今日、久しぶりに弥勒山から道樹山を縦走しました。山はもう秋の気配が漂い始めています。ツクツクボウシの鳴き声もわずかになりました。麓でヒガンバナが咲いていました。1週間前はまだ蕾でした。
夏の間は、透明度がわるく、中央アルプスなど、遠くの山が見られませんでしたが、今日はよく見えました。御嶽山は雲がかかり、裾野しか見えませんでした。中央アルプスと恵那山です。遠くの山が見やすいように、明るさを調整しました。写真は曇って暗いように見えますが、実際は雲は多かったのですが、明るく晴れていました。
今回は『幻影』第20章です。
20
月曜日、約束の時間より早く、三人は卑美子のスタジオに到着した。
「先日は大変でしたね。今日はよろしくお願いします」とケイが卑美子とトヨに挨拶をした。続いて、美奈とルミも深く礼をした。
トヨはかえって恐縮し、「こちらこそお願いします」と頭を下げた。トヨはえんじ色の女性用作務衣を着ていた。
トヨは、先日三人が選んだ絵を基にして描き直した下絵を、三人に見せた。注文どおり、三輪のマーガレットのうち、真ん中の花がピンクに彩色してあった。陰になる部分は赤、先端に行くにつれて、薄いピンクに変化していた。
「すてき。さすがにトヨさんだ。みんな、これでいいよね」とケイが二人に訊いた。
「異議なし! 最高です」
「はい、これでいいです。とてもきれいです」
ルミと美奈の賛同が得られ、さっそく彫ることとなった。
最初は誰から彫ってもらうか、という順番について話し合った。美奈は年長のケイから、と主張したが、ケイとルミに、「トヨさんのプロ第一号はやっぱりミクでしょう」と押し切られてしまった。
卑美子がスタジオに使っている3LDKのマンションは、玄関から一番近い五畳相当の洋間を待合室、その隣の六畳の洋間を施術室としている。
今年からトヨもアーティストとして活動するようになり、奥の六畳の洋間がトヨの施術室に割り当てられた。
修業中のころは、トヨは待合室に客がいるときは、そちらで客に対応し、客がいないときは、卑美子の施術を見学していた。絵を勉強するときや、自分の身体に彫って練習するときは、奥の洋室を使っていた。この奥の部屋が事実上トヨの個室になっていた。夜遅くなり、この部屋で寝泊まりすることも多かった。
その奥の部屋が正式にトヨの施術室として与えられたのだった。ときどきお金がないけど彫りたい、という客に、練習です、と了承を得た上で、無料で彫ってもいたので、すでに施術室としての整備はされていた。
美奈は上半身下着だけになり、トヨの前で気をつけの姿勢をした。
トヨは黒縁のメガネをかけた。ふだんはメガネをかけていないが、車を運転するときや、タトゥーを彫るときなどにはメガネを使用していた。美奈に比べれば、近視の度合いは幾分軽かった。
トヨは美奈の背中を見て息を呑んだ。
「ミクさんのタトゥー、何度見ても本当にすごい。さすが先生。私がこの域に達するまで、何年かかるかしら。いや、一生先生には追いつけないかもしれない」とトヨは心の中で呟いた。
「こんなきれいなタトゥーの横に、私の絵なんか入れて、いいのだろうか」
マーガレットの絵の転写のために、トヨはミクの脇腹の広範囲に石けん水をスプレーし、拭き取ってから、今度は消毒用エタノールをスプレーした。
「はい、まっすぐ立ってください」
転写をするとき、背筋をピンと伸ばしていないと、絵がゆがんだりする。
トヨは慎重に位置を決め、転写シートを貼り付けた。
「おへそのピアスもすてきですね。ピンクのジュエリーがかわいいです」と転写の出来具合を確認しながら、美奈のへそのピアスに目をやった。
「これ、宝石ではなく、ガラス製の安物です」と美奈は応じた。
転写はうまくでき、いよいよ施術となった。
トヨは施術のときはマスクを着用した。
今日使用する予定の機材は、すでに人数分を高温高圧で滅菌し、一つひとつ密封されていた。タトゥーの施術には、肝炎などの感染のおそれがつきまとうが、衛生面もできる限りの対処がされていた。
「では始めますね。よろしくお願いします。いよいよ私のプロ第一号、やらせていただきます。ちょっと緊張します」
事実、トヨはひどく緊張していた。胸はドキドキ、というより、バクバク、といった感じだった。腕もぶるぶる震えている。
こんな状態で彫ったら、筋彫りのラインがめちゃくちゃになってしまう。
