売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

メマトイ

2012-09-20 19:10:47 | 小説
 弥勒山に登るとき、顔の周りを小さな蠅のような昆虫がたくさんつきまとい、不快な思いをします。メマトイという、ショウジョウバエの仲間の昆虫のようです。メマトイというのは、固有の種の名称ではなく、顔の周りにつきまとう、小さなショウジョウバエのような虫の総称だそうです。メマトイのことは、『幻影』『ミッキ』にも取り上げました。『幻影』で、美奈がメマトイを鼻孔から吸い込んでしまい、しばらくして口から吐き出した、というエピソードは、私が実際に体験したことです。

 家庭にもゴミ箱などを飛び交う、コバエがたくさんいますが、これもショウジョウバエの仲間です。今年の夏は、コバエ用の捕獲器を置いたら、ほとんどコバエが出なくなりました

 それで、同じショウジョウバエの仲間なら、メマトイもこの捕獲器で捕まえられるかなと思い、山歩きの時に、持って行きました。

 しかし、メマトイはほとんど捕獲器には反応しませんでした。2匹、捕獲器に迷い込んだだけでした。

 今回は『幻影』第19章を掲載します。後半に、【「あのオジン、公権力で嵩にかかって。あの態度、許せない。今度会ったら、ぶっ飛ばしてやりたい」
 ルミはまだ憤懣やるかたない、という感じだった。
「あんたには無理」とケイがルミに言った。】
という場面がありますが、この部分は、ドラゴンボールの、セルを倒したあと、ヤムチャが18号に捨て台詞を放った部分のパロディです。この部分、著作権や盗作などの問題にならないか、担当編集者の方に相談したところ、この程度のパロディなら問題ない、とアドバイスをいただきました。




