海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(16)

2010-09-26 08:19:01 | 歴史
 さて私は、大河平氏の境界争いは、かれの家臣とではないと言ったが、微妙なところもあるとも言った。そう考えられる理由のようなものを述べてみたいと思う。
 最初に大河平に入った八代隆屋の直系である三代大河平隆次が滅んだあと、隆次の姉の機転で、島津氏が危うい状況から逃れることができたことは、以前述べた。そのとき、八重尾岩見という名前が出てきたのを覚えているだろうか。『えびの市史』では、隆次の姉である皆越氏の妻女の「腹心」とあったが、伊東氏と相良氏が手を組んで、義弘の城である飯野城を攻めるという陰謀を彼女の使いとして義弘に告げた人物である。
 このあと、この八重尾岩見なる人物がどうなったかはわからない。だが、「腹心」とはどういう意味だろうか。隆次の姉の婚家先である皆越六郎左衛門のところへ従って行った大河平家の家臣だったということだろうか。これもはっきりしないとしても、皆越六郎左衛門が大河平家を継いだとき、直属の家臣となったことは間違いないであろう。そして、この一族がもともと北原氏の家臣だったにしろ、その支族が大河平家の家臣となり、重きをなすに至ったこともありうるだろう。実際、幕末の大河平家の家臣にも八重尾氏という名前があった。
 さらに、あの鷹丸一家殺害に加わったとされる十数名の中にも、八重尾荘太夫という名前があった。この一族が、もし長年境界争いを演じた一族と関係があったとしたらどうなるだろうか。

 私は、「山林原野御下戻願」を読んで、15代当主の隆芳が、家臣など顧みない独善的で専制的な主君ように感じた、と言った。そして、この独善的で専制的な支配は、一人隆芳のみならず、島津支配下における大河平主家の独擅場だった。なぜなら、最終的に国側をその特異性を認めたように、主家は代々その特異性を家臣に押し付けることができたのだから。
このことは、維新以後も何ら変わらなかった。家臣たちにとって、島津支配下にあった周りの主家がどんどん解体していっても、わが主人だけは旧態依然の専制君主だったのである。
これらを根本的な不満として、さらに伝えられなかった鷹丸を巡る「私怨」などが重なっていたとすれば、あの戦争という「狂気」の中では、何が起ったとしても不思議はなかったのかもしれない。