トヨは何度も、私はうまいんだ、何ら恐れることはない、と自分に言い聞かせ、深呼吸をした。それから、下腹にぐっと力を入れた。
さあ、やるぞ、と気合いをこめて、美奈の脇腹に、マシンの針を下ろした。美奈は目をぐっとつむり、激痛に耐えた。脇腹の痛みは、これまで経験したいれずみの施術の中でも、最も大きなものの一つと思われた。
いったんマシンで線を引き始めると、腕の震えはぴたりと止まった。マシンはいつもの練習のときと同じように、トヨの意思のまま、自由自在に操ることができた。肌に転写された紫の線の上を、一定の太さで、精確になぞることができた。
トヨのマシンの動きを、ケイとルミはじっと見守っていた。
マーガレットの花のうち、二輪と蕾は白だった。部分的には薄い緑や青が入る。しかし用意されたインクの色は、白ではなく、わずかに青を混ぜた、淡い水色だった。
美奈はすでに卑美子から聞いて知っていたが、トヨはケイとルミに、「日本人の皮膚は、メラニン色素という黄色っぽい色素を持っているので、白だけでは、皮膚の色素が混じり、どうしても黄色っぽくなってしまうんです。わずかに青を加えることによって、肌に入ると、きれいな白になるんですよ。ただ、青が多すぎると、水色っぽい色になってしまうので、加減が難しいですが」と説明した。
実際、美奈の肌に入っている白は、黄色っぽくならず、きれいな白だった。
二時間半ほどでマーガレットの絵は完成した。
右の乳房のすぐ下から、へその右下にあるバラの横までかかる大きさだった。
「ああ、疲れた」
美奈への施術が終わり、トヨは精も根も尽き果てたかのように呟いた。
苦痛から解放された美奈は、施術用のベッドから降りて、まず直接自分の目で見てから、大きな姿見に自分の脇腹を映した。
「わー、すてき。思っていたよりずっときれい」と美奈は感想を言った。言葉は平凡でも、万感がこもっていた。
「ほんと。すてき。これが私たちの友情のマーガレットね」とケイも賛嘆した。
「トヨさん、プロ第一号の作品とはとても思えない。卑美子先生にも負けないですよ」とルミも言った。
「だめよ、先生と比較しては。先生に申し訳ない。でも、私なりに全力は尽くしたわ。こんなこと言っちゃあミクさんには申し訳ないけど、ケイさん、ルミさんにはもっといい絵が彫れるよう、さらに頑張ります」
「ううん、全然申し訳ないことない。それでこそプロだと思います」と美奈はそんなこと当然とばかりに言った。
「消毒のため、アルコールをスプレーします。染みますけどごめんなさい」
トヨは美奈の新しいタトゥーにアルコールをスプレーし、ティッシュペーパーで血やインクの汚れをきれいにぬぐった。消毒用のエタノールを吹きつけられ、タトゥーを彫った部分がじんじんと染みた。美奈は思わず顔をしかめた。
デジタルカメラで何枚も写真を撮ってから、タトゥーを彫った部分にワセリンを塗り、ラップを貼り付けて事後の処置は終わった。二〇分ほどかけて後片付けをして、次の施術の準備をした。もう慣れているのか、後片付けや準備は手際がよかった。
デジカメで写した美奈のタトゥーの写真をA4判に印刷し、それを目の前のコルク製の掲示板に、見本としてピンで貼り付けた。
次はケイが、それからルミが左の太股に彫ってもらった。
美奈に彫るときは二時間半近くかかったのが、ケイのときは少し短くなり、ルミのときはさらに早く、二時間もかからず完成した。同じ図柄なので、だんだん慣れてきて、彫る時間も短くなっていった。
「とうとうやったわね、私たちの友情のマーガレット。すばらしいわ」とケイが言った。
「次は自分の脚に彫りますが、みなさん、どうします? かなり時間がかかったんで、疲れてるでしょう。もう帰りますか。明日は仕事ですし」とトヨが三人に訊いた。
「何言ってるんですか。私たち四人の友情のタトゥーですよ。トヨさんが終わるまで、みんな付き合いますよね」
「ええ。私たちより、彫っているトヨさんのほうがずっと疲れているはずですものね。私たちは平気です」と美奈も相づちを打った。ルミももちろん異論はなかった。
「ありがとうございます。それじゃあ、私も自分に彫っちゃいます。でも、その前に腹ごしらえしませんか。おなか空きました。ファミレスで弁当頼みますから」
「それも大賛成」と食いしん坊のルミがすぐさま賛成した。
メニューを見てオーダー品を決め、トヨがパソコンを使って、インターネットで注文した。