             19

 翌日、美奈、ケイ、ルミの三人は、指定の時刻前に喫茶店に集合してから、卑美子のスタジオに向かった。
 スタジオに入ると、開口一番、三人はトヨに向かって、「プロデビュー、おめでとうございます」と合唱した。
「実は先生がケイさんにアゲハチョウを彫った後、みんなが帰ってから、私、先生のおなかに鳳凰を彫ったんです。前々からミクさんに彫った絵を基にして、先生のおなかに収まるように、私自身のオリジナルを作るように言われてて。おへそにかからないようにデザインする、というのが、けっこう難しかったけど。結局それが私のプロへの試験だったわけ。それで、一昨日、今年からお金を取ってお客さんに彫ってよい、と許可が出たんです」
 トヨは満面の笑みだった。
「おなか、痛そうですね」とルミが顔をしかめた。
「先生は背中にも手足にもびっしり入っているから、おなかしか残ってなかったですからね。それに、おなかなら鏡を使わなくても、自分の目で直接見て採点できますから。脇腹がけっこう痛かったそうですよ」
 トヨは試験のことをかいつまんで話した。
「そういえば、卑美子先生の背中には、どんな絵が入っているんですか?」と美奈がトヨに尋ねた。美奈は卑美子の腕と脚のタトゥーしか見たことがない。
「先生の背中は、母子の二匹龍が入っていますよ。龍といっても、子供を慈しむお母さん龍が、とても優しそう。彫波師匠の作品です。額彫りといって、周りも黒く染めてあるので、迫力があります」
「へえ、母子龍ですか。かっこいいですね。昔、オアシスにも背中に龍を彫っている人、いましたけど」
 ケイは以前の同僚だったアカネは今、どうしているのかしら、と思いながら言った。アカネとはけっこう話をする仲だったが、ルミが入店してまもなく、連絡もなく店に来なくなってしまった。その後、一度も会っていない。
 トヨはすでに何枚かのマーガレットの絵を用意していた。
「花の図鑑やインターネットの画像を参考に描きました」と言って、トヨは絵を見せてくれた。絵はみなすばらしいものだった。ふつうの一重咲きの花だけでなく、八重咲きのものもあった。中には中心の蕊の部分に顔を描いた、少し漫画ふうに表現された絵もあったが、それはそれでよかった。
「ルミはこれがいいんじゃない?」
 ケイがその漫画ふうの絵を選んでルミに勧めた。
「うん、私、この絵気に入ってる。でも、みんな同じ絵にするんだよ」
「あ、そうだった。みんな同じ絵を彫るんだったわね」
 三人でしばらくどれにするかを話し合った。
「ここにある絵にこだわらず、要望があれば、どんどん描きますから言ってください。遠慮なく注文つけてくださいね。色もピンクや黄色、その他の色でもいいですよ。色鉛筆で塗って、イメージサンプルを作りますから」
 トヨは絵に関してはいくらでも変更できると言った。
 三人が選んだ絵は、長径五センチから六センチの花が三輪、小さな蕾と切れ込みが入った葉が二枚ついた絵だった。花の色は白が基調で、部分的に薄い緑色や青が使ってあった。花は真上から見たものではなく、やや斜め上から見たものであり、陰になる部分が淡い緑色で、立体的に仕上がっていた。
「この中で、真ん中の一輪だけピンクにしてもらえませんか?」とケイが注文した。
「はい、いいですよ。では、後でちょっと塗り直してみます」
「三人、同じ絵でお願いします。みんなで同じ絵を彫ることが、今回一番大事な意義ですから」
「同じタトゥーが友情の絆、花言葉は真実の友情、ですね。ほんと、すてきな試みだと思います。人間が彫るんですから、寸分違わず、というのは無理でも、極力同じになるよう心がけます」
「ごめんなさいね。デビュー作だというのに、難しい注文つけて」とケイが申し訳なさそうに言った。
「いえ、かまいませんよ。何事も勉強です。それより、そんなすてきな意味のあるタトゥーを一番最初に彫れるなんて、とても光栄です。みんなの友情が一生続くよう、祈りを込めて彫らせていただきます」
「ありがとうございます」
「彫る場所はもう決まってますか?」
「ほんとは三人同じ場所に彫れればいいんですけど、ミクはもうずいぶん埋まっちゃってるので。ケイさんと私は左の太股、ミクは右脇腹にする予定です」
 ルミが代表して答えた。
「いちおうどんな感じになるか見るため、彫る場所に大雑把な絵を転写してみましょうか」と言って、トヨは手際よく転写用シートを三枚作った。大雑把と言いながら、かなり細密に描かれていた。
 転写をしようというところで、「そういえば今日はみなさん、夕方からお仕事でしたね。転写しちゃうと、インクがなかなか消えないから、やめといたほうがいいですよ」とトヨが気づいた。
「大丈夫です。仕事前によく洗っておきますから。それより、どんな感じになるか、早く見てみたいです」と美奈が頼んだ。他の二人も転写してみたい、と言った。
 トヨは希望の場所を確認して、慎重に位置を決めた。転写する前にトレーシングペーパーに描き写した下絵を肌に当てた。転写シートを直接使うと、汗などでインクが肌についてしまうので、最初の位置決めはトレーシングペーパーに描き写した絵を使った。
 ケイとルミは左の太股の前の部分、腿の付け根のやや下のところから、幅一二センチ、長さも茎の部分を入れると、一二センチほどのマーガレットの花が紫色に転写された。
 美奈は右脇腹、みぞおちの右あたりからへその少し下まで、最初に入れたバラの花にかからないように転写してもらった。
「ミクさん、このバラと蝶が初めて彫ったタトゥーなんですね」
 転写が終わってから、美奈の下腹に彫られた絵を見て、トヨが言った。
「みなさん、大きさ、どうですか? 大きすぎるようなら、もう少し縮小します」
 トヨがサイズを尋ねた。
「最初考えてたのより、心持ち大きいけど、でもこれぐらいのほうが見栄えがあっていいですね。みんな、どう? 大きさも三人同じにしたいよね」とケイが二人に訊いた。
「私、これでいい」
「私もいいです」
 ルミと美奈もその大きさで同意した。
「ではこれでお願いします」とケイが三人を代表して言った。
 施術の日は、三人が公休日の次の月曜日と決まった。一人二時間以上かかりそうなので、少し早めに、正午から始めることした。三人とも一日で仕上げる予定だ。
「三人も続けて大丈夫ですか?」と美奈がトヨを気遣った。
「平気ですよ。プロになれば、一日三、四人は彫る覚悟ですから。三人とも同じ絵なので、かえって楽ですよ。一生懸命やりますので、どうかよろしくお願いします」
 トヨは深々と頭を下げた。
「こちらこそお願いします」
 三人も礼を返した。
「さ、おなか空いた。食事に行きましょう。もう一時を回ったので、空いてると思いますよ」
 トヨは三人を促した。

