。ということは、先妻と離縁したのもこの頃だろう。
 もしそうだとすれば、この離縁の理由が川野道貫と何らかの関係があったと想像することは可能だ。たとえば、道貫と鷹丸との先妻との間に、不義密通があったとか。
 もっとも、不義密通が露見したとなれば、大罪である。道貫がそのまま大河平家の管理など任せられるわけがないし、切腹か追放をまぬがれないだろう。だから、これはありえないとしても、道貫と鷹丸の妻との間に密通とは行かないまでも何か「親密な」関係があった。鷹丸と道貫とは「文武学修」をともにした仲だったのだし、道貫は自由に主家に出入りも出来ただろうから。

(注)・・・繰り返すが、「山林原野御下戻願」の(注)には、長女と英(子)は先妻の子としてあるが、時(子)については、よくわからない。私は年齢的に見て、時も先妻の子と推定している。