弁当が届くまでにトヨはルミに彫った機材などの後片付けをし、さらに自分に彫るための準備もした。
弁当を食べ終え、いよいよトヨは自分の太股に彫ることになった。
「自分の脚に彫るなんて、大変でしょう」と美奈は訊いた。
「いえ、いつも自分の脚に彫って練習してましたから、慣れてます。初めてのころは、人様の肌を彫るわけにはいかないから、自分の身体で練習するんですよ。おかげで私の脚や左腕は、下手なタトゥーだらけです」
そう言いながら、トヨは左腕の肘まで袖をまくった。手首から肘まで、花や蝶、四つ葉のクローバー、スカルなど、いろいろな絵が彫られていた。
「これ、全部自分で彫ったのですか?」とケイが感心して言った。
「はい、そうですよ。右腕には彫れないので、左腕に彫って練習しました。でも、腕の場合は、右手一本しか使えないので、皮膚をぐっと伸ばすことができないから、脚のほうが練習にはいいんです」と言いながら、今度は作務衣のズボンを脱いだ。左の太股から足首まで、右は膝から足首まで、自分の手が届くところには、びっしりタトゥーが入っていた。
「わ、すごい。これもみんな自分で練習したんだ」
ルミも目を見張った。
「彫り師の身体は、自分で彫ったり、弟子同士で彫り合ったりするから、汚いんです。先生も修業時代、自分の脚に彫って練習したそうです。でも、右の腿だけは、うまくなってから、自分できれいなのを入れようと思って、残しておいたのです」
「私ももしタトゥーアーティストになるなら、全身タトゥーで埋め尽くす覚悟が必要ですね」
漫画家かタトゥーアーティストを目指しているルミが、トヨに確認した。
「そうですね。うちで修業する場合は、全身練習で彫り尽くす覚悟が必要ですよ。先生もルミさんの絵はいい線行っているって言ってますから、頼めば一門で弟子にしてくれるかもしれないです」
「一門って、この前のコンベンションに見えた方たちですよね。でも私、卑美子先生のところがいいです。ほかのところ、怖そうです」
ルミは一〇月下旬に行われた、彫波一門のタトゥーコンベンションの光景を思い浮かべた。その中には卑美子以外にも、女性アーティストがいた。
「いえ、怖そうに見えますが、みんな気さくで優しい人たちですよ。うちは今、私一人で手一杯だから、難しいかもしれないですね。私よりルミさんのほうが先に先生の弟子になりたい、と言ってたそうですが、私が無理矢理、先生のところに押しかけてしまったから」
トヨは済まなさそうにルミに言った。実際、ルミは美奈が背中を彫ってもらうとき、何度か見学させてもらい、弟子になりたいという意志があることは卑美子に伝えていた。意志の表明ではルミのほうが早かったのに、行動ではトヨが先だった。
「でも、私からも先生に働きかけておきますね」とトヨは請け合った。
トヨは自分の腿の産毛を剃り、アルコールで拭いた。
水分をよく拭い取ってから、背筋を伸ばして立ち、転写シートを太股に当てた。
「どうですか? 絵、傾いてないですか?」
トヨは三人に尋ねた。
「ちょっと傾いてますよ」
「少し右」
「そんな感じです」
三人は転写する位置を細かく修正した。この位置がいい、と結論したところで、印をつけた。一度転写シートを剥がしてから、水を含ませたティッシュペーパーで肌を湿らせた。それから慎重に印に合わせて、転写シートを肌に当て、密着させた。そして湿ったティッシュペーパーで、転写シートの上をとんとんとはたいた。
しばらく経ってからシートを剥がすと、肌にはきれいに紫の絵が転写された。
トヨは鏡を見て、絵をチェックした。
「ありがとうございます。みんなのおかげで、きれいに転写できました」
トヨは椅子にかけて、三人が見守る中で、自分の太股に彫り始めた。自分に彫るときでも、きちんとマスクをし、ニトリルの薄い手袋をつけた。
「自分に彫るのは、辛くないですか?」と美奈が質問した。
「痛いです。自分で自分に拷問してるようなもんです」
自分に彫るときにはさすがに時間がかかった。二時間半かけて、ようやく彫り終えた。
「ああ、地獄だった。さすがにまいったな。もう限界。私はマゾではない、ということがよくわかりました」とトヨは冗談を言った。
四人、生涯消えない友情の絆として、同じマーガレットの絵を入れたのだった。
「このタトゥーが一生消えないように、私たちの友情も一生消えないのよ」とケイが感無量といった感じで言った。