 そのときだった。インターホンのチャイムが鳴った。
「はい、どなたですか? スタジオの営業は明日からですが」とトヨが応えた。
「県警のものですが、ちょっとお訊きしたいことがありますので、お時間いただけますか?」
 若い男の声だった。お時間いただけますか、と言いながら、今から食事に出かけますから、後にしてください、と断れる相手ではないことは明らかだった。さすがのトヨも、県警、という言葉に、緊張した。
 ドアを開けると、男が二人立っていた。一人は五〇年配の、がっしりした体型の男。もう一人は若く背が高い、刑事としてはややひ弱な感じの男だった。
 二人は身分証明として、警察手帳を見せた。
「僕は県警の三浦といいます。こちらは篠木署の鳥居刑事」と若い、背が高いほうの刑事が自己紹介をした。
 三浦を見て、美奈ははっと思った。三浦も美奈を認めた。しかし、三浦は隣にいる年配の刑事の目を気にしてか、何も言わなかった。
 いれずみという仕事は、正確にいえば、医師法違反を犯している。医師の免許もないのに、他人の肌を針で傷つける行為は医師法に反していた。トヨはその取り締まりかと思い、不安で軽いめまいを覚えた。先生がいないときに、どう対応すればいいのだろうか。
 そんな様子を察した美奈は、「大丈夫です。刑事はある事件のことについて訊きに来たのだと思います」と、そっとトヨに耳打ちした。
 刑事たちは待合室に入ってきた。鳥居という年配の刑事は、待合室をきょろきょろ見回した。部屋の中は、先ほど美奈たちが見ていたマーガレットの下絵が散らかっているほかは、きちんと整頓されていた。
「なんだね。あんたらのような若い女の子でも、いれずみなんかするのかね」と鳥居は美奈たちを睨んだ。
「いれずみは、やくざ者がすることだ。とーれーことはやめときゃー」と怒鳴り始めた。
 なによ、それじゃあ営業妨害じゃないの、今はタトゥーもファッションなのよ、と怒鳴ってやりたかったが、さすがに気が強いルミも、この年配の刑事に気圧(けお)されて、何も言い返すことができなかった。
「ちょっと、鳥居さん、今日はそんな説教をしに来たんじゃありませんよ」
「それはそうだが、こんな若い女の子たちが、いれずみするなんて、刑事としてはほかっとけんがや。いれずみは犯罪だぞ」
 ルミは「なんだよ、こいつは。戦前じゃないんだぞ」と心の中で呟いた。
「違いますよ。今は一八歳未満の未成年にでも入れない限り、犯罪ではありません。まあ、医師法違反には目をつぶるとしてですけど。それより、訊くことがありますから」と三浦という若い刑事が年配の刑事をなだめた。
「今日我々が来たのは、ちょっと伺いたいことがありましてね。ある事件の関係で、背中に大きないれずみ、たぶん人物と、それに絡む龍の絵だと思いますが、二年以上前にそんな絵を彫った女性で、今、行方不明になっている人に心当たりはありませんか?」
 トヨはスタジオ自体に問題があったのではない、ということがわかり、少しは安心した。まさに美奈の言うとおりだった。しかし、美奈はなぜそんなことがわかったのだろうか、疑問に思った。
 ケイとルミは、スタジオの問題ではないとわかったものの、突然の刑事の来訪に怯えていた。仕事柄、タトゥースタジオも特殊浴場も警察の介入を嫌う。もっとも、特殊浴場を取り締まるのは、捜査一課ではなく、風紀係なのだが。
 やはりその件だったのだ、と美奈は思った。どうするべきか、と迷ったが、先日千尋が出てきたのは、たぶん自分の遺体のことを知らせて、供養をしてほしい、ということだと思う。そして、できれば事件を解決してほしいのだろう。
 自分がここにいるとき、刑事が訪ねて来たのは、おそらく千尋の導きだろう。
 千尋も二年間も山の中に埋められたままで、生死不明で供養もしてもらえず、苦しかったのだろう。そんな千尋のことを考えると、涙が出そうだった。
 鳥居はともかく、若い三浦なら、話を聞いてくれそうだ。この刑事に話してみよう。そう美奈は心を決めた。
「あの、刑事さん」
 美奈は三浦に声をかけた。
「何だ、おみゃーさんは。俺たちはこちらの彫り師のセンセに訊いとるんだがや」と鳥居は美奈を睨んで言った。
「まあまあ、鳥居さん」と三浦は年配の刑事を牽制して、「何だい?」と美奈の方を向いた。
「刑事さんたちが言っていた女性、おそらく橋本千尋さんという人だと思います」
「なに!」「何だって?」と二人の刑事は同時に叫んだ。
「おみゃー、何でそんなこと知っとるんだ?」と鳥居が怒鳴った。
「詳しく話してもらえませんか」と三浦は優しく頼んだ。三浦は一昨日すでに美奈に会っていることは、あえてこの場では言わなかった。その話に触れれば、鳥居が何を言い出すか知れたものではなかった。遺体遺棄の現場に現れたのは怪しい、ということで、そのまま美奈をしょっぴきかねなかった。美奈は三浦のその配慮がありがたかった。
 美奈は、自分は千尋と同じ騎龍観音のいれずみを背中に彫っていること、自分がその図柄を選んだ理由は、卑美子の下絵が非常に美しかったことに加え、その図柄が彫られた千尋の背中の写真を見て、自分もこの絵をぜひとも背中に欲しくなったためであることを告げた。
 美奈としては、この若い刑事には、自分の身体にいれずみがあることを隠しておきたかったが、場所がタトゥースタジオだけに、話さざるを得ないように思われた。
「ほう、おみゃーさんみたいなかわいい女の子が、背中一面に彫っとるんか。まったく最近の若い女は何を考えとるんだ」とわざとらしく大声で嘆いた。
「鳥居さん、まだ話の途中ですよ。話の腰を折らないでください」と鳥居に注意し、それから美奈に向かって「すまない、気分を害したら、許してください」と謝った。
 美奈は年配の刑事は気に入らなかったが、若い三浦には好感を持った。
 美奈は話を続けた。自分と同じ図柄を彫っている千尋に興味を抱き、ぜひ一度会ってみたいと思った。本来なら、客のプライバシー、情報は他の客には絶対教えないことになっているが、美奈を信頼している卑美子は、千尋と連絡が取れれば、千尋の許可を得た上で、会えるように取り計らってあげる、と言ってくれた。だが、赤ちゃんを産むから、しばらくいれずみはお休みします、という連絡を受けて以来、ずっと千尋から連絡が途絶えている、ということを話した。
「なるほど。連絡がなくなってから二年以上なのか。遺体も死後約二年と符合しますね。それに、テレビや新聞では報道していませんが、遺体は妊娠していました。それも符合します。いれずみもありますし、あなたの言うように、遺体は橋本千尋さんである可能性は十分考えられます」
 三浦は美奈の話に納得した。遺体はおそらく美奈が言うように、橋本千尋のものだろう。
「その橋本千尋という女の写真、あるなら、提供してもらおう。おい、おみゃあ、写真、持ってこやあ」
 鳥居はトヨに命じた。おまえ、持ってこいと言うより、名古屋弁でおみゃあ、持ってこやあ、と言ったほうが、多少は柔らかく聞こえた。
「写真は先生が保管しているので、私にはどこにあるか、わかりません」
「それなら、そのセンセーとやらを、ここに来るように呼んでちょう」
「先生は今日お休みを取っています。明日は来ますので、明日出直してもらえませんでしょうか」
「たーけか! これは殺人事件の捜査なんだがや。すぐ来るように連絡するんだ」
 鳥居はトヨを怒鳴りつけた。
「これは殺人事件の捜査なんだ、という台詞は推理小説の常套文句だけど、本物の刑事も使うんだ。しかも名古屋弁丸出しで」
 はたで聞いていたルミが、変なことに感心して、小声でケイに話しかけた。
「でも、あのオジン、なに威張ってるのよ、権力の横暴だわ」
「鳥居さん、そんな居丈高に言わなくても。トヨさん、すまない。でも、鳥居刑事が言ったように、これは殺人事件なんです。申し訳ないですが、その先生に、連絡取っていただけませんか?」
 三浦は無礼を詫び、トヨに依頼した。
「わかりました。先生に連絡してみます」
 携帯電話でトヨが卑美子に連絡すると、卑美子はすぐに行く、と返事をした。卑美子はスタジオにしているマンションの近くに、サラリーマンの夫と二人で、一戸建ての家を建てて住んでいる。歩いても二〇分ほどの距離だ。
 それからすぐ、卑美子はバイクで駆けつけてきた。
 スタジオに着いた卑美子は、鳥居の顔を見て、ちょっと驚いたような表情をした。鳥居も一瞬目を見張った。二人は旧知の間柄のようだった。
 卑美子は千尋の写真と免許証のコピーを刑事に提供した。卑美子の供述も、先ほどの美奈の話とおおよそ合致した。三浦は卑美子に千尋の勤め先を知らないかと尋ねたが、会社員で、オフィスが駅西にある、ということしか聞いていない、と答えた。
 三浦は「また訊くことがあるかもしれないから、連絡先を教えてくれませんか」と美奈に尋ねた。三浦は鳥居から見えないように、口の前に右手の人差し指を立てた。すでに話してあるのだが、鳥居の手前、わざわざ訊いているのだということを、美奈は理解した。美奈は住所と携帯の電話番号を伝えた。

