海鳴記

歴史一般

大河平事件再考・補遺(2)

2010-09-28 08:11:56 | 歴史
 とにもかくにも、最後の在番職にあった大河平隆芳が力説していたように、特異な地位を与えられ、「専(もっぱら)ラ部下ノ家来ヲ励マシ武ヲ講ジ胆ヲ練リ 国門(国境)ノ鎖鑰(さやく=錠前とかぎ)タリ」というのもあながち誇張でもなかったのかもしれない。実際、嘉永6年(1853)、11代藩主島津斉彬が地方巡見で真幸(まさき)地方を訪れた際、大河平屋敷まで出向いたという場所でもあるのだから。

 次に、大河平家系図の話に移ろう。
 私は、ここで二つのことを見落としていた、というか、一つはどうも以前私が推測していたことが間違っていたことを知った。まず、この誤りを先に述べなければなるまい。
前章で私は、三女まで、先妻の子供と繰り返したが、どうも殺された長女である久恵(墓碑では久米)と、次女の英(子)だけのようであった。
 私が、三女まで先妻の子だと推定したのは、単に年齢が11歳、8歳、7歳、そして長男が5歳と書かれてあったからである。つまり、次女と三女は「年子」だと思い込んでいたのである。だが、家系図によれば、次女の英(子)の生年は、明治2年3月23日、三女時(子)は、明治3年12月22日なので、母親が違っていても何もおかしくない。それに、系図では、時(子)と長男立夫以下同じ母親となっているのだから。この辺りは、墓石調査もしっかりしているようだから、私の推測間違いを認めるしかない。
 また、そうだとすると、明治5年前後の「私怨」は、まず考えられないことになる。だから、仮にそういうことがあったとすれば、明治2年前後ということになるだろうが、今この問題を再考するつもりはない。ただ、最初の妻とは死別ではなく、「故離縁」となっていることは、記憶に留めておいてもらいたい。
 それでは、もう一つは何だったのかというと、これは最初から完全に見落としていたことだった。つまり、新しい発見と言ってもいい。
 私は、『西南之役異聞』でも、なぜ大河平家の墓域に松方正義夫妻の献灯碑があるのかわからないと書いたが、その意味がわかったのである。結論から先に言うと、何と、大河平家と松方家は姻戚関係にあったということなのである。