「最初はちょっとした思いつきだったけど、こうして仲間四人、同じタトゥーを入れた、ということは、すごく重いことなのね。これからはどんなことがあっても、ずっと友達! 花言葉のとおり、真実の友情よ」
ルミも興奮していた。美奈は涙がこぼれそうだった。
帰る支度をして、「お金払います。おいくらですか」とケイが訊いた。
「あ、お金、けっこうです。私のわがままでプロ第一号、二号、三号を彫らせてもらったんだから。こっちが感謝したいぐらいです」
「だめですよ、そういうことはきちんとしなくては。遠慮しないで、取ってください」
「いえ、ほんとにいいですよ」
トヨは代金を受け取ろうとしなかった。
「でも、お金取らないと、プロといえないから、プロ第一号にはなりません」とルミが諭した。
「そうですよ。それに、私たちと友情のタトゥーを彫る許可をもらったとき、卑美子先生は馴れ合いはだめだ、とおっしゃったわ。だから、一線を引くためにも、料金は取るべきだと思います」と美奈も加わった。
「私たち、お店ではトップクラスの売れっ子だから、お金持ちなの。だから、遠慮しないで。ちなみに、ミクがお店のナンバーワンだけど。ちょっと嫉妬感じちゃうな」
ケイが冗談を交え、雰囲気を和らげた。
「そうですね。私、考えが甘かったです。ありがとう。では、一万五千円ずついただきます」
別れる前、美奈がトヨの背中の天女を見せていただけませんか、と頼んだ。
「そういえばまだ私の背中、見せたこと、なかったですね」
トヨは快く了承して、作務衣を脱いだ。
背中から臀部にかけて、羽衣を纏って、今にも天に向かって飛び立とうとしている天女が鮮やかに描かれていた。卑美子の作品だけに、優美で繊細な天女だった。天女を見せられた三人は、その美しさに目を見張った。左の二の腕には龍、右には虎が彫られていた。これらも見事な出来映えだった。
「ちょうどミクさんが先生のところで背中に観音様を彫っていた時期、私も彫ってもらっていたんですよ。龍がない分、私の絵のほうが小さいから、ミクさんより早く仕上がりましたけど」
「私が彫ってもらっているとき、トヨさんとトイレの前でばったり出会ったんですね。そのときの言葉が、おしっこ漏れちゃう、だったので、いまだにみんなにからかわれるんですよ」
美奈は恨めしそうな顔をして、ケイとルミを睨んだ。
「あら、まだそんなことで? 現場にいたわけでもないのに。女は執念深いですね」とトヨは笑った。
「当時私、サンライズという店に勤めていたから、ミクさんの噂も聞いてましたよ。お客さんが、オアシスに私よりもっと大きないれずみした女の子がいる、って言ってましたから。図柄が騎龍観音だというので、ひょっとしたら先生のところで彫ってもらっている人なのかな、って思ってました」
「サンライズなら、オアシスのすぐ近くですね。あの辺、同業の店が多いから。それだと、私たち、知らずにトヨさんとどこかで会っていたかも知れませんね」
ケイも気づかないところでトヨとは縁があったんだ、と感慨深げに言った。
「ほんと、そうですね。きっと私たち、どこかで出会ってますよ」とトヨも笑顔で応えた。
「さすがに卑美子先生の天女ですね。とてもきれいです。私も観音様じゃなく、天女にしてもよかったかな」
美奈が話題をトヨの背中の天女に戻し、天女の絵を賛嘆した。美奈も背中に彫るとき、観音様か天女か、どちらかにしようと考えている、と卑美子に相談を持ちかけた。結局千尋の背中の写真を見て、騎龍観音に決めたのだった。
「ミクさんの観音様もすてきですよ。先生が私の最高の作品の一つ、と言ってます。ほんとに、神々しいぐらいだから」
トヨも美奈の背中の騎龍観音を絶賛した。
「いいな。私も背中に入れたくなっちゃった。トヨさんに天女をお願いしようかしら」
ルミがうらやましげに言った。
「こんな私でもよければ、ぜひ彫らせてください。でも、正直言ってまだ先生にはとても及びませんけど」とトヨは謙遜した。しかしそれは本音でもあった。
「背中に彫る決心ついたら、連絡します」
「はい、お待ちしてます。ぜひ」
仕事を終えて、トヨの部屋にやってきた卑美子に、三人は今日彫ってもらったマーガレットのタトゥーを見せた。卑美子はトヨの作品に対し、「それだけ彫れれば、合格点ね。これからプロとして頑張ってください」と励ました。
実はこの日は卑美子の三六歳の誕生日だった。トヨには告げていなかった。しかしトヨがプロとして、この日に第一歩を歩み始めてくれたことが、卑美子にとっての最高の誕生日プレゼントであった。
