海鳴記

歴史一般

大河平事件再考(11)

2010-09-21 08:03:18 | 歴史
 さて、2番目の疑問点は、山林原野は、飯野(大河平)在番職の俸給ではなかったのか、というものである。これに対して、隆芳は、私には何だかよくわからない回答をしている。
 旧藩体制では、相当の知行高を所持している者は、無俸給で勤めているというのである。たとえば、家老で千石以上の知行高を持っている者や、奉行にして百石以上、また書役(書記、会計掛など)など5石以上の者は、無俸給で職を勤めていたという。薩摩藩のことだから、ありえないことはないにしろ、私にはそれが事実だったのかどうかはわからない。さらによくわからないのは、高積(石高)もなく、山林原野のまま下付されたと言っていたのに、今度は、「願人(隆芳)ハ数百石ノ知行高ヲ所持シタルヲ以テ、飯野在番職ノ如キハ固(もと)ヨリ制規(=規則)ニ従ヒ無俸給」で勤めてきたというのである。
 もちろん、ここで、山林原野が在番職の俸給だったと認めれば、島津氏の所領となるのだから、官有林に組み込まれてしまう。だから、隆芳はそれを逃れるため必死に弁明しているのだろうが、いったい自分の言説の矛盾に気がついているのだろうか。
ともかく、次の国側の質問に対しても必死の弁明を繰り返しているので、これも見てみよう。
 3番目になるが、廃藩置県に際して、薩摩藩下の一門(家)および寄合(家)は、ともに所領地を返還(返献)したのではないか、という疑問である。
 これに対して隆芳は、大河平の山林原野は「拝領地」であって、他の一所領主の領地とはまったくその性質を異にしている、という。だから、いまだかつて返還したことはない、と。そもそも、廃藩置県のとき、一門家および寄合家は、それぞれの領地を返還したから、藩主が地所の大小により「禄高」を給与している。しかしながら、大河平家は、一門家でもなく、寄合家の資格でもないので、そういう「禄高(秩禄?)」も給与されていない、と回答している。さらに、大河平家の特殊性を説明するため、当時の薩摩藩の職制について、次ぎのような「一つ書き」を三つ並べている。
一、地頭というのは、藩庁の代官で、一郷あるいは数郷に対し、治政権がある。
一、一郷持ちまたは持切在(もちきりざい)のような一村持ちの領主である一門家および寄合家などは、その領地に対し、地頭のような治政権がある。ゆえにその領主は地頭の干渉を受けないし、その領地は、家格と職務に対する俸禄である。そして、その治政権は代々世襲である。
一、大河平家の家格は、「小番(こばん)」(寄合並の下位)であって、品位ある高貴な門閥家ではない。ただ飯野在番職を任命されているだけである。その職務は、家来を励まして武を講じ、胆を練り、他国境を守備する在番職が本分である。ただ、藩庁の直轄地でありながら、地頭のような治政権はない。だから、土地戸籍に関する限り、「拝領地」ながら、一般人民と同じく地頭の支配を受ける。