「先生、すみません。せっかくのお休みだったのに」
「いえ、トヨのせいではないわ。でも、千尋さん、やっぱり殺されていたのですね。むごいことをする人がいるもんです」
 卑美子の目は潤んでいた。
「私もちょっと出過ぎた真似をしました。すみませんでした」と美奈は卑美子に頭を下げた。
「いいえ、警察に協力するのは国民の義務ですから、ミクちゃんも気にすること、ないですよ。どうせ遅かれ早かれ刑事は聞き込みに来たでしょうから。千尋さんも早く事件を解決してもらって、成仏したいでしょうし。それより、みんな災難でしたね。せっかく友情のタトゥーの打ち合わせをしていたのに。トヨもデビュー作で張り切っていたんですけどね」
 卑美子は一呼吸置いてから、「あの鳥居という年配のほうの刑事さんね、もう二〇年近く前になるかしら、私がレディースやってたころ、世話になったことがあるのよ。私より、当時ゾクのヘッド張ってた私の今の旦那のほうが、もっと世話になったけど」と、青春時代を回想した。
「先生、昔レディースやってたんですか?」と美奈が訊いた。
「トヨには話したことあるけど、これでも昔は突っ張っちゃって、ずいぶん無茶もやったもんですよ。特に旦那は暴走行為だけでなく、悪逆の限りを尽くして暴れ回っていた、という感じ。あの刑事さんには、さんざんお世話になってるの。今は立ち直って真面目なサラリーマンになってるけどね。あの刑事さん、あれでけっこういいところがあるんだから。私も旦那もネンショー送りになったことがあるけれど、特に旦那の更正には力になってくれたわ。あの刑事さんがいなければ、旦那はたぶんどこかの組に入ってやくざになっていたでしょうね。私と結婚することもなかったと思う」
 卑美子が過去暴走族に入っていて、少年院にも送られたことがある、ということを、美奈は初めて知った。今の物静かな卑美子からは、とても考えられなかった。
「へえ、あのデカさん、とてもいいところがあるなんて、思えませんけど、人は見かけによらないんですね」とルミが口を出した。
「ちょっと見た感じでは、刑事というより、まるでやくざですからね」と卑美子も笑った。
「どうしましょうか? なんか、ケチついちゃいましたが、月曜日、やりますか?」
 トヨが恐る恐る三人に尋ねた。
「当然よ、あんな権力のイヌに邪魔されたからといって、やめるようなヤワな友情じゃないわ」とルミが憤然として言った。
「そうよ、負けてなるもんですか。月曜日、ぜひともお願いします。ミクもいいよね」
「もちろんです。私たちの友情の証、絶対彫りましょう」
 三人は断固として結束した。
「それで、お願いなんですが、私にもその友情のタトゥー、彫らせてもらえますか?」
 トヨは三人に頼んだ。しかし一瞬、三人はトヨの言わんとしていることが、わからなかった。
「もちろん、私たち、トヨさんに彫ってもらいたいんですが」とケイが言った。
「いえ、私の身体にも、みんなと同じ友情のマーガレットを彫りたいんです。私も友情の仲間に入れてください。本当は彫り師とお客さんがあまり馴れ馴れしくするのはよくないけど、みんなとはこれから親友として付き合っていきたいんです。私だって、三年間、みんなと同じ仕事してきたんですし。先生、いいでしょう?」
「仕方ないですね。本来ならタトゥーアーティストとお客さんとは一線を引いてほしいんですけど、ケイさん、ルミちゃん、ミクちゃんとなら、許可してあげましょう。ただし、彫るときは、馴れ合いは厳禁ですよ」
「ありがとうございます。先生の許可も出たので、どうかよろしくお願いします」
「もちろんです。トヨさんが友情の輪に入ってくれるなんて、とてもうれしいですよ」とケイが三人の総意をまとめた。
「トヨさん、タトゥーは自分で彫るのですか?」とルミが尋ねた。
「はい、右の腿に彫れるスペースが残っているから、自分で彫ります。転写のときだけ、手伝ってくださいね。自分の身体に自分一人で転写すると、傾いたりしますから」
「うわ、自分で自分に彫るなんて、想像しただけでも痛そう」とルミが顔をしかめたので、みんなが大笑いした。
 予想外の刑事の来訪で、もう二時を回っていた。ファミレスで食事をする時間はなかった。
「お昼抜きで仕事なんかしたら、ぶっ倒れちゃう。あまり時間がないから途中で吉牛か松屋でも寄っていこうよ。マックでもいいけど、やっぱりお米のご飯が食べたい」とルミが提案した。