三人がスタジオを辞したのは、夜一一時に近かった。
夏の間は、透明度がわるく、中央アルプスなど、遠くの山が見られませんでしたが、今日はよく見えました。御嶽山は雲がかかり、裾野しか見えませんでした。中央アルプスと恵那山です。遠くの山が見やすいように、明るさを調整しました。写真は曇って暗いように見えますが、実際は雲は多かったのですが、明るく晴れていました。
今回は『幻影』第20章です。
20
月曜日、約束の時間より早く、三人は卑美子のスタジオに到着した。
「先日は大変でしたね。今日はよろしくお願いします」とケイが卑美子とトヨに挨拶をした。続いて、美奈とルミも深く礼をした。
トヨはかえって恐縮し、「こちらこそお願いします」と頭を下げた。トヨはえんじ色の女性用作務衣を着ていた。
トヨは、先日三人が選んだ絵を基にして描き直した下絵を、三人に見せた。注文どおり、三輪のマーガレットのうち、真ん中の花がピンクに彩色してあった。陰になる部分は赤、先端に行くにつれて、薄いピンクに変化していた。
「すてき。さすがにトヨさんだ。みんな、これでいいよね」とケイが二人に訊いた。
「異議なし! 最高です」
「はい、これでいいです。とてもきれいです」
ルミと美奈の賛同が得られ、さっそく彫ることとなった。
最初は誰から彫ってもらうか、という順番について話し合った。美奈は年長のケイから、と主張したが、ケイとルミに、「トヨさんのプロ第一号はやっぱりミクでしょう」と押し切られてしまった。
卑美子がスタジオに使っている3LDKのマンションは、玄関から一番近い五畳相当の洋間を待合室、その隣の六畳の洋間を施術室としている。
今年からトヨもアーティストとして活動するようになり、奥の六畳の洋間がトヨの施術室に割り当てられた。
修業中のころは、トヨは待合室に客がいるときは、そちらで客に対応し、客がいないときは、卑美子の施術を見学していた。絵を勉強するときや、自分の身体に彫って練習するときは、奥の洋室を使っていた。この奥の部屋が事実上トヨの個室になっていた。夜遅くなり、この部屋で寝泊まりすることも多かった。
その奥の部屋が正式にトヨの施術室として与えられたのだった。ときどきお金がないけど彫りたい、という客に、練習です、と了承を得た上で、無料で彫ってもいたので、すでに施術室としての整備はされていた。
美奈は上半身下着だけになり、トヨの前で気をつけの姿勢をした。
トヨは黒縁のメガネをかけた。ふだんはメガネをかけていないが、車を運転するときや、タトゥーを彫るときなどにはメガネを使用していた。美奈に比べれば、近視の度合いは幾分軽かった。
トヨは美奈の背中を見て息を呑んだ。
「ミクさんのタトゥー、何度見ても本当にすごい。さすが先生。私がこの域に達するまで、何年かかるかしら。いや、一生先生には追いつけないかもしれない」とトヨは心の中で呟いた。
「こんなきれいなタトゥーの横に、私の絵なんか入れて、いいのだろうか」
マーガレットの絵の転写のために、トヨはミクの脇腹の広範囲に石けん水をスプレーし、拭き取ってから、今度は消毒用エタノールをスプレーした。
「はい、まっすぐ立ってください」
転写をするとき、背筋をピンと伸ばしていないと、絵がゆがんだりする。
トヨは慎重に位置を決め、転写シートを貼り付けた。
「おへそのピアスもすてきですね。ピンクのジュエリーがかわいいです」と転写の出来具合を確認しながら、美奈のへそのピアスに目をやった。
「これ、宝石ではなく、ガラス製の安物です」と美奈は応じた。
転写はうまくでき、いよいよ施術となった。
トヨは施術のときはマスクを着用した。
今日使用する予定の機材は、すでに人数分を高温高圧で滅菌し、一つひとつ密封されていた。タトゥーの施術には、肝炎などの感染のおそれがつきまとうが、衛生面もできる限りの対処がされていた。
「では始めますね。よろしくお願いします。いよいよ私のプロ第一号、やらせていただきます。ちょっと緊張します」
事実、トヨはひどく緊張していた。胸はドキドキ、というより、バクバク、といった感じだった。腕もぶるぶる震えている。
こんな状態で彫ったら、筋彫りのラインがめちゃくちゃになってしまう。
トヨは何度も、私はうまいんだ、何ら恐れることはない、と自分に言い聞かせ、深呼吸をした。それから、下腹にぐっと力を入れた。
