海鳴記

歴史一般

西南戦争史料・拾遺(71)

2010-09-05 08:25:54 | 歴史
 とにもかくにも、出水事件や大河平事件がかくも長い間、無視され続けてきたのか、ここに至ってようやく解ってきた。
 最初の「投降」や最初の「裏切り」という、薩軍内部の「恥部」すら表ざたにできなかった以上、薩軍が直接的にも間接的にも関与した加害事件など無視され続けるのは無理もなかったのかもしれない。それにしても、である。もう洗いざらい見直してもいいのではないか。そういう時間は経過しているのではないか。
 もしそうしなければ、私自身が感じた、鹿児島人の奇妙な、歪んだ歴史意識が解消されないばかりか、鹿児島人自身が計りしれない「損失」をこうむるのだ。別な言い方をすれば、かれらはかれらの偉大な歴史を硬直化し、その遺産を食い潰しているのである。これで、未来があると誰が言えるであろうか。

 最後に、『血涙史』などに振り回されず、地元にある史料を隠さず使っていた『志布志郷土誌』もその一つに加えてもいいと思うが、鹿児島のいい未来を感じさせてくれた、公平で客観的な記述に終始した平成7年版『姶良町郷土誌』について述べて終りにしよう。
 まあ、あまりほめてばかりいるとそこから何かもらっているのじゃないかと疑われても困るのでーもちろんこれは冗談、若干、嫌味な言い方をすると、帖佐の黒江豊彦らの降伏は、5月の蒲生隊、6月の出水隊、谷山、志布志、松山郷(他)士族たちより遅い7月に入ってからであり、誰が見ても薩軍の敗色が濃い状況下にあった。つまり、一番手でも二番手でもないのだから、今さら隠し立てするのもおかしい、と昭和版でも隠さず認めたのかもしれない。さらにここは、出水で処刑された重冨郷出身者もいた、伝統的に反薩軍色の強い地域でもあった。それゆえ、昭和版でもこれらの事実は他に先駆けて書き込んでいる。
 もっとも、こんな邪推や勘繰りはどうでもいい。平成版『姶良町郷土誌』はそういうことを超えているし、これはのちの郷土史の内容にも引き継がれることになるだろう。
 この「のちの郷土史」というのは、いつか発行されるであろう「姶良市誌」のことである。
 今年(平成22年)6月に、姶良町は、加治木町、蒲生町と合併し、「姶良市」となったそうである。だから、これから発行されるであろう「姶良市誌」では、平成3年でも明らかにされなかった「蒲生町」の「真実」も解き明かされる可能性が大だということなのである。平成版『姶良町郷土誌』のよき伝統が崩されないかぎり、だが。
鹿児島市に組み込まれた谷山の場合は、どうだろうか。
 私は、これからの『鹿児島市史』で、谷山の「真実」が明かされる可能性をほとんど期待していない。なぜなら、昭和44年に『鹿児島市史』は4巻本という金と時間をかけて発行されているし、今後いつ発行されるのかもわからないのだから。また、県史のように古代編と現代編を付け加えるという「言い逃れ」ですませるとすれば、ほぼ絶望的である。
 それでは、どうすればいいのだろうか。