 その夜、勤務を終え、ミドリを加えた四人は、いつものファミレスで軽く食事をしながら話し合った。
「そう、そんなことがあったの? 大変だったね」
 ミドリが驚いた。
「殺人事件がこんなに身近で起こっていたなんて、日本の安全神話は崩壊ね」
「今日のミク、かっこよかった。私とルミは、オジンの方のデカが怖くて、何も言えなかったけど、ミク、堂々としてたから。見直しちゃった」
「あの三浦という若い刑事さんは話しやすかったからです。オジンのほうはやっぱり怖かったけど」
 美奈もみんなにつられ、オジンという言葉を使ってしまった。
「あのオジン、公権力で嵩にかかって。あの態度、許せない。今度会ったら、ぶっ飛ばしてやりたい」
 ルミはまだ憤懣やるかたない、という感じだった。
「あんたには無理」とケイがルミに言った。
「それに、卑美子さんがあれで意外といいところもある、と言ってたし」
「あの刑事さん、すてきだったな。背が高くてかっこよくて、優しそうで。浅見光彦みたい」
 美奈は斜め上に視線を向けて、うっとりしたような口調で言った。
「え、今のミクの台詞、みんな、聞いた? なんかミクらしくない」とケイは意外そうな顔をした。
「うん、聞いた聞いた」と二人は頷いた。
「ミクったら、もう唾つけてたの? 隅に置けないね」とケイが言った。
「無理無理、全身いれずみの泡姫とデカさんでは、絶対結ばれっこない」
 ルミが現実的なことを言って茶化した。
「そんなんじゃないですぅ、ただすてきだと思っただけです。それに、もう結婚してるかもしれないし」と美奈は顔を赤らめてムキになって否定した。美奈は三浦が指に結婚指輪をはめていないことに気づいていた。