さあ、やるぞ、と気合いをこめて、美奈の脇腹に、マシンの針を下ろした。美奈は目をぐっとつむり、激痛に耐えた。脇腹の痛みは、これまで経験したいれずみの施術の中でも、最も大きなものの一つと思われた。
いったんマシンで線を引き始めると、腕の震えはぴたりと止まった。マシンはいつもの練習のときと同じように、トヨの意思のまま、自由自在に操ることができた。肌に転写された紫の線の上を、一定の太さで、精確になぞることができた。
トヨのマシンの動きを、ケイとルミはじっと見守っていた。
マーガレットの花のうち、二輪と蕾は白だった。部分的には薄い緑や青が入る。しかし用意されたインクの色は、白ではなく、わずかに青を混ぜた、淡い水色だった。
美奈はすでに卑美子から聞いて知っていたが、トヨはケイとルミに、「日本人の皮膚は、メラニン色素という黄色っぽい色素を持っているので、白だけでは、皮膚の色素が混じり、どうしても黄色っぽくなってしまうんです。わずかに青を加えることによって、肌に入ると、きれいな白になるんですよ。ただ、青が多すぎると、水色っぽい色になってしまうので、加減が難しいですが」と説明した。
実際、美奈の肌に入っている白は、黄色っぽくならず、きれいな白だった。
二時間半ほどでマーガレットの絵は完成した。
右の乳房のすぐ下から、へその右下にあるバラの横までかかる大きさだった。
「ああ、疲れた」
美奈への施術が終わり、トヨは精も根も尽き果てたかのように呟いた。
苦痛から解放された美奈は、施術用のベッドから降りて、まず直接自分の目で見てから、大きな姿見に自分の脇腹を映した。
「わー、すてき。思っていたよりずっときれい」と美奈は感想を言った。言葉は平凡でも、万感がこもっていた。
「ほんと。すてき。これが私たちの友情のマーガレットね」とケイも賛嘆した。
「トヨさん、プロ第一号の作品とはとても思えない。卑美子先生にも負けないですよ」とルミも言った。
「だめよ、先生と比較しては。先生に申し訳ない。でも、私なりに全力は尽くしたわ。こんなこと言っちゃあミクさんには申し訳ないけど、ケイさん、ルミさんにはもっといい絵が彫れるよう、さらに頑張ります」
「ううん、全然申し訳ないことない。それでこそプロだと思います」と美奈はそんなこと当然とばかりに言った。
「消毒のため、アルコールをスプレーします。染みますけどごめんなさい」
トヨは美奈の新しいタトゥーにアルコールをスプレーし、ティッシュペーパーで血やインクの汚れをきれいにぬぐった。消毒用のエタノールを吹きつけられ、タトゥーを彫った部分がじんじんと染みた。美奈は思わず顔をしかめた。
デジタルカメラで何枚も写真を撮ってから、タトゥーを彫った部分にワセリンを塗り、ラップを貼り付けて事後の処置は終わった。二〇分ほどかけて後片付けをして、次の施術の準備をした。もう慣れているのか、後片付けや準備は手際がよかった。
デジカメで写した美奈のタトゥーの写真をA4判に印刷し、それを目の前のコルク製の掲示板に、見本としてピンで貼り付けた。
次はケイが、それからルミが左の太股に彫ってもらった。
美奈に彫るときは二時間半近くかかったのが、ケイのときは少し短くなり、ルミのときはさらに早く、二時間もかからず完成した。同じ図柄なので、だんだん慣れてきて、彫る時間も短くなっていった。
「とうとうやったわね、私たちの友情のマーガレット。すばらしいわ」とケイが言った。
「次は自分の脚に彫りますが、みなさん、どうします? かなり時間がかかったんで、疲れてるでしょう。もう帰りますか。明日は仕事ですし」とトヨが三人に訊いた。
「何言ってるんですか。私たち四人の友情のタトゥーですよ。トヨさんが終わるまで、みんな付き合いますよね」
「ええ。私たちより、彫っているトヨさんのほうがずっと疲れているはずですものね。私たちは平気です」と美奈も相づちを打った。ルミももちろん異論はなかった。
「ありがとうございます。それじゃあ、私も自分に彫っちゃいます。でも、その前に腹ごしらえしませんか。おなか空きました。ファミレスで弁当頼みますから」
「それも大賛成」と食いしん坊のルミがすぐさま賛成した。
メニューを見てオーダー品を決め、トヨがパソコンを使って、インターネットで注文した。
弁当が届くまでにトヨはルミに彫った機材などの後片付けをし、さらに自分に彫るための準備もした。
弁当を食べ終え、いよいよトヨは自分の太股に彫ることになった。
