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世界の食卓を変えた日本発の技術:「 魚群探知機」

2015-03-28 13:32:26 | ラジカル

世界の食卓を大きく変えた日本発の技術 魚群探知機のルーツ 

(写真:キヨヒロ/ Imasia)© 東洋経済オンライン (写真:キヨヒロ/ Imasia)

闇市で探し当てた「音響測探機」

「おじさん、これは何の機械ね?」。終戦間もないある日のこと、闇市を歩き回る兄弟がいた。兄の名前は古野清孝、弟は清賢、2人は長崎県口之津町(現・南島原市)で小さな電気店を営んでいた。漁船の電気工事などを請け負っていた2人だが、敗戦直後でなかなか資材が手に入らない。そこで、軍の放出品が出ているという闇市で、何か使えるものはないかと探していたのだ。

写真左の男性が兄の古野清孝、右が弟の古野清賢© 東洋経済オンライン 提供 写真左の男性が兄の古野清孝、右が弟の古野清賢  

2人の目に留まったのは、戦時中に海軍が開発した「音響測探機」という機械だった。超音波を水中に発射し、跳ね返ってくる音波を受信して海中の地形などを把握しようとするもので、敵の潜水艦を探し出す目的でも研究が進められていた。自分たちには関係ないと立ち去ろうとする弟に、兄は「潜水艦ばね……そりゃすごかねー」と興味津々で、結局買って帰ってくる。このときに手に入れた「音響測探機」が、のちに世界中に広がる画期的な製品の礎となった。「魚群探知機」だ。「潜水艦を見つけられるなら、魚の群れだって見つかるんじゃないか」。兄の清孝は、「音響測探機」の機能を応用すれば、魚の群れを探知できるのではないかと考えていた。もし、魚の群れを超音波で把握できれば、漁師の長年の経験と勘によってきた漁は劇的に変化し、漁獲量は飛躍的に向上する。しかし、潜水艦とは異なり、「魚の体は大半が水分でできているため、超音波は容易にすり抜けてしまうから、魚の探知など不可能」というのが、意見を聞いた大学教授などの意見だった。「やっぱし無理のごたるね……」という弟の清賢に、兄の清孝は、「無理かどうかは、やってみらんとわからん」と譲らない。

 手探りで始めた「魚群探知機」の開発

開発初期の魚群探知機。TBSテレビ60周年特別企画「ものづくり日本の奇跡」は、第1夜から第4夜までが、3/23(月)~26(木)の夜10時54分から、第5夜は3月28日(土)夜9時から放送© 東洋経済オンライン 提供 開発初期の魚群探知機。

終戦間もない当時、食糧難で多くの日本人が栄養失調に苦しめられ、餓死する人もいたほどだった。魚も庶民には手が出せないほどの高値で、もし魚群探知機によって漁獲量が増えれば、食糧事情の改善も期待できるだろう。こうして古野兄弟は、手探りで魚群探知機の開発を始めたのだ。闇市で「音響測探機」を見つけてからおよそ1年後、「魚群探知機」の最初の試作機が完成した。協力を取り付けた漁船に乗せて、魚の群れを追う。すると探知機に魚の群らしい影が映し出された。「魚だ……魚ですっ!網ば打って下さい」と興奮する兄弟に、「オイの経験では、こがんところに魚はおらん!」と漁船の漁労長。「絶対おります!網ば入れて下さい!」と、訴える兄弟の言葉を信じた漁労長は、網を打つように指示した。ところが、魚君探知機がとらえていたのは、魚の群れではなく大量のクラゲだった。「古野電気が作っているのは、探知機ではなくインチキ」。この失敗はほかの漁師たちの間にも広がり「古野電気」の信頼は失墜、それまで請け負っていた仕事まで失う事態となってしまう。「結果さえ出れば、風向きはきっと変わる」。懸命に魚群探知機の改良を続ける古野兄弟だったが、協力してくれる漁船はいなくなってしまった。兄弟が望みを託したのが、長崎から西に70km離れた五島列島で、「桝富丸」という船の網元の桝田富一郎だった。東京で銀行に勤めていたが、3年前に故郷に戻り、父親の跡を継いでいた富一郎。しかし、「桝富丸」につけられたあだ名は「ドンビリ船」、港での漁獲高はいつもビリだったことから、こう呼ばれていたのだ。「懸けてみますけん……あんたの夢に」。富一郎は、魚群探知機を作ろうとする古野兄弟の夢に懸けてみることにした。こうして古野兄弟と桝富丸の挑戦が始まったが、魚群探知機は依然として思うように魚の群をとらえられずにいた。

 世界の食卓を大きく変えた古野兄弟の夢

そんなある日のこと、兄弟はついに魚の群れをうまくとらえられない原因を見つけ出した。漁船が進む際に発生する泡だ。泡は破裂する際に超音波を出すため、これに反応することで、魚群探知機の精度が低下していたのだ。泡の影響を回避するためには、漁船の側面に取り付けていた探知機を、船底に取り付けることが必要だった。「船に……穴ばあけろって、言うとですか?」と、絶句する富一郎。漁師の命である船に穴をあけるなど、とてもできる相談ではなかったのだ。しかし、これ以外に方法はないと、古野兄弟は懇願する。その強い気持ちに動かされた富一郎は覚悟を決めた。「あんたの夢に懸ける。必ず最後までやり遂げてくれんね」魚群探知機を船底に取り付けた「桝富丸」は沖へと走り出した。しばらくすると、魚群探知機は魚の群れがいることを示し始めた。しかし、弟の清賢は不安を拭えずにいた。魚の群とクラゲの大群を間違えてしまった時の記憶がよみがえっていた。 しかし、魚群探知機は魚の大群がいることを引き続き示していた。清賢は意を決して、桝富丸の漁労長に告げた。「大群です。とてつもなか大群です!」その言葉に漁労長は、「打とう、網ば打とう!」と決断を下す。魚群探知機の命運を左右する網が打たれたのだった。「頼む、頼む、頼むばい…」。祈るように海を見つめる清賢。やがて、ゆっくりと網が引き上げられ始める。引き上げられた網を見た清賢は興奮した。網は大量の魚であふれていたのだ。大漁旗を掲げて戻ってきた「桝富丸」に、港は歓喜に沸いたという。魚群探知機の力は抜群で、これ以降、桝富丸は漁に出るたびに大漁を記録し、「ドンビリ船」と呼ばれた桝富丸は、漁獲高トップの座についた。古野兄弟が魚群探知機の開発に乗り出してから4年の歳月が流れていた。食糧難に苦しむ人々に、安くて新鮮な魚を届けたい。古野兄弟の夢は実現し、実験成功から7年後に海外へ向け、魚群探知機の輸出を開始する。世界中の漁船から釣りの愛好家に至るまで、広く普及している魚群探知機。これがなければ一般家庭や飲食店などで、今のように魚を食べることは難しかったかもしれない。夢を追い続けた古野兄弟と、彼らを支えた人々の熱い思い。そこで生まれた日本発の魚群探知機が世界の食卓を大きく変えたといっても過言ではない。