 赤いミラで三人を家に送ってから、家路を急いだが、高蔵寺の自宅に着いたのは午前三時を回っていた。最近は夜中の三時過ぎに寝て、朝九時から一〇時に起きる、という生活パターンになっている。勤務のシフトをもっと早い時間にずらそうか、と思いながらも、遅い時間のほうが客も多く、店からも今のシフトで続けてほしい、と要望され、変更できないでいる。
 ケイたちも同じシフトで働いているので、職場で顔を合わせられるし、終わった後、みんなでファミレスやバーにも行ける。
 店に近い名古屋市内に引っ越そうと思わないでもないが、美奈は緑が多い高蔵寺の自然が気に入っていた。山歩きが趣味の美奈は、道樹山から弥勒山を縦走する東海自然歩道のコースが好きで、ときどき歩いていた。美奈は道樹山、大谷山、弥勒山の四〇〇メートルを超える山に、弥勒三山と名付けていた。この三つの山は、愛岐三山と呼ばれることもある。
 しばらくはこのままで行こう。完全に生活が昼夜逆転しているわけでもないし。
 美奈は歯磨きと洗顔を済ませ、すぐ布団にもぐり込んだ。一月の夜中の寒さは、布団にもぐっても、すぐには身体を温めてくれなかった。
 うとうとし始めたとき、また何かが近くにいる、という気配を感じた。千尋さんだ、と直感した。
「今日(正確には昨日)、刑事さんたちに、千尋さんのことを話したけど、あれでよかったでしょうか?」
 美奈は心の中で千尋に話しかけた。すると、千尋はにっこり微笑んだ。心の中に、かすかに「ありがとう」と響いたような気がした。
 きっとあの三浦という刑事が、犯人を捕まえて、事件を解決してくれる。美奈はそう信じることにした。