「自分の脚に彫るなんて、大変でしょう」と美奈は訊いた。
「いえ、いつも自分の脚に彫って練習してましたから、慣れてます。初めてのころは、人様の肌を彫るわけにはいかないから、自分の身体で練習するんですよ。おかげで私の脚や左腕は、下手なタトゥーだらけです」
そう言いながら、トヨは左腕の肘まで袖をまくった。手首から肘まで、花や蝶、四つ葉のクローバー、スカルなど、いろいろな絵が彫られていた。
「これ、全部自分で彫ったのですか?」とケイが感心して言った。
「はい、そうですよ。右腕には彫れないので、左腕に彫って練習しました。でも、腕の場合は、右手一本しか使えないので、皮膚をぐっと伸ばすことができないから、脚のほうが練習にはいいんです」と言いながら、今度は作務衣のズボンを脱いだ。左の太股から足首まで、右は膝から足首まで、自分の手が届くところには、びっしりタトゥーが入っていた。
「わ、すごい。これもみんな自分で練習したんだ」
ルミも目を見張った。
「彫り師の身体は、自分で彫ったり、弟子同士で彫り合ったりするから、汚いんです。先生も修業時代、自分の脚に彫って練習したそうです。でも、右の腿だけは、うまくなってから、自分できれいなのを入れようと思って、残しておいたのです」
「私ももしタトゥーアーティストになるなら、全身タトゥーで埋め尽くす覚悟が必要ですね」
漫画家かタトゥーアーティストを目指しているルミが、トヨに確認した。
「そうですね。うちで修業する場合は、全身練習で彫り尽くす覚悟が必要ですよ。先生もルミさんの絵はいい線行っているって言ってますから、頼めば一門で弟子にしてくれるかもしれないです」
「一門って、この前のコンベンションに見えた方たちですよね。でも私、卑美子先生のところがいいです。ほかのところ、怖そうです」
ルミは一〇月下旬に行われた、彫波一門のタトゥーコンベンションの光景を思い浮かべた。その中には卑美子以外にも、女性アーティストがいた。
「いえ、怖そうに見えますが、みんな気さくで優しい人たちですよ。うちは今、私一人で手一杯だから、難しいかもしれないですね。私よりルミさんのほうが先に先生の弟子になりたい、と言ってたそうですが、私が無理矢理、先生のところに押しかけてしまったから」
トヨは済まなさそうにルミに言った。実際、ルミは美奈が背中を彫ってもらうとき、何度か見学させてもらい、弟子になりたいという意志があることは卑美子に伝えていた。意志の表明ではルミのほうが早かったのに、行動ではトヨが先だった。
「でも、私からも先生に働きかけておきますね」とトヨは請け合った。
トヨは自分の腿の産毛を剃り、アルコールで拭いた。
水分をよく拭い取ってから、背筋を伸ばして立ち、転写シートを太股に当てた。
「どうですか? 絵、傾いてないですか?」
トヨは三人に尋ねた。
「ちょっと傾いてますよ」
「少し右」
「そんな感じです」
三人は転写する位置を細かく修正した。この位置がいい、と結論したところで、印をつけた。一度転写シートを剥がしてから、水を含ませたティッシュペーパーで肌を湿らせた。それから慎重に印に合わせて、転写シートを肌に当て、密着させた。そして湿ったティッシュペーパーで、転写シートの上をとんとんとはたいた。
しばらく経ってからシートを剥がすと、肌にはきれいに紫の絵が転写された。
トヨは鏡を見て、絵をチェックした。
「ありがとうございます。みんなのおかげで、きれいに転写できました」
トヨは椅子にかけて、三人が見守る中で、自分の太股に彫り始めた。自分に彫るときでも、きちんとマスクをし、ニトリルの薄い手袋をつけた。
「自分に彫るのは、辛くないですか?」と美奈が質問した。
「痛いです。自分で自分に拷問してるようなもんです」
自分に彫るときにはさすがに時間がかかった。二時間半かけて、ようやく彫り終えた。
「ああ、地獄だった。さすがにまいったな。もう限界。私はマゾではない、ということがよくわかりました」とトヨは冗談を言った。
四人、生涯消えない友情の絆として、同じマーガレットの絵を入れたのだった。
「このタトゥーが一生消えないように、私たちの友情も一生消えないのよ」とケイが感無量といった感じで言った。
「最初はちょっとした思いつきだったけど、こうして仲間四人、同じタトゥーを入れた、ということは、すごく重いことなのね。これからはどんなことがあっても、ずっと友達! 花言葉のとおり、真実の友情よ」
