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日本を創った人々3 源頼朝と北条泰時と明恵

2012-09-11 16:11:23 | うんちく・小ネタ

源 頼朝

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図1 伝源頼朝像(国宝 神護寺蔵)

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図2 顔の部分

源 頼朝は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定。鎌倉を本拠とする。弟たちを代官として源義仲と平氏を滅ぼすと、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼすと共に、義経を倒す。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令まで足掛け約680年間、存続することとなる。

堺屋太一ー権力の二重構造」の発明
 源頼朝は権力の二重構造を創出した。彼は、平家の轍を踏まないように、律令制度の中に官位を求めず(太政大臣にはならず)、律令制度を温存しつつ、「令外の官」である征夷大将軍*になり、都から離れた鎌倉に幕府を開き、政治の実権を掌握し、武家政治を全国に展開した。同時に、宗教権と行政権との完全な分離を図った。 これは、今日、日本人の国民性としてよく言われる、権威と権力、形式と実態、建前と本音、シンボルと実権の二重構造などに通じるものである。

近年、『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に、頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。それによると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣管」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして頼朝を「征夷大将軍」に任官する事にしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が複数の候補の中から消去法で「征夷大将軍」を選んだ事が明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」 『明月記研究』9号、2004年)。頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10、11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の部門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている(西田友広「本巻の政治情勢」 五味文彦・本郷和人・編『現代語訳 吾妻鏡5 征夷大将軍』吉川弘文館、2009年 所収。川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年)。

頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に幕府と名付けられ、王政復古まで足掛け約680年間に渡り長く続くこととなる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの日本人は義務教育で頼朝の名を学んでいる。その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく(頼朝自身は武芸は長けていたといわれるが、戦闘指揮官としては格別の実績を示していない)、主に政治的交渉で鎌倉幕府の樹立を成し遂げたことによる。判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説などに主人公として描かれることも稀である。鎌倉時代を得意とする作家の永井路子は、頼朝は勃興する東国武家勢力のシンボルであるとし、その業績をすべて彼個人に帰するような過大評価を戒めているが、一方でその政治的能力、人材掌握力は高く評価され、日本史における組織作りの天才であり、その手腕は後世に彼を手本とした徳川家康よりいっそう巧緻であると評している(「源頼朝の世界」)。

北条政子と御家人:頼朝の死後に起きた承久の乱で朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し次のように述べた。「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし。」これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来る。

豊臣秀吉:武辺咄聞書によると、鶴岡八幡宮白旗神社の頼朝像を参った際に、次のように述べたと伝わる。「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」冗談ながらにも、頼朝の業績は血統に拠るものがあると評している。

徳川家康:頼朝の事績を多く記した吾妻鏡を集めて写させた。源氏の新田氏流を自称していた家康は頼朝を崇拝しており、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んだといわれる。

(追記) 北条泰時

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権である。(在任:1224年 - 1242年)御成敗式目を制定した人物で有名。

建久5年(1194年)2月2日、13歳で元服する。幕府の初代将軍となった頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って、頼時と名乗る。具体的な時期は不明だが、後に泰時に改名した。

頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の建仁2年(1202年)8月23日に三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。翌年嫡男時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。建仁3年(1203年)9月、比企能員の変で比企討伐軍に加わる。

建暦元年(1211年)に修理亮に補任する。建暦2年(1212年)5月、異母弟で正室の子であった次郎朝時が第3代将軍・源実朝の怒りを買って父義時に義絶され、失脚している。建暦3年(1213年)の和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。

建保6年(1218年)には父から侍所の別当に任じられる。承久元年(1219年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。

承久3年(1221年)の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。

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図1 北条泰時

御成敗式目は、承久の乱以降新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となって制定されたものである。紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していた。泰時は京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に勉強した。泰時は「道理」(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、評定衆の意見も同様であった。泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、貞永元年(1232年)8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。はじめはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、裁判の基準としての意味で「御成敗式目」と呼ばれるようになる。完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。

「多くの裁判事件で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは『ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うか』と笑う人があるかも知れないし、またその規準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。この『式目』は漢字も知らぬこうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝をつくすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ。」

『御成敗式目』は日本における最初の武家法典である。それ以前の律令や、明治以降の各種法令が基本的に外国の法令を模範として制定された継承法であるのに対し、式目はわが国が独自に制定した法令であるという点で、日本の法の歴史上画期的なものとなった

この北条泰時によって制定された「御成敗式目」は、外国から輸入した継受法でなく、自らの規範を条文化した日本で初めての固有法である。日本人が、外国からシナリオを借りずに自分の法律を自分で制定し、自分で公布して施行したのは、この時が最初であり、これが、日本独自の「自前の秩序」が成立した第一歩であった。いわば日本史において「日本が日本になった」大きな「節目」であり、この「自前の秩序」は、「世間法」の基本として現在もなお存続しているのである。

北条泰時が圧倒的な武力により後鳥羽上皇を配流に追いやった承久の乱後、御成敗式目(貞永式目)という基本法を発布した。 乱後、武家の天下となったが武家は乱暴な振る舞いはしなかった。 地頭は古くからの荘園主を侮らず、守護も警察権のこと以外は無理に介入せず、政治を正しくするために北条泰時は日本中の大田文(土地台帳)を作って荘園や公領の境界を決定し、御成敗式目にて上下治まり、民衆も安心したという。 源氏が僅かに三代で滅びたにもかかわらず、鎌倉武士政権を引き継いだ北条政権は長く続くのである。 東国武士をまとめた北条泰時に対しては、なんと公家階級のほとんどが好意的であったのである。 それは泰時の「道理」を重んじた御成敗式目の自然法なるものによると考えられる。 そして泰時の右腕としてその手腕を発揮した高僧に明恵がいた。 泰時と明恵の出会いは承久の乱の時、幕府軍に負けた天皇方の落ち武者が、明恵が住持する高山寺に逃げ込んだときに始まる。 当然幕府は匿った明恵を捕らえて京の六波羅へ引き立てた。 このとき明恵は「高山寺は殺生禁断の地であり追っ手を逃れた武士を匿うのも慈悲であり、それが政治の妨げとなるのであれば、我が首をはねよ 」 と泰時に首をさしだしたという。 これ以来、泰時は明恵の弟子となり、 幕府はもちろん、公家側からも非難されることは少なくなる。


42 コメント

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