ルミも興奮していた。美奈は涙がこぼれそうだった。
帰る支度をして、「お金払います。おいくらですか」とケイが訊いた。
「あ、お金、けっこうです。私のわがままでプロ第一号、二号、三号を彫らせてもらったんだから。こっちが感謝したいぐらいです」
「だめですよ、そういうことはきちんとしなくては。遠慮しないで、取ってください」
「いえ、ほんとにいいですよ」
トヨは代金を受け取ろうとしなかった。
「でも、お金取らないと、プロといえないから、プロ第一号にはなりません」とルミが諭した。
「そうですよ。それに、私たちと友情のタトゥーを彫る許可をもらったとき、卑美子先生は馴れ合いはだめだ、とおっしゃったわ。だから、一線を引くためにも、料金は取るべきだと思います」と美奈も加わった。
「私たち、お店ではトップクラスの売れっ子だから、お金持ちなの。だから、遠慮しないで。ちなみに、ミクがお店のナンバーワンだけど。ちょっと嫉妬感じちゃうな」
ケイが冗談を交え、雰囲気を和らげた。
「そうですね。私、考えが甘かったです。ありがとう。では、一万五千円ずついただきます」
別れる前、美奈がトヨの背中の天女を見せていただけませんか、と頼んだ。
「そういえばまだ私の背中、見せたこと、なかったですね」
トヨは快く了承して、作務衣を脱いだ。
背中から臀部にかけて、羽衣を纏って、今にも天に向かって飛び立とうとしている天女が鮮やかに描かれていた。卑美子の作品だけに、優美で繊細な天女だった。天女を見せられた三人は、その美しさに目を見張った。左の二の腕には龍、右には虎が彫られていた。これらも見事な出来映えだった。
「ちょうどミクさんが先生のところで背中に観音様を彫っていた時期、私も彫ってもらっていたんですよ。龍がない分、私の絵のほうが小さいから、ミクさんより早く仕上がりましたけど」
「私が彫ってもらっているとき、トヨさんとトイレの前でばったり出会ったんですね。そのときの言葉が、おしっこ漏れちゃう、だったので、いまだにみんなにからかわれるんですよ」
美奈は恨めしそうな顔をして、ケイとルミを睨んだ。
「あら、まだそんなことで? 現場にいたわけでもないのに。女は執念深いですね」とトヨは笑った。
「当時私、サンライズという店に勤めていたから、ミクさんの噂も聞いてましたよ。お客さんが、オアシスに私よりもっと大きないれずみした女の子がいる、って言ってましたから。図柄が騎龍観音だというので、ひょっとしたら先生のところで彫ってもらっている人なのかな、って思ってました」
「サンライズなら、オアシスのすぐ近くですね。あの辺、同業の店が多いから。それだと、私たち、知らずにトヨさんとどこかで会っていたかも知れませんね」
ケイも気づかないところでトヨとは縁があったんだ、と感慨深げに言った。
「ほんと、そうですね。きっと私たち、どこかで出会ってますよ」とトヨも笑顔で応えた。
「さすがに卑美子先生の天女ですね。とてもきれいです。私も観音様じゃなく、天女にしてもよかったかな」
美奈が話題をトヨの背中の天女に戻し、天女の絵を賛嘆した。美奈も背中に彫るとき、観音様か天女か、どちらかにしようと考えている、と卑美子に相談を持ちかけた。結局千尋の背中の写真を見て、騎龍観音に決めたのだった。
「ミクさんの観音様もすてきですよ。先生が私の最高の作品の一つ、と言ってます。ほんとに、神々しいぐらいだから」
トヨも美奈の背中の騎龍観音を絶賛した。
「いいな。私も背中に入れたくなっちゃった。トヨさんに天女をお願いしようかしら」
ルミがうらやましげに言った。
「こんな私でもよければ、ぜひ彫らせてください。でも、正直言ってまだ先生にはとても及びませんけど」とトヨは謙遜した。しかしそれは本音でもあった。
「背中に彫る決心ついたら、連絡します」
「はい、お待ちしてます。ぜひ」
仕事を終えて、トヨの部屋にやってきた卑美子に、三人は今日彫ってもらったマーガレットのタトゥーを見せた。卑美子はトヨの作品に対し、「それだけ彫れれば、合格点ね。これからプロとして頑張ってください」と励ました。
実はこの日は卑美子の三六歳の誕生日だった。トヨには告げていなかった。しかしトヨがプロとして、この日に第一歩を歩み始めてくれたことが、卑美子にとっての最高の誕生日プレゼントであった。
三人がスタジオを辞したのは、夜一一時に近かった。